予告編だと思ったら本編だった話

祖父母に会うたびに、いたく向こうがよろこぶ。ただ自分が顔を見せただけなのに。それは存在を肯定されたようでうれしいけど、どことなくむずがゆく思っていた。――これは、少なくない人に共通する、現在ないし過去に覚えた感傷なのではないだろうか。

でも、なぜ? どうして、あんなにうれしそうにするのか?

「そりゃあ子孫の繁栄を願う生き物としての根源的な感情だからですよ」――そうやってわかったふうな口ぶりをする人がいるかもしれない。でも、そんな説明では私は納得しない。だってあまりに浅い理解じゃあないか。老境に人が抱く気持ちを何一つ描いてみせていないではないか。


人生というのは、出生から成人までがその本編で、あとは余韻が響いているだけなのだ。人生の旋律は出生から成人まで鮮やかなリズムを奏でるが、そこからは先細っていくだけなのだ。だから、人はカノンのように旋律を後から後から重ね合わせる。それが子孫だ。

自分自身の幼年期から青年期を生き終ったら、もう人生の一周目は終了だ。次は子どもを持つことで二周目を生きる。そのうちに子どもも大人になり巣立っていく。そうしたら、孫を待ち遠しく思う。孫が生まれれば、三周目のはじまりだ。こうやって後から後から旋律を重ねていかないと、人生はどんどん味のしないものになっていくのだ。それだから「孫はまだか」と聞くのだ。だから、孫にやけに甘いのだ。自分の人生が出がらしのようになってしまっているから。自分の人生を擬似的に子や孫の人生に重ね合わせるのだ。そうすることで、人はもう一度生きようとするのだ。

もちろんそれ以外の人生のありようもあるだろう。でも実際のところ、50代や60代、そしてさらに先まで自分の人生の炎を燃え盛らせ続けることは、とても難しいのだと思う。だれだって焚き火のあとに残った炭のようになりたいわけじゃない。ただ、そうなってしまうのだ。

歳を重ねるにつれて人はいろいろなものを失う。何よりも失うのは可能性だ。そして可能性こそが、人が生きるためにもっとも必要なものだ。絶対的に越えられない人生の終わりは、肉体の墓場である以上に、可能性の墓場だ。そして子孫というのは、なんとそんな自分の死を越えて生きてゆくのだ。それって、考えてみるととんでもないことじゃないだろうか1

その意味で、子を持つか持たないかということは、人生のうちでのひとつの大きな選択、というものにとどまらない。人生の定義を決定的に分岐させる選択肢だ。子を持つことは思考停止を許してくれる。あなたの子は可能性があり、さらに孫にはもっと未知の可能性が広がっている。あなたの人生の意味は、あとから子孫によって拡大されていくし、それがどんなものになるかは考えてもわかるものではない。だってまだ可能性の段階なのだから。だから、とりあえず子どもが元気にしていれば、人生に満足して死を迎えることができる。子孫に語り継がれる自分を夢想しながら。しかし子を持たなかったらどうだろう。あなたの人生はあなたの死をもって総決算だ。それに価値はあったか? いつまで覚えていてもらえるか? そのときあなたの死は、人生最大の締め切りとなる。まさに"deadline"じゃあないか。いままでの人生で無邪気にも抱いてきた目標、理想、夢、それらの想いが多重債務となって押し寄せる。だからこれからの人生であなたがやらなくてはいけないただひとつのことは、死神がやってくる前に債務整理をすることだ。目標は叶え、届かない夢は成仏させる。そうやって少しでも安らかに死を迎えられるよう準備することだ。


何のことはない、私の好きな作家、ミシェル・ウェルベックがそのものずばりを言っていた。

思春期は人生の重要な一期間というだけではない。人生というものを、完全に字義どおりに論じることのできる唯一の期間だ。十三歳前後には強い欲動が爆発する。その後、それは徐々に減少する。もしくは型どおりの行動になる。ともかく不活動状態になる。最初の爆発が激しいと、何年も不安定な状態のままになるかもしれない。電気力学で「過渡状態」と呼ばれる状態だ。しかし徐々に振動は遅くなり、ついには侘しい穏やかな長い波になる。この瞬間から決着はついている。その後の人生は死の準備でしかなくなる。より乱暴で大雑把な言い方をすれば、大人は衰弱した青年ともいえる。 ――『闘争領域の拡大』ミシェル・ウェルベック

そう、あの20年ほどが人生の本編だったのだ。いままでは予告編だと思っていたあれが。まだ人間として未完成で、大人になるまでの準備段階だと思っていたあの期間が。あなたはきっと、あれはまだ助走だと思っていたのではないか? 大人になったらそこからがスタートだと思っていたのではないか? まだレースははじまっていないと思っていたのではないか? それはとんでもない間違いだった。そして、取り返しのつかない間違いだった。人生の本編は、もう終わってしまっているのだ。残されているのは「死の準備」だけなのだ。あのころ以上に、人生が人生である時期はもう存在しなくて、それは二度とやってこないのだ。あなたはちゃんと生きたか? そう問うことにも、もはや意味はない。


  1. 若いうちはピンとこないだろうけれど、ちょっと冷静になって想像力を膨らませてみてほしい。世の中に何を残したって、どうせ世の中はあなたがいなくなっても回っていくのだ。あなたが存在した痕跡は、波打ち際に作った砂の城のように、時間の波に飲み込まれていくのだ。あなたの存在は、家系図のインクのしみになって、そこを虫が食っただけで消失してしまうのだ。なのに、子孫ときたら、あなたがいないと決して存在しない、あなたがこの世にいた証なのだ。おまけに、勝手に増えて未来に続いていくのだ!