Q’s diary

生焼けの随想

対岸から来た書物

過酷なソ連強制収容所で20年を過ごしたVarlam Shalamov、36歳で爆殺されるまでパレスチナ解放闘争に人生を捧げたGhassan Kanafani、遺作"Suicide"の原稿を出版社に送った10日後に自殺したÉdouard Levé、心の病と薬物に苛まれて生きたAnna Kavan、そうした作家の生み出した文章には共通する何かがある。それを形容するには、贅肉を削ぎ落とした、という表現は生ぬるい。それは、生命を燃やし尽くした焼け跡に残った鉄骨のような文章だ。それは、対岸からやってきた文章だ。極限の経験を通して、大多数の人々が暮らす「こちら側」から隔たった場所、すなわち対岸に自らを見出さなければならなかった者たちの声だ。

対岸の文章は、不必要な修飾を伴わない。使い古された底の浅い感傷に走ることも、未消化の他人の言葉をあいまいに並べることもない。だれかを責めたてることもなければ、自己憐憫を書き連ねることもない。不思議な静寂、平静、距離感がそこにはある。無機質な報告書を読んでいるような落ち着きと、つかみどころのない胸騒ぎの両方を覚える。それは、一つ一つの単語が存在を正当化されなくてはならない切迫感に直面した者によってしか、表現されることはない。シベリア抑留を経験した石原吉郎を引用するなら、「言葉に見放された」経験が与える声音だ。

言葉がむなしいとはどういうことか。言葉がむなしいのではない。言葉の主体がすでにむなしいのである。言葉の主体がむなしいとき、言葉の方が耐えきれずに、主体を離脱する。あるいは、主体をつつむ状況の全体を離脱する。私たちがどんな状況のなかに、どんな状態で立たされているかを知ることには、すでに言葉は無関係であった。私たちはただ、周囲を見まわし、目の前に生起するものを見るだけでたりる。どのような言葉も、それをなぞる以上のことはできないのである。 あるときかたわらの日本人が、思わず「あさましい」と口走るのを聞いたとき、あやうく私は、「あたりまえのことをいうな」とどなるところであった。あさましい状態を、「あさましい」という言葉がもはや追いきれなくなるとき、言葉は私たちを「見放す」のである。(石原吉郎『望郷と海』)

むなしさが、人間を対岸に追いやる。そこは言語の必要性に迫られ、同時に言語による伝達の不可能性を知った者が暮らす場所だ。そこに文体はない。文章に現れるのは文体ではなく、ひび割れた存在の形そのものだ。書き手の創意工夫によって生み出される文体ではなく、書き手の姿をそのまま写しとった形だ。なぜなら、対岸で書かれるものは創作物ではなく、存在のひび割れから漏れ出してきた魂そのものだからだ。このひび割れこそが、言葉に見放され、むなしい主体となった経験に一生刻まれ続ける刻印だ。

対岸は、生存のために書く場所だ。そこに哲学は存在しない。あるのは、哲学の残骸だけだ。対岸は、体系をもった立派な哲学の躯体が立っていられる場所ではないからだ。対岸に生きるものは、その残骸を漁る。廃材をつなぎ合わせて、間に合わせのあばら屋をこしらえる。その「哲学のような何か」はつねにみすぼらしく、穴とつぎはぎだらけだ。思想の流派を"School of Thought"と呼ぶ。しかし孤独な対岸では、校舎の廃墟に残された思想のかけらを拾うことしかできない。そこには主張も存在しない。単に事実を観察することしかできないからだ。善悪を語るのは、あるがままを受け入れるしかない場所では無意味だ。そこでは、生存のための実践以外のことは行われない。対岸は、ほかならぬ自分自身の死を悼んで生きる場所だ。

そこでは、物語はストーリーを失う。なぜなら、ストーリーの前提となる、一貫した自己、連続した空間、線形の時間の構造は砕け散っているからだ。現実が、人間が自由にストーリーを編むには重たすぎるからだ。実際、これらの書物は決まって回想と現在、俯瞰と没入、フィクションとノンフィクションがないまぜになる。その物語はときに生き延びた当事者として、ときに冷静な報告者として、一貫しない視点から語られる。

「こちら側」の書物は、むなしさを内包していない。それは、快適な旅のような読書。たとえスリルがあったとしても、お化け屋敷やサファリパークのようなものだ。安全が保障されていること、必ずすぐに外に出られることについて疑いを持つ必要はない。ストーリーが意義を持ち、スポイラーは忌避される。そこには立派な価値体系があり、崇高な理想があり、それらを語る前提となる世界にはひび割れがない。

私は、対岸で書かれた書物をずっと求めてきた。此岸の読書は、嗜好品としての読書、ジュースやワインを飲むような読書だ。私が求めてきたのは、大洋を漂流している者が真水を渇望するような読書だ。もしかすると、私自身が対岸にいるからなのだろうか。そうだとしたら、私が書いたものを読んでいるあなたも、対岸に暮らしているのだろうか。