減点法では優しくなれない

わたしはずっと、優しい人間になりたいと思ってきた。

だれかが困っているのに見捨てるなんてとんでもない。手を差し伸べられるようになりたかった。現実はそんなに簡単じゃなかった。気づけないことが多かった。でもそれ以上に多かったのは、気づいていたのに動けなかったこと。動けなくて後悔することを何回も繰り返した。

そしてまた、わたしは人を傷つけない人間になりたかった。悪いことをしてしまったら謝るのはもちろん、悪いことをしない人間になりたかった。傷つけることを言わない。傷つける行動をしない。だれかに涙を流させるほど悲しいことはないから。

そうして生きていくうちに、多少は人生経験を得た。他人とうまくいくことも、うまくいかないことも、いろいろと経験した。本も読んだし、ネットでもさまざまな情報に触れた。そうやって、どういう言動が不適切なのかを学んできて、人間関係の摩擦を減らすには役に立ってきた。「これを言ったら傷つけるかもしれない」、「あれをしてあげたいけど不快にするかもしれない」。そうやって配慮のある人間になれることを、わりとうれしく思っていた。


だけど、そうやっていろいろな人の考え、ストーリーを広く知るほど、身の回りの一人一人と純粋に向き合えなくなっていく気がした。

人はそれぞれ違うことを学んだから。踏み込んだ行動をしたら傷ついてしまう人がいることを学んだから。失敗からよく学んで、懲りてきたから。そうやって、わたしがただただ「礼儀正しい」だけの人間になっているように感じた。たくさんの数字を集めると最大公約数が小さくなっていくように、多くの人を知るほど、目の前にいる人物の像はぼやけていく。目の前のたった一人に近づく道を失う。遠慮しないことが大事なときもあるのに。踏み込んできてほしいと声にならない叫びをあげていることもあるのに。

きっと、あなたも似たような感覚を持ったことがあるんじゃないかと思う。だって、あなたは優しいから。優しくない人間だったらそうじゃないけれど、あなたは人を傷つけないか気にかける繊細な人間だから。

でも、優しさってなんだったのだろう? そっとしておいてあげるのが優しさ? あの人が孤独にもがき苦しんでいたのを、すべてが手遅れになってから知るのは、優しさだろうか? けっきょく、わたしはちっとも優しくなんかないんじゃないか。ひょっとしたら、あなたも。

奇妙なのは、わたしより「優しくない」と思っていた人が、むしろわたしなんかよりちゃんと人に手を差し伸べられていることだった。どうしてあの人が? どうしてわたしは何も行動できないのに? 優しい気持ちを育みたかったはずが、自責が腐敗した嫉妬の感情が渦巻いていることに気づく。


でもいったいどうして、あいつのほうが優しいように思えるのだろう?

「落ち込んでいるときにこれをしてもらってうれしかった」、「あの励ましがなかったら諦めていた」、「あのとき本気で怒ってもらってすごく感謝している」、そういう声を聞くのは、決まって危うい踏み込み過ぎの言動に対してだ。そんなことをしたら嫌に思う人がいることは容易に想像ができる。実際まったく同じようなことをされて嫌だったという話を聞いたことがある気がする。なんなら自分だったらやめてほしいなと思ったりする。それでも、その人はすごく感謝している。それが人生を変えている。そうやって出すぎた真似をすることで、人を救っている。

だけど、「優しい」し「傷つけたくない」わたしには、そういう行動はとれない。溺れている人に「助けてほしい?」と聞いて、返事があるまで岸辺で待っているのがわたしだから。「それは優しさじゃなくて弱さだよね」とありがちな文句で片付けるのは簡単だけど、そこにはもう少し何かがある気がする。

けっきょく、万能薬はどこにもないってことなんだろう。見かけの症状が似ていても、体内で起こっていることはまったく違いうるから、薬を出せば副作用のリスクがある。だから医者はちゃんと診断しなきゃならない。それと同じで、人の心も、見かけの状況や感情は同じでも、どうすれば癒せるか、どうすれば寄り添えるかは時と場合によるし、人による。ただ、違うのは、わたしたちは人の心の専門家ではないし、専門家ですら、心の中身を見ることはできないということ。だから、多くの症例を学べば学ぶほど、副作用を避けようとすれば、何も処方できなくなってしまう。

それでもなお、わたしたちは処方を決断しなくてはいけない。踏み込まなくてはいけない。人は、本当に助けが必要なとき「助けて」と言えないのだから。自らが助けを必要としていることにすら、気づくことができないのだから。嫌われることを恐れてはいけない。傷つけることも覚悟しなくてはいけない。他者と関わることは、生命の条件だから。

わたしも、あなたも、覚悟を持って手を差し伸べてきた他者に救われたことがきっとある。その人は、あなたを失うことを覚悟して、それでもあなたを救いたかったのだ。もしかしたら気づいていないかもしれないけれど。その処方はあなたには合わなくて、ただの嫌な奴として覚えているかもしれない。あるいは、あなたにたまたま合ったがゆえに、それがもしかしたら合わなかった可能性と、相手の覚悟の重さに気づいていない。そういう風に助けてもらったなら、今度だれかが困っていたらわたしたちが助ける番だ。


「でも、みんな大人になってしまったんだよ。さびしいけどね。」とあなたは言うかもしれない。

はっきり言っておこう、そういう、それっぽく響くだけの空っぽな文句で思考停止するのはそろそろ卒業したほうがいい。ましてやそれを成熟の証と捉えることは恥ずべき頽落だ。

大人になるということは、責任を逃れるずる賢さで生きるようになることではない。大人になるということは、他者との関係を骨抜きにしてしまうことではない。それは、生ける屍になることだ。死を先取りすることは、大人になることとは違う。


わたしたちは、人生を減点法で生きてきすぎたのかもしれない。そつなく問題に対処し、円滑に、トラブルなく生きることに特化してきた。人と衝突したり、傷つけ、傷つけられることを避けていた。それでは、優しくはあれない。そのような生き方では、さまざまな方法で「減点」を突きつけてくる他人との距離は遠くなる。自分自身も他人を減点法で見るから、淡々と生きることを期待し、そこから逸脱した人からは遠ざかる。だけど、人生においては、火事になった家に飛びこまなければならないときもある。

つまるところ、個人的な領域と「配慮ある」公共性の領域には、ある種の緊張関係が生じるのだろう。個人的な領域では、全員とうまくやれる必要はなくて、合う人とだけつきあっていけばよいからだ。そして、その人たちに本当に優しくなるためには、公共性に欠ける行ないをしなければならないことがある。問題は、個人的領域と公共の領域をすっかり分離することはできないことだ。

このように考えると、いままでに遭遇した「不適切なふるまい」をする人間が説明できる。あの人たちは、個人的な領域でのふるまいに最適化した結果、その領域の外側でも同じことをしてしまっていたのだろう。あの、「不適切」だけど同時にわたしには真似できない「優しい」面のある人たちは、矛盾なんかではなかったのだ。逆にわたしは、公共的なふるまいに染まった結果、個人的領域で何もできなくなっていったのだろう。

あまりこの問題を政治的な語彙で語りたくはなかったのだけれど、生きることは他者と関わることであり、他者と関わることは政治的な営みだから、どうしたって不可分だ。反Political Correctnessの文脈にこの話を落としこみたいわけではない。あくまで、たとえ境界がきわめてあいまいであれ、これは公共的な領域の外側での問題だ。その微妙なさじ加減を今日も探しにゆく。


言及していただきました。 思慮深く生きることは透明な存在になること? : web-g.org