Q’s diary

生焼けの随想

許してはいけない

許しなさい、それが美徳だ、とよく教えられる。本当は許したくなくても、相手が謝ってきたなら許してあげなくてはいけないのだという。そうしないことは心の狭さだという。しかし、本当にそうなのだろうか。そもそも、許すとはどういう意味なのか。果たして言う方も聞く方もわかっているのだろうか。許すとは、そんなに安易なことでよいのだろうか。

Lois Lowry による "The Giver" という子ども向けの物語がある。冒頭では、謝罪と許しが儀式化された社会の一場面が描かれる。主人公が "I apologize for ..." と言い、それに周りが "We accept your apology." と返す。形式だけの空虚なやりとり。偽りの調和に満ちた世界。社会の存続と幸福の幻想が追求され、個人の意志や自由は蔑ろにされる世界。あなたやわたしを歯車として回転させすりつぶす世界。表面的な社会儀礼に飲み込まれ生の感情を失った人間。その描写は、物語世界の不気味さを巧みに伝えている。ディストピア小説がみなそうであるように、私たちが生きる社会の風刺として当を得た寓話だ。

私たちに対して奨励されている許しも、同じ空虚さを伴っている。私たちは、安易に許しすぎている。主体性に乏しく、意志を発揮することを恐れ、ただ流されて受動的に許してしまっている。それは現状維持を至上命題とする社会という仕組みが求める許しだ。それは、地上の論理に属するものだ。それは憎しみを消し去らない。相手に対して隠れた怨恨を抱え続けるか、どこかほかに向けるか、自分に向けるか。いずれにせよ、地上から憎しみの総量が減らない以上、偽りの和解は許しと呼ばれるに値しない。神様が求めた許しは、そんなまやかしではなかったはずだ。

許すとは、いったいどんな当為だろうか。サッカーでイエローカードやレッドカードが出たのに謝罪すればちゃらになどならない。人生でも同じことだ。一度犯された罪は何をしても消えてなくなることなどあるはずがないのだ。だから、 "to err is human to forgive divine"(過つは人の性、赦すは神の御心)と言うように、許すこと、すなわち罪を消し去ることは、人間を超える営みなのだ。神の領域に入り込み、サッカーのルールを変えてしまうような、あり得べからざるできごとだ。ゆえにそれは、確固たる意志によってなされた、人間に考えうる限り最高度な決断でなければならない。その代償を自ら引き受ける厳粛な覚悟に裏付けられていなければならない。

世の中で安易に行われすぎているのは、許しだけには限らないかもしれない。もっと広く、およそこの世の美徳とされることは、それゆえ安易な逃げになってしまっている。他人に褒めそやされることほど、むやみにやってはいけない。強い意志で行わなくてはならない。「人付き合いがよい」ことが美徳とされているから、あなたは今日もつまらない集まりに参加する。内心参加したくないと思っているのに。内面の意志の弱さゆえに迎合してしまう。そういう態度でいるから、人生を受け身で、他人のせいにして、単なる消費者として生きるようになるのだ。一度しかない人生を自分で作らずにどうしようというのか? そういう生き方をしていれば、あなたの人生も、この世界も、汚染されていく。

許してはいけない。許すことは、もとより簡単なことではない。たとえ罪をなかなかなかなか許せなかったとしても、狭量ではなく真摯さの表れだ。だからこそ、心の底から、世界の因果を曲げてしまう覚悟とともに、本当に高潔に許すというのなら、みなで讃えようではないか。