それでも葡萄はすっぱい

The fox who longed for grapes, beholds with pain
The tempting clusters were too high to gain;
Grieved in his heart he forced a careless smile,
And cried, ‘They’re sharp and hardly worth my while.’ 1

金、肩書、名誉、人間関係、どんなことにしても、手に入れてないものを「そんなものはどうでもいい」と口にするのはためらわれる。ひがみみたいだから。まさにすっぱい葡萄の寓話のとおり。

だけど、それはずいぶん不健全なことだ。だって、人生は選択の連続だから。「まだ手に入れていないものを、手に入れないことにする選択」を毎日積み重ねている。なのにそれを口に出すことはしない。給与水準を最優先にしないで進路を決めたら、それはとりもなおさず金はたいして重要じゃないという判断だ。けど、そういうふうに口にすることはあまりない。そうやって人生の価値基準について話すことに後ろめたさを覚えるようでは、社会がどうあるべきかを話すことができなくなってしまうし、個々人の人生に対しても歪んだ気持ちを抱かせる。

何事であれ、持っていないことと持っていることは同様に不自由だ。持っていなければ欲する気持ちに揺さぶられ、持っていればそのための骨折りを無為だったと思いたくない気持ちに囚われる。「手に入れてみたらこんなものはどうでもいいと分かった」一見すると肩の力が抜けたように見えるそんな言葉ですら、手に入れた事実を見せびらかさずにはいられない執着を浮き彫りにする。むしろ、手に入れてないものについて、あっけらかんと話せることこそ、自由な生き方に一歩近い。

だから、臆せずに言っていこう。「葡萄はすっぱい」と。

ごはんにふりかけ

人生はね、ごはんにふりかけなんだよ。

人生は、カラフルで味の濃いふりかけ部分が本体なんじゃない。単調な白米の部分が本体。

白米が食べられるというだけで、雑穀や玄米しか食べられなかった時代に比べたら贅沢だよね。ありがたく思うべき。でもそんなの知らないし、無理な話。恵まれない人たちが地球上に、この町にだってたくさんいるとわかっていても、人生への不満も尽きない。

米の一粒一粒を眺めていると、人生の一日一日みたいに見えてくる。それぞれ少し形は違ったりするけど、でもだいたい同じで、区別するほどではない。

生きるっていうのは、肉や魚や野菜や果物、山の幸に海の幸、変化に富んだものを変わりばんこに味わっていくことじゃない。そうじゃなくて、毎日毎日、変わらずに米を食べ続けること。人生のどこを探しても、いつまで待っていても、どきどきわくわくの大冒険は始まらない。非日常に逃げても、すぐにそれが新しい日常になる。飽き飽きする毎日が人生であって、それだけが人生だってこと、受け入れなくてはいけない。

ただ、日々骨を折って、工夫をして、心を開いて、前向きに生きていけば、ふりかけをご飯にかけることができる。日常に変化が生まれる。まずは当てもなくごちそうを探すのをやめて、腰を据えて手元のご飯を大事にしなくちゃいけない。そしてしなやかに風に乗って、新鮮な面白さも大事にする。風林火山とはよく言ったもので、自然の本性に調和するのは、同時に風林火山の四つすべてになることなんだ。

ふりかけを得るために手を尽くしながらも、ご飯をないがしろにしない。だって、ふりかけがおいしいからって、ふりかけだけ食べようとしても食べられたものじゃないから。ふりかけは、つまらないご飯があってこそおいしいんだってみんな知ってる。なのに人生となると、どういうわけかみんなふりかけだけ求めてしまう。

少しの成長

むかしずいぶん長く関わっていた人たちの集まりがあることを間接的に耳にした。直接は何も知らされていなかった。心がざわざわした。こういうことはたまにある。またか、と思いながら、いいよどうせ馴染めてなかったし、あんまり好きじゃないし、これでいいんだよ、とひとりごちた。

そんな話をある関係ない人にしたら、いや行きなよ、連絡しなよ、と一喝された。振り返ってみて、このことには非常に感謝している。すっかり根暗な思考の落とし穴にとらわれていた。「どうせ自分なんて」思考。連絡してみることもなく、一方的に疎外感を覚えて、勝手にハブられたことにしていた。だけどそんなことはなくて、単に連絡が行き届いていなかっただけだった。

そもそも、明確に範囲の決まっていない「仲良しグループ」みたいなものに自分が含まれているかどうかは、自分が決めることだ。他人が含めてくれるのを待つのではなくて、自分から参加する。それだけ。そうやって自分で人間関係を規定していくのが自立した大人のやり方。受け身でいて「ハブられた!」とかルサンチマンを勝手に抱えて、勝手に人間を嫌いになってシニカルな態度を取ることは未成熟な態度だ。相手を勝手に深読みする方がよくない。わからなかったら混ざっていいか連絡を取ればいい。混ざりたいならそのために行動する、混ざりたくないなら帰る。シンプルな話。

そして久々に会った人たちと話が合うかというと、別に合うわけじゃない。みんな就職して何年か経って、いかにも大人びてきている。そしてすぐに結婚とかの話になって、勘弁してよという気分になる。実際にすでに何人か結婚しているし、もうすぐする人たちはもっといる。だからといって、「どうせ自分はまだ学生だし!」と置いていかれた気分になって「世の中は院生に理解がない」とか一方的に被害者意識を持つことは馬鹿げている。みんなそれぞれに大変なことがありながらがんばっている中で、一人で勝手に引け目を覚えて、一人で勝手に悲劇のヒロインぶるのはよしたほうがいい。それ端的にめんどくさいやつだから。

社会で何をしていようが、みんななんだかんだ不安だし、それぞれ人に理解されない苦労をしてる。そこをあえて飲み込んで、重い話は避けて、最大公約数的な話題でその場を回している。そうやってお互いの良好な関係性をつないでいる。そこまでして交際関係を維持することに価値を感じるか否かは各自の価値観しだい。だけど、少なくともあなたはさびしがりやなのだから、あなたはその場に所属したいと思っているのだから、だったら他人を見下す未熟な意識を捨てて、他人から学ぶ謙虚さを持つ必要がある。

自分に自信が持てるかどうかは自分しだいであって、他者に自尊心を与えてもらおうと口を開けて待っているような心持ちはやめたほうがいい[^1]。自分がその場に馴染んでいると感じられるかも自分しだいであって、自分を特別視して疎外感の自家中毒になるのも、やめたほうがいい。そう学んだ。ちょっと大人になった気がする。

(昨年度に書いて下書きに眠っていた記事)

[1] もちろん、属性による社会的な排斥の問題はある。ここではそういった構造はいったん置いて考えている。

Weltschmerz

久しぶりすぎて、スーパーまでの外出が非日常に感じられた。夏の空気、昼の暑さがまだ残る夜の始め。セミが鳴いている。もわっとした空気が全身にまとわりつく。なぜだか夏は古い記憶を刺激する。特定のエピソードという形を取らない、いろいろな記憶が混ぜこぜになった抽象的な過去。過ぎ去ってしまった時間。

家に閉じこもってあれやろう、これやらなきゃって考えている毎日。一歩外に出るだけで、それらがすべて遠ざかって見える。どうでもいいじゃん、ぜんぶ無意味じゃん。かなしい。何かが悲しいわけじゃなくて、存在の根源的な哀しさを感じる。やっていることすべて、別にやらなくても世界は何も変わらない。生きることの本質的な無目的さ。こうやって何もしないまま人生は暮れていくのだなという感覚。Weltschmerzというドイツ語が指し示すのはたぶんこの哀愁なのだろう。

人生を変える自由はある。どこにだって行けるし何だってできる。いろいろなしがらみがないとは言わないけど、突き詰めれば、本当に縛るものは何もない。それでいて、どうせその自由を行使する日はやってこない。どこにいくのも自由なのに、どこにも行かない。可能性は開けているのに、どこにも飛び込まない。

なぜかって、人生の自由を行使したって、けっきょく何も変わらないから。どこに行こうとも、こっちの河原で石を積むか、あっちの河原で石を積むかの選択でしかない。そこに意味を見出すには、どうしたらいいのだろう。そんな児戯めいた営為に意味を見出せるようになりたいとも、あまり思えない。

たぶん、こんなこと考えても出口はないのだろう。たぶん、焼肉でも食べれば解決すること。

関係性は作るもの

あるときこんな問いに出くわしました。「あなたが本当に素直に頼ったり相談できる人は何人いますか」見当もつかない。周りに人はいるけれど、本当に頼れるのでしょうか。

あるいは、ある人を形容するときに「友達」と呼ぶか「知り合い」と呼ぶかで迷います。向こうはどう思っているのかな。

だれかが自分のことを第三者に紹介するとき「この人は親友」みたいに言う。そうなのかな、と胸の中で思う。悪い気はしないけれども。

……これらはいずれも、ある弱さの表出なのだと思います。拒絶されて傷つきたくない心の弱さ。他者との関係を自分の意思で決めようとする勇気の欠如。


人と人の関係性は、先にどこかに規定されている正解を発見するものではありません。そうではなくて、相互に築くものなのです。例えるなら池に浮かぶ二艘の舟。その動きは常に相対的で、相手も動くし、自分も動くことができる。そしてどの程度の距離にするかにはお互いに責任がある。なのに、弱さゆえに、自分という舟が動けない小島だと誤解してしまう。相手が考える正解、あるいは天が与えた運命が先に決まっているものかのように。

違うのです。正解などどこにもない。与えられた真実を探すのではなく、あなたの望む真実を作りにいかなくてはいけない。作用を受けるだけではなく、作用を及ぼすこと。それが「親友」戦法を使ってくる人間のやり方なのです。親友だなんてきっと向こうも思っちゃいない。ただ、その発言があなたに対するシグナルとして働くことを知っているだけ。だいたい、「親友」が自然にできると思っているのは、恋人が空から降ってきたり白馬に乗ってやってきたりすると信じているくらいメルヘンな考え方でしょう。別に人に近づかなくてはいけないわけではないから好きにすればいい。だけど、もし近づきたいなら、ただ待っていて寄ってくるのは何か企みのある人間だけだと理解しなくてはなりません。

もちろん、関係性を規定しようとすることで拒絶されるかもしれない。離れていってしまう相手もいる。ありがちな言葉で「万人に好かれることはできない」というだけの話です。誰にも嫌われないように生きていたら、だれとも有意義な関係は築けない。最大公約数的な関係は、とりもなおさず、いくらでも交換できる関係なのですから。だからこそ、自分からシグナルを送って関係を深めないことは、すなわち拒絶の意味になってしまうのです。相手側から動いてくれるのを待ちながら、関係性が深まることを理解するのはナンセンスでしかありません。


だから、人との付き合いは年数の問題でもないのです。一緒に過ごした期間と、離れ離れになってからの期間の比率の問題でもない。あなたが関係性を続け、深めていくための行動を起こすか、起こさないか、単にそれだけの問題です。何もしてないなら当然疎遠になる。「ほどよく水平飛行させたい」そんな虫のいい話があるはずがないでしょう。関係性は上昇するか、さもなくば下降するかのどちらかしかないのです。糠床と一緒で、まめに手入れすれば味わいが増していくし、しないなら腐ってしまう。

「あなたが本当に素直に頼ったり相談できる人は何人いますか」そうやって受動的に考えることが間違いのはじまり。あなたは、だれかに本当に素直に頼ろうとしましたか、相談しようとしましたか。

さよならコミュニケーション

‪絶対的真理かのように説教くさく撒き散らされる「話し合えばわかる」「ちゃんとコミュニケーション取らなきゃ」みたいな言説‬は、なんて軽薄なのでしょう。

あなたそれ、本当に考えて言ってますか。この世の中、手垢のついた文句ばかり右から左に流している人ばかり。だって、そう言うあなたは、何をコミュニケーションで解決しましたか。別に完全無欠であることなんて求めてませんよフェアじゃないから。だけど、それにしたって、コミュニケーションで何が分かったと言うのでしょう。人は孤独で、人生は空しいということがわかるんじゃないんですか、もしちゃんとコミュニケーションしたら? それがわかってないなんて、本当に本当にコミュニケーションしようとしたことありますか?

百歩譲って、コミュニケーションが取れればうまくいくと仮定しましょう。そんなにいいものなのに、なぜみんなしないのでしょう。崩壊家族も職場対立も国際紛争も話し合えば解決するのに、みんなしてない。だから、話し合うようにしようね。そうしたら改善するよ。ねえ、舐めすぎではないですか。そこにはできないわけがあるでしょう。ただコミュニケーションしましょうなんて言ったってなんにも解決しない。そんなこともわからずに紋切り型の文句を投げるだけなんて、本当にコミュニケーションですか? 相手のこと考えてますか? むしろ、そういうコミュニケーション信奉者の有り様こそ、人と人とは通じ合えないことを例証しているように思えてなりません。コミュニケーションは、共同幻想に過ぎないのではないですか。すでに同じことを考えている人たち同士が、そのことを確認する儀式にすぎないのではないですか。それはたとえ表面的な属性が違う人々の間であっても、予定調和であり、同質性の産物です。

ここに二つのオルゴールがあって、タイミングが一致することで一つの旋律を作り上げています。まるで協力協調しているかのように。――私たちがコミュニケーションだと思う物は、こういう作り物に過ぎないのです。街で店に入れば、店員があたかも非常に親密な間柄かのように接してくれる。「あなたのために」個人的にもてなしてしてくれている様子を模擬している。でも、期待された枠組みを外れて個人的関係を求めたら、きょとんとしながら「お客様、」と言われてしまうでしょう。私たちはそういう、虚構としての親密さのなかで振る舞うことにすっかり慣れてしまいました。何が起こるか予測できない個人商店からはなんとなく足が遠のくようになってしまいました。心が通うことよりも、心が通ったかのような錯覚を安全に得られる方を好んでいるのです。人間と人間が二つのオルゴールのように振舞って、コミュニケーションの虚構を作り出しています。

個人的な関係での「コミュニケーション」だって、けっきょくは予定調和の虚構に過ぎません。友人、恋人、家族、そのうちに本当に通じ合っている人たちがどれだけいるでしょうか。人間関係だって、数えるほどしかない台本を繰り返し繰り返し再生しているだけに過ぎないのです。簡単に関係性を名前でくくれること、あるいはそれらと大差ないものをわざわざ「名前のつけられない曖昧な関係性」なんて称して高尚ぶる人たちがいること。どちらも、人間関係に台本があることをあたりまえと見なしているゆえのことです。

石の永遠・命の永遠

以前、恩師の恩師に一回だけ出会ったことがある。話してみると、まったく同じではないけれど、恩師の教えの原型があった。感動してしまった。だって、そこに命の連続性を見たから。そうやって人と人は間接的にもつながっていけるという希望を得たから。わたしは、わざわざ恩師の恩師に出会わなくても、恩師を通して、とっくに出会っていたのだ。たとえ顔も名前も知らなくても、だれかの命を受け取って、わたしたちは生きているのだ。


私たちは、「永遠」であることに価値を見出す。だから、石を積み上げ、粘土板に文字を刻み、金を買い集める。墓碑銘に刻まれる肩書と言葉のために骨を折る。けれどそれは、石の永遠だ。命は、そうやって永遠を得ることはできない。Shelleyのソネットが唄っている。

Ozymandias - Wikipedia

And on the pedestal these words appear: 'My name is Ozymandias, king of kings: Look on my works, ye Mighty, and despair!' Nothing beside remains. Round the decay Of that colossal wreck, boundless and bare The lone and level sands stretch far away.

今日何をしようと、今日は昨日になり、おとといになり、どんどん過去に流れていく。100年前、いや10年前のものですら、この変化の速い時代にはあっけなく消え去ってしまう。時間軸にある固定の点を定めて、それを残そうとすることが、どんなに空しいことか。石ですら、けっきょく永遠にはとどかないのに。

人の関係性も、感情も、また永遠ではない。「出会いは別れのはじまり」と言うとおり、人と出会えば、いつか別れるときが来る。そもそも、万物は流転する。だから、無形有形を問わず、「それそのものがそこにある期間」だけに価値を求め、永続性をよしとするのは、やはり石の永遠に陥る。そうじゃなくて、もう会うことがなくなっても、どこかでずっと影響を受けているような、そういう出会いをしたことはないだろうか。そこにこそ連続性がある。そして連続性こそが、命の永遠。そもそも、私たちの身体ですら、構成する細胞はどんどん入れ替わっていって、かつてのあなたといまのあなたが物質的に共有するものは存在しないのだから。

生きることは漸化式だ。昨日が今日を作り、今日が明日を作り、明日は明後日を作る。それだけで十分。三日もすれば今日何をしたかは忘れてしまうけど、それでも時間はつながっている。間接的に、三日後だって今日のおかげで存在する。二ヶ月後だって、十年後だってそう。あなたが死んだあとだって、あなたのことをだれも覚えていなくても、間接的には、あなたは影響を及ぼしている。その影響がよいものであるように努力できるのは、いま生きている間だけだけれど。