Q’s diary

生焼けの随想

Favorite Books

ロシア文学

  • ガン病棟(ソルジェニーツィン)
  • 収容所群島(ソルジェニーツィン)
  • 極北コルィマ物語(シャラーモフ)
  • 罪と罰(ドストエフスキー)
  • 地下室の手記(ドストエフスキー)

ポストコロニアル文学

  • ハイファに戻って/太陽の男たち(カナファーニー)
  • 由煕 ナビ・タリョン(李良枝)
  • 崩れゆく絆(アチェベ)
  • One Day, Everyone Will Have Always Been Against This (Omar El Akkad)

文学一般

  • 海と毒薬(遠藤周作)
  • 砂の女(阿部公房)
  • 氷点(三浦綾子)
  • 審判(カフカ)
  • 供述によるとペレイラは…(タブッキ)
  • 人間の土地(サンテグジュペリ)
  • タタール人の砂漠(ブッツァーティ)
  • やし酒飲み(チュツオーラ)
  • アサイラム・ピース(アンナ・カヴァン)
  • Suicide (Edouard Leve)
  • 地獄(バルビュス)
  • 山椒魚戦争(カレル・チャペク)

古典

  • 国家(プラトン)
  • オイディプス王(ソポクレス)
  • 人生の短さについて(セネカ)
  • 自省録(マルクス・アウレーニウス)
  • 菜根譚(洪自誠)
  • 荘子
  • スッタニパータ

哲学・思想・社会科学

  • 我と汝(ブーバー)
  • 悲しき熱帯(レヴィストロース)
  • 道徳の系譜(ニーチェ)
  • 知識人とは何か(サイード)
  • 消費社会の神話と構造(ボードリヤール)
  • Capitalist Realism 邦題:資本主義リアリズム(マーク・フィッシャー)
  • The Burnout Society 邦題:疲労社会(ビョンチョル・ハン)

ノンフィクション・歴史・エッセイ

  • 生きがいについて(神谷美恵子)
  • アンダーグラウンド/約束された場所で(村上春樹)
  • The Unwomanly Face of War 邦訳:戦争は女の顔をしていない(アレクシエーヴィチ)
  • How the Word Is Passed 邦訳:場所からたどるアメリカと奴隷制の歴史(クリント・スミス)
  • The Jakarta Method 邦訳:ジャカルタ・メソッド(ヴィンセント・ベヴィンス)
  • 望郷と海(石原吉郎)
  • AM/PM 邦訳同題 (Amelia Gray)

他人事は自分事のように、自分事は他人事のように

「練習は本番のように、本番は練習のように」という言葉がある。とても的確な言葉だと思う。練習は本番だと思って全力を出さなくては意味がない。逆に本番は、練習のつもりで気楽にやったほうがうまくいく。

でもこれは、練習と本番に限った話ではないと思う。

きっとあなたも、他人の手伝いだとやけに生き生きと楽しくできる経験がないだろうか。「隣の芝は青く見える」というやつだろうか。それに比べて、自分の仕事はいやなことばかりが気になってしまう。自分事はよく見ている分、粗が見えやすいのかもしれない。あるいは、自分のことに対しては他人からの評価が気になってしまう。失敗を恐れて減点法で考えてしまう。

大事だと思えば思うほど、手がつけられなくなる。しっかりやらなくてはいけないと思えば思うほど、気が重くて逃げたくなる。気の重さに耐えるだけで何もしないまま、一日が過ぎてしまう。一週間が過ぎてしまう。そうして、どうしてもっと余裕をもって取り掛からなかったのか、と自問する。その罪悪感でますます心が重くなる。


だから対策をしようと思う。付箋で目立つ場所に貼っておく。ロック画面に表示する。タスク管理アプリを入れる。けれどそんなことをしても、どれも決してうまくいかない。当たり前だ。もとより一秒たりとも忘れてなんていないのだから。

問題は、そのタスクを軽んじていることではない。本番の舞台を前に緊張しすぎる人に、当日朝寝坊しないコツを教えても意味がないのと同じくらい的外れだ。問題は、そのタスクが心の中で直視することのできないバケモノにまで膨れ上がっていることだ。「大事だ」「絶対にやらなきゃ」「これが最優先」と思えば思うほど、対策法を考えてあがけばあがくほど、この落とし穴に深く飲み込まれてしまう。「十分に出来っこない」「遅すぎる」「これすらできないなんて」そんな言葉がこだましてしまう。

他人を動かすのは難しい、とよく言われる。たしかにそうだ。頼み事をする時には、一から十まで必要なことは全部伝えないといけないし、それでもよくすれ違いが起きてしまう。でもときどき、自分を動かすほうがもっと大変に感じる。ただこの一通のメールを開いて、受け取った旨を伝えるだけ。ただこの期限の切れてしまった公共料金の支払いをするだけ。5分でできるし、何も難しいことはない。誰かに怒られることもない。自分の指先を少し動かすだけでできるのに、なぜかできない。

これが他人の仕事だったら、簡単にやってあげられるのに、と思う。他人事なら建設的になれる。他人事なら余計な心配をしないでいられる。他人事なら客観的であれる。うまくいかなかったとしても、代わりのやり方を考えられる。完璧にはできなくても、前向きにとらえてあげられる。他人だったら、優しく励ませる。どうして同じことが、自分にはできないのだろう。


こうやって「どうしてできないのか」と考えることによっても、さらなる深みにはまっていくだけだ。そこには「本来はできるはずだ」という前提がある。そして「それなのにできないのは何か障壁がある」「それはよくないことだ」という推論と判断がある。

おそらく、必要な第一歩は、「なぜかはわからないが、これは軽いことではないようだ」と、そのまま価値判断なく受け入れることだ。足を骨折しているなら、元気な人間が階段を駆け上がっているのを見て、それができない自分について思い悩むのは建設的ではない。心は骨折していてもわからない。だから、階段を登るのは少なくとも自分にとっては非常に難しいという事実をただ飲み込むしかない。なぜ階段を登れないのか、と思って後ろめたさをさらに膨らませるのは馬鹿げている。「少なくとも自分にとっては非常に困難なのだ」と認めることで、不必要な負い目を感じないようにしなさい。それが、「プライドを捨てる」という曖昧な言葉の意味するところなのだろう。

そうなのであれば、何度も登ろうとして転げ落ちて怪我をするのではなく、エレベーターを使うなり、遠くても回り道をするなりの対応をするしかない。いまの自分にできないことなのであれば、誰かに頼めればそれでもよい。そうでないなら、もう覚悟を決めてあきらめるのが最善かもしれない。そう決断してしまえば、いつまでも頭の中で罪悪感に苦しめられているのも少しは軽くなるだろう。そしていまできることをするのだ。「できるはず」という思い込みから離れて、現にできることを先入観なくやるのだ。

こう言うと語弊があるが、ときどき、もっと無責任になれたならどんなにいいことかと思う。やるべきことをほっぽり出して平然と遊んでいられるあの人のようになれたらと。やらなきゃいけないと思いすぎて徹夜して、ご飯も食べず、でも朝日が昇っても白紙のままで、けっきょくできない。何一つ楽しいことはないのに、やるべきことをできていないのは同じ。それだったら、外に出て日光を浴びて、体を動かして、健康な食事と睡眠をとったほうがよほどいいのにと。罪悪感なんて煮ても焼いても食えないものなのだから。

対岸から来た書物

過酷なソ連強制収容所で20年を過ごしたVarlam Shalamov、36歳で爆殺されるまでパレスチナ解放闘争に人生を捧げたGhassan Kanafani、遺作"Suicide"の原稿を出版社に送った10日後に自殺したÉdouard Levé、心の病と薬物に苛まれて生きたAnna Kavan、そうした作家の生み出した文章には共通する何かがある。それを形容するには、贅肉を削ぎ落とした、という表現は生ぬるい。それは、生命を燃やし尽くした焼け跡に残った鉄骨のような文章だ。それは、対岸からやってきた文章だ。極限の経験を通して、大多数の人々が暮らす「こちら側」から隔たった場所、すなわち対岸に自らを見出さなければならなかった者たちの声だ。

対岸の文章は、不必要な修飾を伴わない。使い古された底の浅い感傷に走ることも、未消化の他人の言葉をあいまいに並べることもない。だれかを責めたてることもなければ、自己憐憫を書き連ねることもない。不思議な静寂、平静、距離感がそこにはある。無機質な報告書を読んでいるような落ち着きと、つかみどころのない胸騒ぎの両方を覚える。それは、一つ一つの単語が存在を正当化されなくてはならない切迫感に直面した者によってしか、表現されることはない。シベリア抑留を経験した石原吉郎を引用するなら、「言葉に見放された」経験が与える声音だ。

言葉がむなしいとはどういうことか。言葉がむなしいのではない。言葉の主体がすでにむなしいのである。言葉の主体がむなしいとき、言葉の方が耐えきれずに、主体を離脱する。あるいは、主体をつつむ状況の全体を離脱する。私たちがどんな状況のなかに、どんな状態で立たされているかを知ることには、すでに言葉は無関係であった。私たちはただ、周囲を見まわし、目の前に生起するものを見るだけでたりる。どのような言葉も、それをなぞる以上のことはできないのである。 あるときかたわらの日本人が、思わず「あさましい」と口走るのを聞いたとき、あやうく私は、「あたりまえのことをいうな」とどなるところであった。あさましい状態を、「あさましい」という言葉がもはや追いきれなくなるとき、言葉は私たちを「見放す」のである。(石原吉郎『望郷と海』)

むなしさが、人間を対岸に追いやる。そこは言語の必要性に迫られ、同時に言語による伝達の不可能性を知った者が暮らす場所だ。そこに文体はない。文章に現れるのは文体ではなく、ひび割れた存在の形そのものだ。書き手の創意工夫によって生み出される文体ではなく、書き手の姿をそのまま写しとった形だ。なぜなら、対岸で書かれるものは創作物ではなく、存在のひび割れから漏れ出してきた魂そのものだからだ。このひび割れこそが、言葉に見放され、むなしい主体となった経験に一生刻まれ続ける刻印だ。

対岸は、生存のために書く場所だ。そこに哲学は存在しない。あるのは、哲学の残骸だけだ。対岸は、体系をもった立派な哲学の躯体が立っていられる場所ではないからだ。対岸に生きるものは、その残骸を漁る。廃材をつなぎ合わせて、間に合わせのあばら屋をこしらえる。その「哲学のような何か」はつねにみすぼらしく、穴とつぎはぎだらけだ。思想の流派を"School of Thought"と呼ぶ。しかし孤独な対岸では、校舎の廃墟に残された思想のかけらを拾うことしかできない。そこには主張も存在しない。単に事実を観察することしかできないからだ。善悪を語るのは、あるがままを受け入れるしかない場所では無意味だ。そこでは、生存のための実践以外のことは行われない。対岸は、ほかならぬ自分自身の死を悼んで生きる場所だ。

そこでは、物語はストーリーを失う。なぜなら、ストーリーの前提となる、一貫した自己、連続した空間、線形の時間の構造は砕け散っているからだ。現実が、人間が自由にストーリーを編むには重たすぎるからだ。実際、これらの書物は決まって回想と現在、俯瞰と没入、フィクションとノンフィクションがないまぜになる。その物語はときに生き延びた当事者として、ときに冷静な報告者として、一貫しない視点から語られる。

「こちら側」の書物は、むなしさを内包していない。それは、快適な旅のような読書。たとえスリルがあったとしても、お化け屋敷やサファリパークのようなものだ。安全が保障されていること、必ずすぐに外に出られることについて疑いを持つ必要はない。ストーリーが意義を持ち、スポイラーは忌避される。そこには立派な価値体系があり、崇高な理想があり、それらを語る前提となる世界にはひび割れがない。

私は、対岸で書かれた書物をずっと求めてきた。此岸の読書は、嗜好品としての読書、ジュースやワインを飲むような読書だ。私が求めてきたのは、大洋を漂流している者が真水を渇望するような読書だ。もしかすると、私自身が対岸にいるからなのだろうか。そうだとしたら、私が書いたものを読んでいるあなたも、対岸に暮らしているのだろうか。

意識の車窓

毎日、私たちはいろいろなものを見て、感じて、考える。「走馬灯」という言葉があるが、日常生活も長く続く走馬灯、あるいは旅の車窓のようなものだ。そして、その車窓を見ている乗客は私たち自身だけではない。私たちのアイデア、創造性、心、そうしたものはおのおの独立した乗客として車窓を見ている。「だれに車窓を見せてあげるかを注意深く選択すること」、それが「日々を有意義に過ごす」というあいまいな表現の、真の意味だと思う。

見る景色、耳に入る言葉、読む文章、ふと心をよぎる考え、そうしたものの一つ一つが、意識の車窓に映る。では、いったいだれがあなたの意識の窓際席に座っているか?

ある人が窓際席に乗せているのは、温めている創造的なアイデアや、熱意をもって取り組んでいる仕事や、人生でやりたいことや、親しい人への想いや、建設的な悩みだ。朝から晩まで、さまざまな景色を見せてやることで、そうした価値のある思考に多種多様な刺激がもたらされる。思考が熟成し、ふくらみ、進展していく。新しい設定を思いついたり、仕事のやりかたをひらめいたりすることだろう。あるいは、だれかのための小さなプレゼントや、新しい目標についての考えが湧き出してくることだろう。何気なく過ごしている毎分毎秒が、豊かな旅の経験になる。

別の人が窓際席に乗せているのは、その人が嫌いなことや、どうにもならない過去の失敗のことや、恨みのある他人のことや、無為にこなしている煩わしいだけの仕事や、行きたくない集まりの予定についての心配だ。そういった考えにどんな車窓を見せてやったところで、何も建設的なことを付け加えることができない。たとえ何かが付け加わったとしても嫌なことや、どうにもならないことについて雪だるま式に考えを膨らましてどうなるというのだろう?

こうして、外からの見た目がまったく同じ行動をしていた二人がその日に得たものは、方やまったく無駄でかえって心を蝕む考えだけ、方や豊かで楽しくて明日につながる創造的な考えになる。「時間を有意義に過ごす」ことは、表面的な行動だけではなくて、あなたが意識の窓際席にだれを座らせるか、すなわちどんなことを意識の表層に置いておくかによっても決まる。生活を変えてまったく違う景色を見ることは難しい。しかし、だれを意識の窓際席に座らせるかは、常にあなたが決めることだ。その小さな違いが、長い人生ではきっと大きな違いになる。

「楽しいことにだけ目を向けよう」という現状肯定、思考停止の呼びかけをしたいわけではない。残念ながら地上には悪が少なからず存在する。そうした悪を浄化しようと取り組むことは言うまでもなく尊敬すべき社会貢献だ。しかし、この世のありとあらゆる不正義に関する情報をせっせと仕入れ、まるで地獄かのように呪って生きることは、何一つ善を生み出すことに貢献しない。たとえ日常生活の行動そのものが直接変わらなかったとしても、心の窓際席を呪いで埋めるのは、有意義な批判意識を持つこととは違う。それは、あなただけにできるやり方でこの世界に貢献する機会を一つまた一つと削り落としていく行いにほかならない。

窓際の座席は有限だ。セレンディピティがやってくるのは、意識の表層に置いてることがらに限られる。だから、嫌な考えは書いて忘れ、煩雑なだけの雑用も予定表に記していったん忘れる。心を汚染する情報源は断ち切る。行きたくない集まりは勇気を出して断る。そうやって、窓際席からはガラクタを追い払わなくてはいけない。そして何か一つ、小さなものでいいから何か創造的な活動に手をつけるのがよい。あるいは何か一つ、ささやかでも世のためになる活動をするのがよい。絶景の見える区間を旅行するとき、あえてカーテンを閉める愚か者がどこにいるだろうか。しかし旅行よりもはるかに人生の多くの部分を占める日常の窓際席にガラクタを積み上げておくのは、なお一層愚かなことだ。

生きること

鳥たちが、虫たちが、草木が、生命力を弾けさせている。命の奔流。生きるということは、このくらい烈しい熱量の爆発だということを教えられる。

生きるとはどういうことなのかを知りたければ、殺してみるがよい。一寸の虫がいかに激しく足掻くことか。しかしつぶしてしまった瞬間に、すべてが停止する。一瞬に失われ、二度と取り戻せない「それ」を感じるがよい。

生きるならば、必死でなければならない。懸命でなければならない。真剣に、本気で、妥協なく生きているか。単に忙しくすることや、無為に自分を痛めつけることは、真剣に生きることとは違う。むしろそこから目を背けることだ。

蚊に血を吸われそうになったら、叩きつぶす前に自問しなさい。命懸けで向かってきたこの蚊よりも、今日あなたは真剣に生きているか? 生命力で勝っているか? 「もちろん」とためらいなく答えるならば、力一杯仕留めなさい。「……」口ごもるならば、吸わせてやりなさい。全力で命を燃やす者への敬意として。

悪徳としての反省

「反省します」だれかがそう言うのを聞くたびに、いったいそれはどういう意味だろうかといつも不思議だった。たとえばこれを翻訳しようと思ったら、何と訳せばいいのだろうか。ぴったりと対応する訳語がないだけならまだしも、そもそも語義すらわからないことに気がつく。それは、「反省」の意味が空虚であることの裏付けではないだろうか。むやみに反省するのは、信用に値しない人間の証だ。反省は、しばしば狡猾さや、陰湿さや、隠れた攻撃性を見てくれのよい包装でくるんだだけだ。反省の仕草は、自己や他者に対する不寛容の裏返しであることが多い。

観察しているうちに、反省は (1)ポイント稼ぎ (2)自己防衛 (3)自傷と隠れた攻撃性 の三つに分類できると思うようになった。

一番わかりやすいのは、ポイント稼ぎとしての反省だ。反省している体裁を取れば受けがいいから反省しているだけだ。社会的儀式に則って、見かけ上の調和のために反省の体裁を示さなくてはいけなかった経験はだれにでもあるだろう。しかしそんな反省が示すのは、抜け目なさ、要領の良さだけだ。具体性に欠けた反省をしたり、ひどいときはまだ何もしていないのに自分と同じ属性の人間がやったことを先に反省してみせたりする。英語ではこういうのを"virtue signaling"と呼ぶ。これほどくだらないものはない。心の中で舌を出している詐欺師にだって、同じことができる。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」(マタイ6:1)という聖句があるが、まさにこのタイプの反省が悪い見本だ。

おそらく次に多いのは、自己防衛としての反省だろう。他人に否定されたくないから、先に自己批判で反省する。これもきっと多くの人間がやったことがあるのではないだろうか。怒られるとわかっているから、先にわざとおおげさに自分をこき下ろし、反省する。そうやって、「そんなに言わなくても、間違ってしまうことはあるものだから」といった言葉を期待する。他人に打ち消してほしくて自己否定をすることほど浅ましい行為はない。居丈高に自慢話を繰り広げて他人の同意を求めるうっとうしい人間よりも、殊勝なふりをして相手を操ろうとする人間の方が、はるかに陰湿で、悪辣だ。本来の意味での反省と成長に必要な開かれた心のあり方の正反対だから、このタイプの人間はもっとも反省から遠い。

三番目には、自己否定が目的化し、自傷で気持ちよくなっているだけの反省がある。かたくなさ、正しさへのゆがんだこだわり、抑圧された攻撃性。そういった病理を煮込んだものが、このタイプの反省だ。本来、反省は具体的な行動の改善に昇華して、さっさと通り過ぎなくてはいけない。いつまでもウジウジと燻らせるのは自傷で気持ちよくなってるだけだ。自分を愛せない者が他人を愛せるかはどうかはわからないにせよ、「自分を許せない者は他人を許せない」ことは間違いがない。一見すると恭謙な態度の人間は、実はもっとも暴君に近い。

だから、むやみに反省してはいけない。むしろ我慢しなければならない。欲望に任せて悪徳の反省をしていないかこそを、真に反省しなければならない。

許してはいけない

許しなさい、それが美徳だ、とよく教えられる。本当は許したくなくても、相手が謝ってきたなら許してあげなくてはいけないのだという。そうしないことは心の狭さだという。しかし、本当にそうなのだろうか。そもそも、許すとはどういう意味なのか。果たして言う方も聞く方もわかっているのだろうか。許すとは、そんなに安易なことでよいのだろうか。

Lois Lowry による "The Giver" という子ども向けの物語がある。冒頭では、謝罪と許しが儀式化された社会の一場面が描かれる。主人公が "I apologize for ..." と言い、それに周りが "We accept your apology." と返す。形式だけの空虚なやりとり。偽りの調和に満ちた世界。社会の存続と幸福の幻想が追求され、個人の意志や自由は蔑ろにされる世界。あなたやわたしを歯車として回転させすりつぶす世界。表面的な社会儀礼に飲み込まれ生の感情を失った人間。その描写は、物語世界の不気味さを巧みに伝えている。ディストピア小説がみなそうであるように、私たちが生きる社会の風刺として当を得た寓話だ。

私たちに対して奨励されている許しも、同じ空虚さを伴っている。私たちは、安易に許しすぎている。主体性に乏しく、意志を発揮することを恐れ、ただ流されて受動的に許してしまっている。それは現状維持を至上命題とする社会という仕組みが求める許しだ。それは、地上の論理に属するものだ。それは憎しみを消し去らない。相手に対して隠れた怨恨を抱え続けるか、どこかほかに向けるか、自分に向けるか。いずれにせよ、地上から憎しみの総量が減らない以上、偽りの和解は許しと呼ばれるに値しない。神様が求めた許しは、そんなまやかしではなかったはずだ。

許すとは、いったいどんな当為だろうか。サッカーでイエローカードやレッドカードが出たのに謝罪すればちゃらになどならない。人生でも同じことだ。一度犯された罪は何をしても消えてなくなることなどあるはずがないのだ。だから、 "to err is human to forgive divine"(過つは人の性、赦すは神の御心)と言うように、許すこと、すなわち罪を消し去ることは、人間を超える営みなのだ。神の領域に入り込み、サッカーのルールを変えてしまうような、あり得べからざるできごとだ。ゆえにそれは、確固たる意志によってなされた、人間に考えうる限り最高度な決断でなければならない。その代償を自ら引き受ける厳粛な覚悟に裏付けられていなければならない。

世の中で安易に行われすぎているのは、許しだけには限らないかもしれない。もっと広く、およそこの世の美徳とされることは、それゆえ安易な逃げになってしまっている。他人に褒めそやされることほど、むやみにやってはいけない。強い意志で行わなくてはならない。「人付き合いがよい」ことが美徳とされているから、あなたは今日もつまらない集まりに参加する。内心参加したくないと思っているのに。内面の意志の弱さゆえに迎合してしまう。そういう態度でいるから、人生を受け身で、他人のせいにして、単なる消費者として生きるようになるのだ。一度しかない人生を自分で作らずにどうしようというのか? そういう生き方をしていれば、あなたの人生も、この世界も、汚染されていく。

許してはいけない。許すことは、もとより簡単なことではない。たとえ罪をなかなかなかなか許せなかったとしても、狭量ではなく真摯さの表れだ。だからこそ、心の底から、世界の因果を曲げてしまう覚悟とともに、本当に高潔に許すというのなら、みなで讃えようではないか。