願いごと

このごろ、残滓のような交友関係にはまり込んでいることに気づく。かつて身をおいた場所で付き合いのあった人たちとの関係を維持することを怠っていた。だからいまさら連絡してくるのは、人望のない人間、他に友達のいない人間、give&takeというよりはtake&takeの人間、そういった他者に見放された人たち。人間関係に受動的・消極的になると、付き合いのある人たちが絞られていき、職場などで好むとも好まざるとも日々顔を合わせる人たちを除けば、こうやってある種の下心から他人を利用しようとする人たちばかりになる。だから嫌な思いをしてなおさら人付き合いを倦むようになり、新しい仲間を見つけることに億劫になり、人嫌いの螺旋階段を駆け下りる。暗くて窮屈な世界は閉塞していき、自ら作り出した呪いのなかに墜ちていく。

そんなおりに出会ったある人は、まったく違った生き方をしていた。熱中しているものについて目を輝かせて語り、暇さえあればそのことを考えている。誰彼かまわず人に話をして、それぞれの人なりの協力を取り付けてくる。人生は、そういった主体性を持って生きればはるかに豊かなものになるに違いない。人々と主体的に、積極的に関われば、世界はひとりでに開けていく。あなたに協力してくれる人、親切をしてくれる人が次々に現れて、どんどん向こうに歩いてゆける。人々はびっくりするほど他人に親切にしたがっている。ただ、あなたが歩んで願い求めないと何も生じないというだけのこと。

だから、その人のように、この世界を好きで、何かに熱中して前向きな日々を送っている人にはますます機会が与えられるし、世を疎んで無気力な怨嗟とともに生きていたら、ますます厭なことが続く。世界は岩のように重たくて動かせないもので、あなたの道を塞ぎあなたを押しつぶすだけのものだと思いこんでしまえば、本当はその岩が動かせることに気がつかない。世界はこちらから働きかけていけるもので、無窮の広がりを持っているものであることを知っているのは、主体的に生きている人たちだけだ。そうやって、うらみつらみではなく、願いと努力で世界に向き合うのが、一度限りの人生に責任を持ってよく生きることなのだと思う。

けれど、そうして願いを持ち主体的に働きかけていくことと、執着をすることの違いは紙一重だ。労苦して帝国を築きあげれば、それを失う恐怖にとらわれる。私たちが何かを所有するとき、何かを作り出したとき、何かを達成したとき、あるいはさんざん骨を折った末に達成できなかったときですら、その「何か」の存在は私たちの心の中でひそかに膨らんでいって、そこから離れることがむずかしくなっていく。自由に追い求めていた何かが、いつのまにかその自由を奪うくびきに成り果てていることに気づくことだろう。自由であるためには、執着を手放さなくてはならない。

けっきょく、この世はままならない。もしそれが真実なのだとすれば、世界をただあるがままに受け入れる諦観だけが無為な苦しみから逃れた生きかたということになる。物は壊れ、名声は忘れられ、地位は嫉妬され、命には限りがあり、肉体は朽ち果て、精神は消え去る。何かを望むことは迷妄の入り口にある。

しかしひるがえって、すべてを諦めることは無力感に生きることであり、人生を呪い閉塞させることでもある。諦観は苦しみの自己成就予言なのではないか。諦観が取り除いてくれるという苦しみは、もとより諦観によってもたらされたのではないか。日々活発に行動している人たちを見て、そんな希望の色に染まった疑念が心に浮かんだ。それとも、活発で主体的な生き方というのは、燃え尽きようとしている若さの最後の輝きなのだろうか。その先には、動かそうとしても動かない岩が待ち受けているのだろうか。

思えばたくさん願いごとをしてきた気がする。そのうちのどれほどが叶えられ、どれほどが打ち捨てられたことだろう。何かを願うときはいつだって、自分の心のひとかけらがちぎり取られるような感じがした。叶わなかった願いごとの痛みが積み重なって、やがて呪いに変わるくらいなら、最初から願わないほうがいいのだろうか。それは、単に最初から呪うこととどう違うのだろうか。