Q’s diary

生焼けの随想

孤独はあなたを自由にする

自分は宇宙人のようだ、という人にときどき出会う。わかるなあ、と思っていた。でもしばしば、なんだかちょっとその人とは感覚が違う気がしていた。そういう人は、だいたいは「(発達特性等に起因して)頭の中の作りが実は他の人と違うから深いところでわかりあえない」ということを言いたい。つまり、親も宇宙人で、地球人のあいだにまぎれて生活している、擬態している、というのだ。ただ、あくまで地球で生まれ、地球の生活しか知らないという点では、その人たちは「移民二世」のような立場だろう。しかし私が感じてきたのは、「移民一世」の感覚だと思う。かつていた場所の記憶があるというわけではないけれど、しかしともかく、この地で生まれ育っていない感覚。頭や心の作りが根本的に違うわけではない。その意味ではむしろ文化だけが極端に違う時代に来てしまったタイムトラベラーの感覚かもしれない。けっきょくのところはエイリアンでもタイムトラベラーでも同じことだ。根本的に、ここは自分が生まれた世界ではないと感じずにはいられないという意味で。

この感覚はどこまでも深い孤独感であるように感じられる。宇宙人の例えで言うなら、深宇宙探査のミッション中に地球に墜落し、通信機も故障し、助けが来るあてもない状況だ。あるいは時間旅行した例えで言うなら、時空の穴が崩壊してしまい、やはり帰れるアテがなくなった状況だ。なんにしても、根源的に孤独な状況であって、まわりにどんなにたくさん人がいても孤独感が埋まらないのは当たり前なことにすら思える。この世界のどこにも自分は属していないと思うし、それはあまりに当たり前のことだ。

しかしどこまでも孤独であることが、同時に無限の自由を意味することにも気がつく。もう、司令部から指示されるミッションはどうでもいいのだ。もう、時間を越える因果は消えてしまい、タイムパトロールがやってくることもないのだ。この世界に干渉するタブーを犯してもいいのだ。私がこの世界で生きるというのは、無人島サバイバルと何一つ変わらないのだ。たしかに他の人間はたくさんいる。けれどどんなにその助けを借りたとしても、あくまで自力でのサバイバルの一環でしかない。すべては自分の力。無人島で木の実を採集したからといって、野生のオオカミを飼い慣らしたからといって、独力で生きていることが否定されないのとまったく同じことだ。他の人間を使うか、動植物を使うかに何の違いがあるだろう。別に人間に対して冷酷な扱いをするわけではない。馬を大切にして生きる草原の民と同じことだ。

この世界を生きるのは無限のフィールドワークだ。人と関わること、コミュニティに参加すること。そこでいろいろな人と関わること。時に人がずいぶん感情的になっているのを観察すること。そういうのを見るたびに、いつも「いいデータが得られた」と心の中で思っている。未知の世界に生きるときには、まずは先入観なく観察することが一番大事だ。理論も大事だが、たくさん情報を集めるのが先決だ。ノイズの多いデータをたくさん集めていけば、傾向を見出すことができる。その先で法則性を体系化することにもつながる。そうやってひたすら多くの情報を集めていけば高度な知性だって生まれることは、ついに否定しがたく明らかになってきたではないか。毎日の行動でも、何か嫌な目にあったとしても、「貴重なデータが得られた」と思えばそんなに悪い気はしない。あえて知らない場、アウェーな場に踏み込むのも、いままで入手していないデータを集める目的だと思えば前向きになれる。ただその一方で、社会運動なんかに心から傾倒することもできない。拒むわけではないし、斜に構えたいわけでもない。でもどうしても遠く感じられてしまう。その世界だけに強く帰属している感覚がないと、そこを変えていこうという熱意に心の底から燃えることは難しい。そもそも、強く怒ったり泣いたりすることはほとんどないかもしれない。ここがたまたま流れ着いた無人島に過ぎないのなら、それもしかたがないのかもしれない。

子どものころによく野良猫と遊んでいた。同じ親猫に育てられたきょうだいでも、一匹ごとにずいぶん気性が違ったものだ。あまり目を合わせないようにして、まっすぐ近づかないようにして、一日で受け入れてもらおうと思わず、何ヶ月も時間をかけて自分を猫の溜まり場に溶け込ませれば、野良猫でも案外慣れてくれる。慣れるのが早い個体をなでていると、それを見た他の個体も安全だと気がついてくれるようだった。相手をよく観察しながら、信頼を積み上げていく。あの場で学んだ気がする。人間との関わりも、同じことだと思う。

そうやって生きていたら、だんだんと人々の共同体になじむのがうまくなってきた。個人としての人を読むのが得意なわけではない。ただ、人の集まりの中にうまく潜り込むは得意だと思っている。存在を消すわけではなく、関わって一定の立場を築く。一人だけ地元の人間ではないといったアウェーな環境でも、うまいこと入り込める。コミュニティに受け入れられるための条件はだいたいシンプルだ。仕事をがんばるか、成果度外視でともかくまめに顔を出して義理を立てるか、身内のジャーゴンを適切なタイミングで使って笑わせられるようになるか、このどれかが大事だ。観察して、価値観を見抜いて、それにしたがって振る舞う。そうすれば「なぜこいつはここにいるのだろう」という疑問は案外簡単に消え去る。唯一注意しなくてはいけないのは、古参メンバーがひさしぶりに復帰したときだ。見慣れない者が当然に溶け込んでいる空気、だれも疑問を持っていない空気。それがどうにも奇妙だと怪しまれてしまうことがある。こういう瞬間には特に気をつけないといけないと学んだ。どうやら、世を生きる人々はこうやってアウェーなところに潜り込む挑戦は好きではないようだ。私はスキルを確かめるようにしょっちゅうしたくなってしまう。別に人間関係をリセットしたいわけではない。ただ、腕前を試すために、ときどき関わる先を増やしたくなる。本当はスパイが天職なのかもしれない。

こんなの、だれでも同じようなことを考えるよ、と言われてしまうだろう。とくに思春期の頃は、と。「アウトサイダー」という言葉や書籍は現にあるし、ありふれた感覚なのかもしれない。『地下室の手記』の主人公に似た態度かもしれない。どこまで同じなのか検証する方法はない。だけど、やっぱりどうも違うんじゃないかという自意識が振り払えない。たとえば大きな集団を先導しているとき、人々は後方集団がついてきているのかにさほど目を配らないのが不思議だった。たとえば飲み会が終わって「二次会どうする?」という空気で店の前にたむろしているとき、集団が通行の邪魔になっていないかをだれも気にしないのはどういうことだろうか。たとえば車を運転していて対向車が不自然に減速したとき、死角の危険に気づかない人が大半なのはなぜなのか。電車の中で吊り革につかまっていて、一つ隣に持ち替えた方が隣の人がつかむのに好都合なことに気がついたとき、そういう観察をするのは自分だけに感じてしまうのは正しいのだろうか。他の人もカラスの行動から車や人の動きを察するのだろうか。混み合った駅の通路で、3秒後の人々の位置を予想しながら動き方を微調整している人はどのくらいいるのだろうか。どうしてもこうした一歩引いた目線を手放すことができない。悪いことじゃないと思う。でも、どうやら世の人々はそんな観察はしていないようだ。だからどうしても距離感を覚えてしまう。人々を馬鹿にしているわけではない。不安で怯えているわけでもない。街を歩くのも人々と関わるのも楽しい。ただ、どうしてもその一員には感じられない。もちろん、世の中にはいろいろなマイノリティもいる。それはそれで、アイデンティティとして何らかの集合意識を持つことができる。社会的に不利な状況に置かれていたとしても、連帯が容易なわけではないとしても、それでもやはりなにか立ち位置がある。どちらが恵まれているという話ではないけれど、どうにも共感できない距離を感じてしまう。みんな同じように思っているのかもしれない。だからこれはあくまで主観の問題だ。

辛気くさく考えたいとは思わない。失うものがあると思わなければ、毎日は探検するだけの日々になる。未知の惑星に降り立つ瞬間の興奮を、新しいコミュニティに潜り込むたびに味わえる。そうやって楽しんで生きないと損だと思う。根源的に帰属感を覚えないということは、一箇所に縛られないということだ。どこにだって飛んで行くことができるということだ。孤独感を覚えるからといって、さびしく思う必要はない。何かに怒る必要も、嫌う必要もない。ただありのままを観察すればいい。宇宙人であれ、タイムトラベラーであれ、この世界でのフィールドワークは、動物写真家のように決定的瞬間を追う営みにほかならない。未知の生態系を観察し、瞬間を捉え、そこにやりがいを見出す。そのためだったら野山をかき分けることも厭わない。同じ気持ちで、この人間界でのフィールドワークをしていきたいと思う。今日はどこに潜入しようか。そうやって日々を過ごしていけば、いつかどこかで、同じ星から漂着した仲間に出会えるかもしれない。もしかしたら、それはあなたかもしれない。