Q’s diary

生焼けの随想

水を注ぐ

飲食店でご飯を食べているとき、水を継ぎ足してくれるタイミングに注意を払ってみてほしい。ごく普通の店、気が利かないなと思う店、そして不思議とぴったりほしい瞬間に足してくれて、もういらないと感じたらなぜか声もかけてこない店がある。きっと、よく観察していれば仕草からわかるのだろう。もちろん、水がほしければ頼めばいいし、いらなければ断ればいい。何の問題もない。でも、これほど取るに足らないことでも、ぴったり読み取ってくれると気持ちがいい。

水を注ぐタイミングだけの問題ではなくて、こうした気配りはあらゆることに及ぶ。一回の食事全体を通して、たとえ同じ料理を提供したとしても、総合的な満足度は接客によってまったく変わりうる。入店するときから、メニューを案内するときから、飲みものや料理の提供のしかたから、何から何まで数え上げれば無数の要素があることだろう。その一つ一つで、客をよく見て合うように対応しているか、あるいはどこかがずれて、ぎこちなさや押し付けがましさが生じてしまうかが分かれる。

もちろん、いつも高級レストランに行きたいばかりではない。むしろ普段はラーメン屋の接客態度くらいのほうがちょうどいいだろう。気がきくわけではないが、べつに嫌な思いをするわけではない。水がほしければ自分で注げばいい。ごはんのおかわりは大きな声で頼めばいい。一度や二度聞き逃されたからといって腹を立てることはない。逆にいつもいつも先回りされたら疲れてしまうかもしれない。

ただ同時に、毎回毎回ほしいものを自分から頼むのは負担であることも事実だ。ネットで調べれば同等以上のものが安上がりに買えるとしても実店舗の需要はなくならないのは、適宜選択肢を絞ってくれたり、話を聞いておすすめしてくれることが一因だろう。あるいは、たとえば車いすに乗っているがために手助けが必要な人たちの立場では、毎回毎回頼むことが心理的な負担になって外出するのがおっくうになることがある。自分で何がほしいかを決めて、それを明確に伝えて、手に入れる。それは案外疲れることだ。だから優れた接客というのは価値を持つのだ。

ここに、一挙手一投足を見られている緊張感を与えず、それでいて気のきいた対応をするというジレンマが生じる。どうすれば、本当に満足のいく対応ができるのだろうか?

その答えは、おせっかいにあると思う。田舎で老夫婦が切り盛りしている食堂で、頼んだ料理以外に今日採集してきた山菜を出してくれる。そういうのがいちばんうれしいではないか。頼んでいないおまけをしてくれる。もちろんやりすぎたらうっとうしくなってしまうものではある。それでもその「余計なおせっかい」という謙遜とともに提供されるサービスはジレンマを打破できるものだ。

おせっかいの強みは自然体であることだ。その「あなたが求めているから提供します」という意識をさせないことだ。そして受け手の発想の範囲外で、潜在的に本当に望んでいたものを与えてくれることだ。いかにも相手に迎合しているのではなく、与える側のキャラクターから自然に湧き出してくる親切さであることだ。

これは飲食店だけではなくて、いろいろな場面に共通だと思う。むしろ、一般の人間関係の中でこそ活きるやり方だと思う。

どんな親切にせよ、「相手に求められたから与えた」という構図を作ると、受け手は恐縮しなくてはいけない。一切恩着せがましい態度を取らなくても、その構図がある時点で、実際にはいくぶんなりとも恩着せがましいのだ。「どういたしまして」の意味で英語で "my pleasure" とも言うのはここに理由があるのだと思う。ただの自己満足、勝手な気まぐれでおまけしただけ、そういう軽やかな態度を見せることで、受け手の負担を避けられる。

もちろん、極端に高度なことをしろというわけではない。他人に高度な接客並みの対応を期待しろというわけではないし。自分の心構えにするにしても、いつも最大限気を遣っていたら疲れてしまう。こういうのはときどきやればいい。無理に親切さを作り出しにいくのではなくて、自分の中に自然に芽生える瞬間や、たまたまやってきた機会に敏感になること、そこでためらわずにすっと行動に移すこと。そういう流れに逆らわない振る舞いこそがお互いの居心地をよくする。

そして、あからさまに相手の要望に応えないことには人間関係ではもう一つ意味があると思う。親切に萎縮してしまう人ばかりではなく、厚かましい人もいるからだ。人助けを切実に必要としすぎてなりふり構っていられない人もいるからだ。あなたが求めた、私が応じた。その構図を固めてしまうと、だんだんそれが当たり前になっていくことがある。求められたら応じる関係は不健全な依存関係の一歩手前だ。飲食店のおまけの一品だって、客が要求するものではなくて、遊び心で提供されるものだ。親切が当たり前になってはいけない。そのためにはやはり、「余計なおせっかい」として、行う側の気まぐれにすぎないという形で主体性が維持される必要がある。

けっきょくのところ、健全な親切というのは受け取る側、与える側、どちらにとってもうっとうしくならないものなのだと思う。飲食店での接客にせよ、日常的な人間関係にせよ。「余計なおせっかい」をするという姿勢がその答えになると思う。能ある鷹は爪を隠すと言うように、こういうおせっかいだってもちろん相手のことを考えた上でのものであって、単なる自己満足ではない。それでも、手間暇かけて設計された歓待をされるよりも、狙ってないのに釣り針にかかった珍しい魚を出してもらったほうがうれしい。日常生活でも、高級なギフトよりも、どこかに旅行した折に偶然見かけた、それでいて気の利いたおみやげのほうが素朴な気持ちが感じられる。そういうささいなきっかけをとらえることが、親切な人間になる方法なのだと思う。