毎日、私たちはいろいろなものを見て、感じて、考える。「走馬灯」という言葉があるが、日常生活も長く続く走馬灯、あるいは旅の車窓のようなものだ。そして、その車窓を見ている乗客は私たち自身だけではない。私たちのアイデア、創造性、心、そうしたものはおのおの独立した乗客として車窓を見ている。「だれに車窓を見せてあげるかを注意深く選択すること」、それが「日々を有意義に過ごす」というあいまいな表現の、真の意味だと思う。
見る景色、耳に入る言葉、読む文章、ふと心をよぎる考え、そうしたものの一つ一つが、意識の車窓に映る。では、いったいだれがあなたの意識の窓際席に座っているか?
ある人が窓際席に乗せているのは、温めている創造的なアイデアや、熱意をもって取り組んでいる仕事や、人生でやりたいことや、親しい人への想いや、建設的な悩みだ。朝から晩まで、さまざまな景色を見せてやることで、そうした価値のある思考に多種多様な刺激がもたらされる。思考が熟成し、ふくらみ、進展していく。新しい設定を思いついたり、仕事のやりかたをひらめいたりすることだろう。あるいは、だれかのための小さなプレゼントや、新しい目標についての考えが湧き出してくることだろう。何気なく過ごしている毎分毎秒が、豊かな旅の経験になる。
別の人が窓際席に乗せているのは、その人が嫌いなことや、どうにもならない過去の失敗のことや、恨みのある他人のことや、無為にこなしている煩わしいだけの仕事や、行きたくない集まりの予定についての心配だ。そういった考えにどんな車窓を見せてやったところで、何も建設的なことを付け加えることができない。たとえ何かが付け加わったとしても嫌なことや、どうにもならないことについて雪だるま式に考えを膨らましてどうなるというのだろう?
こうして、外からの見た目がまったく同じ行動をしていた二人がその日に得たものは、方やまったく無駄でかえって心を蝕む考えだけ、方や豊かで楽しくて明日につながる創造的な考えになる。「時間を有意義に過ごす」ことは、表面的な行動だけではなくて、あなたが意識の窓際席にだれを座らせるか、すなわちどんなことを意識の表層に置いておくかによっても決まる。生活を変えてまったく違う景色を見ることは難しい。しかし、だれを意識の窓際席に座らせるかは、常にあなたが決めることだ。その小さな違いが、長い人生ではきっと大きな違いになる。
「楽しいことにだけ目を向けよう」という現状肯定、思考停止の呼びかけをしたいわけではない。残念ながら地上には悪が少なからず存在する。そうした悪を浄化しようと取り組むことは言うまでもなく尊敬すべき社会貢献だ。しかし、この世のありとあらゆる不正義に関する情報をせっせと仕入れ、まるで地獄かのように呪って生きることは、何一つ善を生み出すことに貢献しない。たとえ日常生活の行動そのものが直接変わらなかったとしても、心の窓際席を呪いで埋めるのは、有意義な批判意識を持つこととは違う。それは、あなただけにできるやり方でこの世界に貢献する機会を一つまた一つと削り落としていく行いにほかならない。
窓際の座席は有限だ。セレンディピティがやってくるのは、意識の表層に置いてることがらに限られる。だから、嫌な考えは書いて忘れ、煩雑なだけの雑用も予定表に記していったん忘れる。心を汚染する情報源は断ち切る。行きたくない集まりは勇気を出して断る。そうやって、窓際席からはガラクタを追い払わなくてはいけない。そして何か一つ、小さなものでいいから何か創造的な活動に手をつけるのがよい。あるいは何か一つ、ささやかでも世のためになる活動をするのがよい。絶景の見える区間を旅行するとき、あえてカーテンを閉める愚か者がどこにいるだろうか。しかし旅行よりもはるかに人生の多くの部分を占める日常の窓際席にガラクタを積み上げておくのは、なお一層愚かなことだ。