少しの成長

むかしずいぶん長く関わっていた人たちの集まりがあることを間接的に耳にした。直接は何も知らされていなかった。心がざわざわした。こういうことはたまにある。またか、と思いながら、いいよどうせ馴染めてなかったし、あんまり好きじゃないし、これでいいんだよ、とひとりごちた。

そんな話をある関係ない人にしたら、いや行きなよ、連絡しなよ、と一喝された。振り返ってみて、このことには非常に感謝している。すっかり根暗な思考の落とし穴にとらわれていた。「どうせ自分なんて」思考。連絡してみることもなく、一方的に疎外感を覚えて、勝手にハブられたことにしていた。だけどそんなことはなくて、単に連絡が行き届いていなかっただけだった。

そもそも、明確に範囲の決まっていない「仲良しグループ」みたいなものに自分が含まれているかどうかは、自分が決めることだ。他人が含めてくれるのを待つのではなくて、自分から参加する。それだけ。そうやって自分で人間関係を規定していくのが自立した大人のやり方。受け身でいて「ハブられた!」とかルサンチマンを勝手に抱えて、勝手に人間を嫌いになってシニカルな態度を取ることは未成熟な態度だ。相手を勝手に深読みする方がよくない。わからなかったら混ざっていいか連絡を取ればいい。混ざりたいならそのために行動する、混ざりたくないなら帰る。シンプルな話。

そして久々に会った人たちと話が合うかというと、別に合うわけじゃない。みんな就職して何年か経って、いかにも大人びてきている。そしてすぐに結婚とかの話になって、勘弁してよという気分になる。実際にすでに何人か結婚しているし、もうすぐする人たちはもっといる。だからといって、「どうせ自分はまだ学生だし!」と置いていかれた気分になって「世の中は院生に理解がない」とか一方的に被害者意識を持つことは馬鹿げている。みんなそれぞれに大変なことがありながらがんばっている中で、一人で勝手に引け目を覚えて、一人で勝手に悲劇のヒロインぶるのはよしたほうがいい。それ端的にめんどくさいやつだから。

社会で何をしていようが、みんななんだかんだ不安だし、それぞれ人に理解されない苦労をしてる。そこをあえて飲み込んで、重い話は避けて、最大公約数的な話題でその場を回している。そうやってお互いの良好な関係性をつないでいる。そこまでして交際関係を維持することに価値を感じるか否かは各自の価値観しだい。だけど、少なくともあなたはさびしがりやなのだから、あなたはその場に所属したいと思っているのだから、だったら他人を見下す未熟な意識を捨てて、他人から学ぶ謙虚さを持つ必要がある。

自分に自信が持てるかどうかは自分しだいであって、他者に自尊心を与えてもらおうと口を開けて待っているような心持ちはやめたほうがいい[^1]。自分がその場に馴染んでいると感じられるかも自分しだいであって、自分を特別視して疎外感の自家中毒になるのも、やめたほうがいい。そう学んだ。ちょっと大人になった気がする。

(昨年度に書いて下書きに眠っていた記事)

[1] もちろん、属性による社会的な排斥の問題はある。ここではそういった構造はいったん置いて考えている。

Weltschmerz

久しぶりすぎて、スーパーまでの外出が非日常に感じられた。夏の空気、昼の暑さがまだ残る夜の始め。セミが鳴いている。もわっとした空気が全身にまとわりつく。なぜだか夏は古い記憶を刺激する。特定のエピソードという形を取らない、いろいろな記憶が混ぜこぜになった抽象的な過去。過ぎ去ってしまった時間。

家に閉じこもってあれやろう、これやらなきゃって考えている毎日。一歩外に出るだけで、それらがすべて遠ざかって見える。どうでもいいじゃん、ぜんぶ無意味じゃん。かなしい。何かが悲しいわけじゃなくて、存在の根源的な哀しさを感じる。やっていることすべて、別にやらなくても世界は何も変わらない。生きることの本質的な無目的さ。こうやって何もしないまま人生は暮れていくのだなという感覚。Weltschmerzというドイツ語が指し示すのはたぶんこの哀愁なのだろう。

人生を変える自由はある。どこにだって行けるし何だってできる。いろいろなしがらみがないとは言わないけど、突き詰めれば、本当に縛るものは何もない。それでいて、どうせその自由を行使する日はやってこない。どこにいくのも自由なのに、どこにも行かない。可能性は開けているのに、どこにも飛び込まない。

なぜかって、人生の自由を行使したって、けっきょく何も変わらないから。どこに行こうとも、こっちの河原で石を積むか、あっちの河原で石を積むかの選択でしかない。そこに意味を見出すには、どうしたらいいのだろう。そんな児戯めいた営為に意味を見出せるようになりたいとも、あまり思えない。

たぶん、こんなこと考えても出口はないのだろう。たぶん、焼肉でも食べれば解決すること。

関係性は作るもの

あるときこんな問いに出くわしました。「あなたが本当に素直に頼ったり相談できる人は何人いますか」見当もつかない。周りに人はいるけれど、本当に頼れるのでしょうか。

あるいは、ある人を形容するときに「友達」と呼ぶか「知り合い」と呼ぶかで迷います。向こうはどう思っているのかな。

だれかが自分のことを第三者に紹介するとき「この人は親友」みたいに言う。そうなのかな、と胸の中で思う。悪い気はしないけれども。

……これらはいずれも、ある弱さの表出なのだと思います。拒絶されて傷つきたくない心の弱さ。他者との関係を自分の意思で決めようとする勇気の欠如。


人と人の関係性は、先にどこかに規定されている正解を発見するものではありません。そうではなくて、相互に築くものなのです。例えるなら池に浮かぶ二艘の舟。その動きは常に相対的で、相手も動くし、自分も動くことができる。そしてどの程度の距離にするかにはお互いに責任がある。なのに、弱さゆえに、自分という舟が動けない小島だと誤解してしまう。相手が考える正解、あるいは天が与えた運命が先に決まっているものかのように。

違うのです。正解などどこにもない。与えられた真実を探すのではなく、あなたの望む真実を作りにいかなくてはいけない。作用を受けるだけではなく、作用を及ぼすこと。それが「親友」戦法を使ってくる人間のやり方なのです。親友だなんてきっと向こうも思っちゃいない。ただ、その発言があなたに対するシグナルとして働くことを知っているだけ。だいたい、「親友」が自然にできると思っているのは、恋人が空から降ってきたり白馬に乗ってやってきたりすると信じているくらいメルヘンな考え方でしょう。別に人に近づかなくてはいけないわけではないから好きにすればいい。だけど、もし近づきたいなら、ただ待っていて寄ってくるのは何か企みのある人間だけだと理解しなくてはなりません。

もちろん、関係性を規定しようとすることで拒絶されるかもしれない。離れていってしまう相手もいる。ありがちな言葉で「万人に好かれることはできない」というだけの話です。誰にも嫌われないように生きていたら、だれとも有意義な関係は築けない。最大公約数的な関係は、とりもなおさず、いくらでも交換できる関係なのですから。だからこそ、自分からシグナルを送って関係を深めないことは、すなわち拒絶の意味になってしまうのです。相手側から動いてくれるのを待ちながら、関係性が深まることを理解するのはナンセンスでしかありません。


だから、人との付き合いは年数の問題でもないのです。一緒に過ごした期間と、離れ離れになってからの期間の比率の問題でもない。あなたが関係性を続け、深めていくための行動を起こすか、起こさないか、単にそれだけの問題です。何もしてないなら当然疎遠になる。「ほどよく水平飛行させたい」そんな虫のいい話があるはずがないでしょう。関係性は上昇するか、さもなくば下降するかのどちらかしかないのです。糠床と一緒で、まめに手入れすれば味わいが増していくし、しないなら腐ってしまう。

「あなたが本当に素直に頼ったり相談できる人は何人いますか」そうやって受動的に考えることが間違いのはじまり。あなたは、だれかに本当に素直に頼ろうとしましたか、相談しようとしましたか。

さよならコミュニケーション

‪絶対的真理かのように説教くさく撒き散らされる「話し合えばわかる」「ちゃんとコミュニケーション取らなきゃ」みたいな言説‬は、なんて軽薄なのでしょう。

あなたそれ、本当に考えて言ってますか。この世の中、手垢のついた文句ばかり右から左に流している人ばかり。だって、そう言うあなたは、何をコミュニケーションで解決しましたか。別に完全無欠であることなんて求めてませんよフェアじゃないから。だけど、それにしたって、コミュニケーションで何が分かったと言うのでしょう。人は孤独で、人生は空しいということがわかるんじゃないんですか、もしちゃんとコミュニケーションしたら? それがわかってないなんて、本当に本当にコミュニケーションしようとしたことありますか?

百歩譲って、コミュニケーションが取れればうまくいくと仮定しましょう。そんなにいいものなのに、なぜみんなしないのでしょう。崩壊家族も職場対立も国際紛争も話し合えば解決するのに、みんなしてない。だから、話し合うようにしようね。そうしたら改善するよ。ねえ、舐めすぎではないですか。そこにはできないわけがあるでしょう。ただコミュニケーションしましょうなんて言ったってなんにも解決しない。そんなこともわからずに紋切り型の文句を投げるだけなんて、本当にコミュニケーションですか? 相手のこと考えてますか? むしろ、そういうコミュニケーション信奉者の有り様こそ、人と人とは通じ合えないことを例証しているように思えてなりません。コミュニケーションは、共同幻想に過ぎないのではないですか。すでに同じことを考えている人たち同士が、そのことを確認する儀式にすぎないのではないですか。それはたとえ表面的な属性が違う人々の間であっても、予定調和であり、同質性の産物です。

ここに二つのオルゴールがあって、タイミングが一致することで一つの旋律を作り上げています。まるで協力協調しているかのように。――私たちがコミュニケーションだと思う物は、こういう作り物に過ぎないのです。街で店に入れば、店員があたかも非常に親密な間柄かのように接してくれる。「あなたのために」個人的にもてなしてしてくれている様子を模擬している。でも、期待された枠組みを外れて個人的関係を求めたら、きょとんとしながら「お客様、」と言われてしまうでしょう。私たちはそういう、虚構としての親密さのなかで振る舞うことにすっかり慣れてしまいました。何が起こるか予測できない個人商店からはなんとなく足が遠のくようになってしまいました。心が通うことよりも、心が通ったかのような錯覚を安全に得られる方を好んでいるのです。人間と人間が二つのオルゴールのように振舞って、コミュニケーションの虚構を作り出しています。

個人的な関係での「コミュニケーション」だって、けっきょくは予定調和の虚構に過ぎません。友人、恋人、家族、そのうちに本当に通じ合っている人たちがどれだけいるでしょうか。人間関係だって、数えるほどしかない台本を繰り返し繰り返し再生しているだけに過ぎないのです。簡単に関係性を名前でくくれること、あるいはそれらと大差ないものをわざわざ「名前のつけられない曖昧な関係性」なんて称して高尚ぶる人たちがいること。どちらも、人間関係に台本があることをあたりまえと見なしているゆえのことです。

石の永遠・命の永遠

以前、恩師の恩師に一回だけ出会ったことがある。話してみると、まったく同じではないけれど、恩師の教えの原型があった。感動してしまった。だって、そこに命の連続性を見たから。そうやって人と人は間接的にもつながっていけるという希望を得たから。わたしは、わざわざ恩師の恩師に出会わなくても、恩師を通して、とっくに出会っていたのだ。たとえ顔も名前も知らなくても、だれかの命を受け取って、わたしたちは生きているのだ。


私たちは、「永遠」であることに価値を見出す。だから、石を積み上げ、粘土板に文字を刻み、金を買い集める。墓碑銘に刻まれる肩書と言葉のために骨を折る。けれどそれは、石の永遠だ。命は、そうやって永遠を得ることはできない。Shelleyのソネットが唄っている。

Ozymandias - Wikipedia

And on the pedestal these words appear: 'My name is Ozymandias, king of kings: Look on my works, ye Mighty, and despair!' Nothing beside remains. Round the decay Of that colossal wreck, boundless and bare The lone and level sands stretch far away.

今日何をしようと、今日は昨日になり、おとといになり、どんどん過去に流れていく。100年前、いや10年前のものですら、この変化の速い時代にはあっけなく消え去ってしまう。時間軸にある固定の点を定めて、それを残そうとすることが、どんなに空しいことか。石ですら、けっきょく永遠にはとどかないのに。

人の関係性も、感情も、また永遠ではない。「出会いは別れのはじまり」と言うとおり、人と出会えば、いつか別れるときが来る。そもそも、万物は流転する。だから、無形有形を問わず、「それそのものがそこにある期間」だけに価値を求め、永続性をよしとするのは、やはり石の永遠に陥る。そうじゃなくて、もう会うことがなくなっても、どこかでずっと影響を受けているような、そういう出会いをしたことはないだろうか。そこにこそ連続性がある。そして連続性こそが、命の永遠。そもそも、私たちの身体ですら、構成する細胞はどんどん入れ替わっていって、かつてのあなたといまのあなたが物質的に共有するものは存在しないのだから。

生きることは漸化式だ。昨日が今日を作り、今日が明日を作り、明日は明後日を作る。それだけで十分。三日もすれば今日何をしたかは忘れてしまうけど、それでも時間はつながっている。間接的に、三日後だって今日のおかげで存在する。二ヶ月後だって、十年後だってそう。あなたが死んだあとだって、あなたのことをだれも覚えていなくても、間接的には、あなたは影響を及ぼしている。その影響がよいものであるように努力できるのは、いま生きている間だけだけれど。

ゆるすこと

私の長年の友人であり、一番の理解者であるあなたへ。

それなりの年数を生きているうちにたくさんの人と出会ってきても、掛け値なしに、あなたほど気が合う人はいないと思っています。そんなあなたに仲良く接してもらえていることを非常にうれしく思います。

だけどいまだに、あなたを恨み、できることなら仕返しをしたい気持ちが心に泡立ちます。思い出話に花を咲かせながら、この汚泥のような感情をあなたに投げつけたい衝動をどうにか抑え込んでいました。あるいは抑え込めてなくて、表情に漏れていたかもしれません。

かつて、あなたは私の敵でした。7年前の今日、あなたから届いた一通のメールがいまでも残っています。真っ正面から心を切り裂く内容でした。ありがちな人間関係のこじれと言ってしまえばそれまでとはいえ、いま読もうとしても、拒絶の刃の冷たさが心臓から広がっていくのを感じて、最後まで目を通すことができません。血の気が引くという慣用句が比喩的な意味だけにとどまらないことを知ったのは、このときでした。一連の記憶は曖昧模糊としていて、どこまでが実際に起こったことで、どこからが私の頭の中でつなぎ合わせたストーリーなのか判然としません。記憶があらかた消え去ったあとに、形のない痛みと恨みだけが残りました。経緯については当時の日記に記述があるものの、これも直視できません。掘り起こそうとするといまだに涙が溢れそうになるのです。あのころの私は、どうやって堪えることができたのでしょうか。あのころ、明日を迎えないで済む方法を考えなかったのが不思議なくらいです。

わかっています、きっと私も悪かったのだろうし、あるいはむしろ私のほうが悪かったのかもしれないってこと。お互い未熟で、必死で、悪意はなくて、ただ弱かっただけだということ。そんな昔のことをいまだに引きずっているなんて馬鹿げているってことも。だから、どっちが悪かったとか関係なく、実際何があったかも関係なく、もはやすべては過去でしかなくてどうでもいいはずなのです。なのに、あなたにひどく傷つけられたというこの感情は心の底で焦げ付いて、どんなに合理的な理屈でも振り払えなくなってしまいました。これまで感情に振り回される人々に冷ややかな目を向けていた私の無知を恥ずかしく思います。

でも、あなたのことが好きです。あのころから、心のでこぼこしたところによく気づいてくれる人だと知っていました。表面的にはあんまり似ていないけど、心の奥のほうがよく似ている同士だと思っています。一応の仲直りをして友人づきあいを再開してから、細く長く、ずっと頼れる人でした。実質知り合ってから一年未満しか同じ場所で過ごしてないのに、その後に関係性が深まっていくのは、なんて幸運なことでしょう。あなたに相談したことはそんなに多くはないけれど、人に悩みを打ち明けることがほとんどない私にとっては、どんなに貴重な支えだったことでしょう。願わくば、あなたにとっても、私の存在が意味のあるものであってほしいです。よかったら、これからもずっと友達でいたいです。

でも、あなたのことが嫌いです。プラスマイナスで差し引きできる問題ではないのです。あなたとの記憶は、いまだに私の心に空洞を残しています。あなたと出会い直せたらと、何度願ったことでしょう。いっそなかったことにしたいあのころの記憶が、あなたと私を結ぶただ一本の線だなんて、認めたくありません。なにもお互いにしんどかったあの一年に出会わなくてよかったのに。前にもこんなことを言ったかもしれません。そしてやさしいあなたは謝ってくれたのかもしれません。あるいは私からも、もうあのころのことはあのころのことだね、とか言ったかもしれません。それでもなお水に流せていない私がいます。たとえあなたがもう十回謝ってくれたとしたって、きっとなにも変わらないことでしょう。

だれかに親しみ好きである気持ちは、その人への敵意と共存できてしまうなんて、知りませんでした。いっそ、相反するものであればどんなに楽だったでしょう。「好意の反対は無関心」という使い古された台詞の本当の意味がはじめてわかった気がします。好きかつ嫌いであることはできても、好きかつ無関心であることはできませんから。「ゆるす」というのは、そもそも好きと嫌いが共存しないと成立しない概念なのかもしれません。それは、単に憎しみを取り去るという意味ではなくて、愛を憎しみとの終わりなき戦争から解放してやるという意味なのだと思います。

ゆるすことがこんなに難しいなんて、知りませんでした。もしかしたら、何十年経っても私はこの憎しみから抜け出せないのでしょうか。醜い感情は、時間が洗い流してくれるどころか、心の暗がりで朽ちていくうちに、よけいに拭い去りがたいものになっていくようです。表面的にゆるしたことにして握手するのも簡単ではないですが、だれかを本当にゆるし和解することは、なおさら難しいのですね。

そして、人をゆるせないことは、己をいつまでも苦しめ罰を受け続けることであると知りました。ただ私が過去から自由になればおしまいなのに、それができない。だから、私のことを一番理解してくれる人に、本心を隠して、苦しさを抱えながら接さなければなりません。さよならしてしまうにはあまりに大切すぎるあなたに、無邪気に接することができません。

あなたの心に、この一連のできごとは、こんな私の姿は、どう映っているのでしょうか。あなたが勧めてくれた『氷点』を最近読みました。罪と赦しが主題であるこの小説を私に勧めたのには、どんな意図があったのでしょうか。あなたにも、どうしてもゆるせないことがあるのですか。あなたはどうやって、過去にいつまでも執着する私をゆるしてくれたのですか。私があなたをゆるせる日は、来るのでしょうか。

選択肢がこわい

物件情報サイトを開く。あれこれの条件で絞ってもまだまだたくさんの物件が表示されて、写真、間取り、立地などの情報をスクロールしていく。どこに住もうかなあと想像を巡らす。選択肢にあふれている。そしてそれぞれの選択肢は、きっと人生で見る景色をずいぶん大きく変えてしまう。いつも乗り降りする駅、いつもの階段、いつもの路地裏の野良猫、いつものスーパーの半額時間帯、ぜんぶ、変わってしまう。

そういう選択肢がこわい。あまりにたくさんあって、どこかにする必然性は見いだせなくて、だけどその結果は重大な選択肢。一番いい物件を選んだつもりでも、本当にそれが一番かは蓋を開けてみないとわからない。それに、ひょっとしたらあと一ページ次まで見たら、もっといい部屋が眠っているかもしれない。あるいは来月見たらまた違うかもしれない、もしかしたら先月にすでに最高の物件は消えてしまったかもしれない。冬場の空調の効き方のむら、水道の蛇口の流量、近所にある定食屋さんの味噌汁の味付けと米の炊き加減。とても挙げきれないくらい膨大な日々の感覚、思考、経験を左右する選択肢なのに、調べ尽くすことなどできるわけもなくて、えいやと選ぶしかない。

もちろん、住めば都とはよく行ったもので、いったん住んでしまえばその街を開拓したり部屋を快適にしたりして、あったかもしれない選択肢のことはあまり頭に浮かばなくなる。でもときどき、何かを逃しているんじゃないか、ここよりいい選択肢があったんじゃないかという疑念が帰ってくる。

必然性が足らない。いや、人生に必然なことなどあっただろうか。陳腐な問いだ。そして同様に陳腐な答えは、必然など死以外にはなくて、それ以外は一定の水準の面倒くささを閾値として必然だと思いこんでいるだけということだ。

あるいは、使ったことはないけれど、就活サイトや結婚相談所も似たようなものだと思う。なんならより一層、人間の生活そのものを記号に縮約して交換可能な価値に還元している。取り替えられるはずのないものが、市場の論理に変換されて、取り替えられるようになっている。そして同時に、そうしたサービスを使うわたしも、取り替えられる存在になっている。それでいて、そういうサービスは、新しい故郷を、運命の相手を、やりがいのある天職を紹介してくれるかのような夢を見せ、もっともっと深入りさせようとしてくる。ほんとうは、使えば使うほど、必然性の幻想は破壊されていき、すべてが「これでなくてもいい」ことが明らかにされるだけなのに。