Weltschmerz

久しぶりすぎて、スーパーまでの外出が非日常に感じられた。夏の空気、昼の暑さがまだ残る夜の始め。セミが鳴いている。もわっとした空気が全身にまとわりつく。なぜだか夏は古い記憶を刺激する。特定のエピソードという形を取らない、いろいろな記憶が混ぜこぜになった抽象的な過去。過ぎ去ってしまった時間。

家に閉じこもってあれやろう、これやらなきゃって考えている毎日。一歩外に出るだけで、それらがすべて遠ざかって見える。どうでもいいじゃん、ぜんぶ無意味じゃん。かなしい。何かが悲しいわけじゃなくて、存在の根源的な哀しさを感じる。やっていることすべて、別にやらなくても世界は何も変わらない。生きることの本質的な無目的さ。こうやって何もしないまま人生は暮れていくのだなという感覚。Weltschmerzというドイツ語が指し示すのはたぶんこの哀愁なのだろう。

人生を変える自由はある。どこにだって行けるし何だってできる。いろいろなしがらみがないとは言わないけど、突き詰めれば、本当に縛るものは何もない。それでいて、どうせその自由を行使する日はやってこない。どこにいくのも自由なのに、どこにも行かない。可能性は開けているのに、どこにも飛び込まない。

なぜかって、人生の自由を行使したって、けっきょく何も変わらないから。どこに行こうとも、こっちの河原で石を積むか、あっちの河原で石を積むかの選択でしかない。そこに意味を見出すには、どうしたらいいのだろう。そんな児戯めいた営為に意味を見出せるようになりたいとも、あまり思えない。

たぶん、こんなこと考えても出口はないのだろう。たぶん、焼肉でも食べれば解決すること。