This is (no longer) water: 心が変わってしまうこと

私たちは、物事を考えるとき、「自分の心が変わる」ということを忘れてしまいがちに思います。それはきっと、自分=世界の中心という揺るがしがたい直感があるから。そして世界の中心はすなわち不動だからなのでしょう。

だから、物事の因果関係を考えるとき、外的世界のことばかりを考えてしまいます。「Aを選ぶ→外的世界の因果関係→Cが起きて、Dが起きない」。Aを選ぶべきか、Bを選ぶべきか、思い悩みます。そういう選択は別に問題じゃないのです。間違えることはあるけど、間違えたってどうにでもなるからです。間違いというほどでもありません。限られた時間や情報の中で判断が不完全になるのは当たり前でしょう。

こういうとき、その「外的世界」には当たり前のように「他人の心の動き」が入っています。これをしたらあの人に嫌われるかな、そうしたらきっとあっちに話が行って、それで……。そんなことを考えることは珍しくないはずです。だけど、「自分の心の動き」はどういうわけか入っていません。まるで自分の心は思い通りに操れると思い込んでいるように。そんなわけないって、毎朝スヌーズボタンを押しながら実感しているはずなのに。


世界の中心は、動くのです。あなたの選択によって。あなたの心は変わる。そして、変わってしまったあなたの心は、今度はあなたを動かすのです。抗えないほどの力で。

日常に選択はつきものですけど、実際のところはどれを選んでもなんだかんだあまり変わらないところに落ち着きます。「りんごを買って帰ったけど、やっぱりみかんが食べたかったな。」じゃあ今度はみかんを買えばいいじゃないですか。単に「りんごが食べられなかった」ということは、過ぎ去ってしまえばもうそれだけで、未来に影響は及ぼしません。

けど、「赤い家を買う」という選択はどうでしょう。しばらくの間は「やっぱり青い家にしておけばよかったかな」と思うかもしれません。でもそのうち「赤い家が一番」と強く信じるようになります。そこに自分を正当化したい欲求があることに気づくことはむずかしいし、まして止めることはできないでしょう。青い家を買っていたら、まったく逆の考えになっていたことに気づくことも、むずかしいのです。自分が強く信じている信念が、まったく必然性がない恣意的なものだってことになってしまいますから。ほんとは逆を信じてもぜんぜんかまわないなんて、受け入れられるわけがないじゃないですか。

他人が違う考えを持つことは、まあ受け入れられます。ときとして簡単じゃないけど、できる。でも自分が違う考えを持つことはどうでしょう。ぜんぜん相容れない考えを、表面的に口先だけじゃなくて、心の底から信じる私がいたかもしれないってことを受け入れられますか。そして、本当は私はそっちになりたかったんじゃないかって思うことほど悲しいことは、実はあまり多くないんじゃないでしょうか。What do you want yourself to want?

感情や習慣は人を操ります。どんな意思を持っていようと、願ったように行動することはできません。あるいはどのような願いを持つかさえ、思うようにはいきません。他人を自分の利益のためだけに使いたいと思うか、そんなことは思わないか。いざというときに誘惑に抗えるかどうか。心の中で都合のいい言い訳を思いつくのは簡単です。


たぶん、これこそが本当に「選択」なのだと思います。自分自身が変わるとき、世界全体が分岐するのです。世界にある一つや二つのものが動くのではなくて、世界全体が動く。自分が動くから。あなたが、あなたじゃない人になるから。

動かしちゃいけない、固定しなさいって言ってるわけじゃありません。むしろ動かさないといけません。だけど、どう動かすかを考えないといけないってことです。だって、どっちに動かしたとしても、動かしたあとの自分にとってはそこが中心になってしまうからです。

どちらの道に行くかでその先の出来事も変わるし、周りにいる人も変わる。赤い家を買ったら、赤い家が好きな人ばかりになる。青い家なんて最低だって「常識」を身につける。逆もまたしかり。いったんそこまで入り込んだら、もう切り替えることはできない。でも遡ってみればどっちでも選べた瞬間があったんです。そのときには、きっと「選択」の重大さには気づいていなかった。


だから、行いを他人の目から隠すことに意味はないのです。一人や二人の他人が見たってどうせたいした影響はないでしょう。でも、どんな影でしたことも私は見ているし、未来の私は全人格でそれを表現してしまうのです。自分が見るということは、たとえ誰も見なくても全世界が見るということです。

訓話めいたことを言いたいわけじゃありません。ただ、小さなことの積み重ねは大きな力を持つ。ものごとのとらえかたが、だんだん積み重なって私たちにとっての現実全体を動かしていくという大きな力を発揮する。その力を私たちはすべての瞬間に行使しているのだということを言いたいのです。そして、それをどう行使するかについての責任を取ってくれる人は、他にだれもいません。

たとえば「人(々)を大事にする」ために大切なのは、その人に接している時にどうするかじゃありません。「人を大切にできる自分の心を育てる整えるために24時間365日の生き方に気を配ること」が核心なのです。スポーツ選手は試合の間だけがんばるのではなくて、常日頃練習をし筋肉をつけ食生活に気を配り生活している、それと同じことです。普段筋トレしていなかったら、球を打つ瞬間にどんなにがんばっても結果は出せません。条件が決まれば、筋肉も心も一定の能力を発揮することしかできません。けれどその条件は整えていくことができます。それは意志の問題です。私自身の、あなた自身の責任です。

私は、どんな私になりたいのでしょう。そうなるために必要なのは、どんな心のあり方でしょう。私は、どんな世界を望んでいるのでしょう。外的世界をそのように映し出す心は、どんな形をしている必要があるでしょう。どんな行動が必要かを問う前に、そのことをよく考えなくてはいけません。