想像力の先へ

社会で他人が不愉快な振る舞いなんかをしていたときに「とてもつらいことがあったり、特別な事情があったのかもしれないじゃん。そういう想像力が大事だよ。」みたいな言説、とてもよくあるもの。昔は好きだったけどなんだか浅く感じる。子どもだましでしかない。

そこで言う「想像力」がどうにも薄っぺらい。自分が持っている感性の尺度そのものは手つかずで、外部的な条件だけ変更する想像力でしかないから。根本的な思考の枠組みそのものを疑ってはいないから。「子供叱るな来た道じゃ。年寄り笑うな行く道じゃ」はたしかに有意義な人生訓であるにせよ、どこまでも「自分の延長の他人」でしかない。だから、自分が経験する可能性のある事情とか、直接経験する可能性はなくても理解の範疇に収まることしか考えられない。

その「想像力」は、動物にセリフを当ててしまうたぐいの「想像力」だ。異質な他者を怖がる気持ちを根本的には問い直すことなく、大きくて無根拠な同質性を土台に据えて安心しようとしている。差異に意識を向けようと言いながら、表面的で偶発的な差異だけに矮小化している。

だいたい、電車に乗る列に割り込んでくる無礼な人間にきっとそんな極端な事情はないじゃないか。育った文化圏だって多くは同じだ。そうじゃなくて、そもそもの考え方が違う。それは人生の中で一つ一つは取るに足らない小さなできごとの積み重ねでできている。根本的なところから、たとえ同じ世界に住んでいても経験はまったく異なるという事実を見つめないといけない。

他者との間で根底に同質性そのものが存在しないと言いたいわけじゃない。ただそれは、この世界のありかた、身体的存在のしかた、備える感覚のつくり、そういったものを一つ一つ吟味して、むやみに同じだと思っていないか注意深く疑いながら積み上げていかなくてはいけないもの。

けっきょく、安易に極端な事情を持ち出したって他人の振る舞いを説明することなんかできない。わけのわからない他人、あるいは他の生き物すべてそう。雑な「同じなはず」から出発して同じじゃないことに驚くのははなから間違っている。けっきょく、他人なんて解剖してみないかぎり人間なのかロボットなのか宇宙人なのかすらわかったものじゃないじゃないか。何も知らないのに、どうして当然のように自分と同じだと思っているのか。一度まっさらにして考えると、むしろ驚くべきなのは気味がわるいほど感情や思考が似通っていることのほう。

そうやって考えれば、想像力なんていらない。あるいはもっともっと大きな想像力こそが必要なのかもしれない。