さよならコミュニケーション

‪絶対的真理かのように説教くさく撒き散らされる「話し合えばわかる」「ちゃんとコミュニケーション取らなきゃ」みたいな言説‬は、なんて軽薄なのでしょう。

あなたそれ、本当に考えて言ってますか。この世の中、手垢のついた文句ばかり右から左に流している人ばかり。だって、そう言うあなたは、何をコミュニケーションで解決しましたか。別に完全無欠であることなんて求めてませんよフェアじゃないから。だけど、それにしたって、コミュニケーションで何が分かったと言うのでしょう。人は孤独で、人生は空しいということがわかるんじゃないんですか、もしちゃんとコミュニケーションしたら? それがわかってないなんて、本当に本当にコミュニケーションしようとしたことありますか?

百歩譲って、コミュニケーションが取れればうまくいくと仮定しましょう。そんなにいいものなのに、なぜみんなしないのでしょう。崩壊家族も職場対立も国際紛争も話し合えば解決するのに、みんなしてない。だから、話し合うようにしようね。そうしたら改善するよ。ねえ、舐めすぎではないですか。そこにはできないわけがあるでしょう。ただコミュニケーションしましょうなんて言ったってなんにも解決しない。そんなこともわからずに紋切り型の文句を投げるだけなんて、本当にコミュニケーションですか? 相手のこと考えてますか? むしろ、そういうコミュニケーション信奉者の有り様こそ、人と人とは通じ合えないことを例証しているように思えてなりません。コミュニケーションは、共同幻想に過ぎないのではないですか。すでに同じことを考えている人たち同士が、そのことを確認する儀式にすぎないのではないですか。それはたとえ表面的な属性が違う人々の間であっても、予定調和であり、同質性の産物です。

ここに二つのオルゴールがあって、タイミングが一致することで一つの旋律を作り上げています。まるで協力協調しているかのように。――私たちがコミュニケーションだと思う物は、こういう作り物に過ぎないのです。街で店に入れば、店員があたかも非常に親密な間柄かのように接してくれる。「あなたのために」個人的にもてなしてしてくれている様子を模擬している。でも、期待された枠組みを外れて個人的関係を求めたら、きょとんとしながら「お客様、」と言われてしまうでしょう。私たちはそういう、虚構としての親密さのなかで振る舞うことにすっかり慣れてしまいました。何が起こるか予測できない個人商店からはなんとなく足が遠のくようになってしまいました。心が通うことよりも、心が通ったかのような錯覚を安全に得られる方を好んでいるのです。人間と人間が二つのオルゴールのように振舞って、コミュニケーションの虚構を作り出しています。

個人的な関係での「コミュニケーション」だって、けっきょくは予定調和の虚構に過ぎません。友人、恋人、家族、そのうちに本当に通じ合っている人たちがどれだけいるでしょうか。人間関係だって、数えるほどしかない台本を繰り返し繰り返し再生しているだけに過ぎないのです。簡単に関係性を名前でくくれること、あるいはそれらと大差ないものをわざわざ「名前のつけられない曖昧な関係性」なんて称して高尚ぶる人たちがいること。どちらも、人間関係に台本があることをあたりまえと見なしているゆえのことです。