日本に留学しよう

親戚の葬儀に出る。地元の名士とでも言うべき人物で、ずいぶんたくさんの人々が参列していた。代々檀家をしている寺で、一族に顔なじみらしい僧侶が読経をはじめる。その声が響き渡る本堂で、そっと薄眼を開けながら考えることがある。わたしは一生のうちに、このような文化体験を、どこか日本以外でできるだろうか。観光客向けによそゆきのラッピングされていない、内側にいる人たちだけのための儀式を目撃することがあるだろうか。あるいは、もしわたしが日本に生まれなかったら、この場に入り込む方法はあっただろうかと。


「国際的」な人間になりたい人たちが、一部にはたくさんいる。わたしは別に国粋主義者でも保守主義者ではないと思うし、かつて、あるいは今でもそういう「グローバル」な人々に共鳴するところも少なからずある。ただ、最近になって、その手の考え方に底知れない軽薄さを感じるようになってきた。そこには、どこまでも希釈され、どこまでもコモディティ化された記号としてしか、もはや文化の形は残っていないではないか。土地や歴史、何よりそこに暮らした人間に根ざした生き方は損なわれてしまった。代わりに、博物館に展示されているかわいい動物の剥製に成り果てた「文化」がそこにはある。もう血が流れていない。唯一「文化」の血が臭うのは、その文化が西欧的な、あるいは「グローバル」な標準化との間で摩擦を起こすとき。そこでは人間の生き様の最後のあがきを目にすることができる。

あるいは少し違う人たちに目を向ける。「世界で活躍するためにはまず日本の文化を学ばなきゃね」というおきまりの文句がある。で、どんな文化? 茶道? 生け花? 趣味としては面白いと思うけど、それは死体だ。だってもう解剖が済んでいるから。きわめてきれいに整えられて、解釈がなされて、ストーリーが付与されている。それが文化の死体処理。そうして今や剥製としてガラスケースの中に展示されている「文化」という名の商品にすぎない。ツアー旅行を企画したいならそれでもいい。海外で博物館を巡って「先住民の伝統の舞踏」みたいなものの実演を見て、ミュージアムショップでそれらしきグッズを買って、それで何か深いことを知った気分になれるならそれでもいい。

本当に興味をそそるのは、世俗の人々のリアリティのある暮らしではないか。社会における光と陰ではないか。どのような規範があって、暗黙のタブーがあって、身分や階級はどのように構成されて、あるいはそこでどのように儀式が意味をなしているかではないか。そういうものをすべて漂白して資本主義の枠組みで再構成し直したあとに残るのは、いったい何だろうか。


思い出すべきは、わたしたちはすでに「日本にやってきている」ということだ。たまたま、この島国でインサイダーの顔をするための潜入作戦に成功している。他の国では話されていない独自の言語も理解できる。だったら、ここでフィールドワークをやる以外ないではないか。どこか遠くの小さな島国への留学をする機会を得たら、そのくらいのことをしようとは思うだろう。

もしそんな気分にならないのだとしたら、それは逆説的にあなたがあまり「グローバル」な視点を持っていないからだ。日本人であることに染まりすぎて、それを当たり前だと感じてしまっているからだ。いったん出自を忘れれば、この国の人々のありかたはいろいろと興味深いだろう。冒頭に挙げたような葬式は、たぶんもうすぐ見られなくなってしまう。今のうちに観察しておかなければならない。だって、こういうのは「文化」という商品として保存されることはなさそうだから。ほかにも、社会の輝かしくない側面は、文化が商品に変換されるときにぜんぶ抹消されるから、今のうちに見ておかなければならない。けっきょく、いまここでフィールドワークして馴染めないし興味も持てないなら、よそに行っても表面的な社会しか見ないで終わるだろう。

いまあなたが異郷の文化に興味を持っているのは、それが新鮮で非日常だからにすぎない。でも、これからの数十年で、日本という土地はきっと大きく変わっていくだろう。たくさんのものが、消えていってしまうと思う。もしかしたら、あなたもわたしも故郷を捨てて移民してしまうかもしれない。だったら、せめて限りある「日本留学」の期間、この夕暮れ時のきらめきをよく目に焼き付けておくのが一番有意義なことだと思う。