特権への罪悪感

地域格差、経済格差、教育格差、文化資本、諸々の生得的属性といった要因がある人々を不利な状況に置き、ある人々には「特権」を与えている。そんな話をネットで見ない日はなかなかない。私自身、困難もあったにせよ、いくつかの面で利益を受けてきた。そうした格差が歴然と存在し、温存されているのは良いことだとは思わない。だから、恵まれた立場にいることを後ろめたく感じている。

けれど、その「後ろめたい」という罪悪感は本当に当を得たものなのだろうか。たぶん、違うと思う。もちろん社会的資源は公平に配分される方がよく、恣意的な偏りが出ているのはよくないことだ。しかし、「私」という個人がその構図の中で恵まれた立場にあることに意味を見出すのは間違っている。たまたまでしかないのだから。その席に座っているのが代わりに「あなた」であっても、「どこかのだれか」であっても、やはり格差が問題であることは変わらない。そうした構造へ本当に目を向けなくてはいけないのに、個人的な立場に対する罪悪感として捉えてしまうと、その席を手放して罪悪感から逃れたい、被害者ポジションに収まって楽な気分でいたいという意識に矮小化されてしまう。その罪悪感はニーチェの言うところのルサンチマン、禁欲的な態度に由来するものだ。そうした態度こそ、構造が温存される原因ではないか。

けっきょく、あなたがその「特権」を手放しても、その存在が消えるわけではない。社会は良くならない。たとえば金融資産のようにその特権が分割可能なものであるのだとしても、それを細かく分けてばら撒いて一文なしになったところで貧困問題、その根本にある搾取の構造の解消には寄与しない。寄与したとしたら、それは効果的に資産を活用したからであって、あなたが貧乏になったからではない。世界はゼロサムではないのだから、社会のためになる事業を立ち上げて、むしろいくばくかの財を築きながら貢献することだってできるかもしれない。ましてたとえば出生地のように分割不可能な特権であれば、自分が持っている→他人が持っている、と変えたところで何が改善するのか? 問題はその偏りを生み出す構造なのであって、たまたま偏りの対象となった個人が悪いわけではない。

「特権を持っている私がいまどうしたら気分が楽になるか」は、善悪や取るべき行動の判断指針にはならない。無知のベールの議論を(ある意味逆向きに)当てはめるなら、いま自分が座っている席に依存した態度を取るのは的外れだ。席を入れ替えたところで意味はない。

だから、ありきたりだけれど、やるべきなのは、自分の生活をしながら世の中がより公正になるようできることをすることだけだ。そのとき、もし持っているものが活用できるならするのがよい。極端な自己犠牲や後ろ向きな自罰的感情の入り込む余地はない。