ニセモノの人生

人生というものは、大海原を自由に航海し、大樹海を泳ぎ、大草原を駆けることだと思っていた。無限に冒険が広がっているのだと思っていた。

そういうふうにして人生を送っている人もいないことはない。だけど、ほとんどの人はそんな人生からは程遠い。わたしたちのほとんどにとって、人生とはできあいのテーマパークの順路をめぐるようなものだ。忘れられない出来事があり、運命的な出会いがあり、涙を流す悲しみがある。でもそういうものがすべて、色褪せて見える。ぜんぶ、仕組まれて、作られたものでしかない。

人生の順路を歩いているうちは美しく見えるかもしれない。だけど、見える景色すべてまがいもので、薄っぺらい板に描かれた虚構でしかない。道を外れて歩くと、その舞台装置の裏側が露になる。

大人になって、就職して、結婚して、子どもを育てて。そういう順路を忠実にたどれば、美しい場面の思い出に彩られた、素敵な人生が送れるかもしれない。だけど、それはただの板を風景だと勘違いしているだけだ。

おしゃれな建物、見た目にもおいしい料理、まばゆい夜景。こういうものの虚構性に気持ち悪さを覚えないで無邪気に消費できるのは、たぶん幸せなんだと思う。その建物ってヨーロッパの歴史ある建築の雰囲気をでっちあげただけのニセモノじゃん。その料理って、文化的な文脈も何も考えずに流行りものを出しているだけじゃん。その夜景って、つまり光害じゃん。あるいは家族で車で出かけて、キャンプをして、バーベキューを楽しむ。川で、海で、自然を味わい、夜には星空を眺める。これだって、けっきょく仕組まれた体験にすぎないじゃん。

そういう意味で、ゲームであれ、テレビであれ、あるいはアイドル趣味であれ、それこそテーマパークに行くことであれ、そういう設計どおりにただただ消費を行う活動は薄ら寒いものだ。たしかに楽しい。それはそうだ。だって、そういうふうに作られているから。ウイルスがわたしたちの体に巧妙に侵入するのと同様に、生き延びてきた被消費物は、きわめて巧妙なできばえをしている。

すべてのモノとサービスは、あなたに金を払わせることだけを目的にして用意されたものだ。そこで働く個人がどういう意思を持とうとも、経済のシステムは、作った人間と作られたものを切り離す。あらゆるものと人を交換可能にする。すべてのものがどこまでも表層的に成り果てる力として作用する。こんなのは、ハリボテだ。ニセモノだ。こんな人生は、ありもののピースでジグソーパズルを組み立てているだけだ。あるいは、そこらに転がっている録画済のビデオテープを切り貼りしているだけだ。そこには、本質も、独自さも、新規さもない。

"You are what you eat"という格言がある。だから、ちゃんとした食事をしなさいという。わたしはこう言いたい、"You are what you experience"と。ニセモノにおぼれていたら、あなたはニセモノの言葉を紡ぎ、ニセモノの仲間を持ち、ニセモノの感性と欲望に従いながら、ニセモノの人生を送るようになる。


言及していただきました。 私の世界を守るためにニセモノの人生と戦ってみる - シロクマの屑籠