選び得ぬもの

私たちは、「選ぶ」ことに慣れている。どこに暮らして、だれとつるみ、どんな仕事をするか。トレードオフはどうしても発生するし、選択肢の範囲に限りはあるが、その範囲内でならどうやって生きていくかはあなたしだいだ。あなたが気分を変えれば、いかようにも違う生き方ができて、強いて止めることは誰にもできない。だって、それはあなたの権利だから。

生き方は自分の選択だと思っているから、ものごとであれ、人物であれ、あなたの人生の構成要素には一つ一つに、これは好き、これは嫌いとラベルをつけていく。よい・わるい、正しい・正しくない、といったラベルも似たようなものだ。ラベルをつけて、取捨選択をする。価値判断の材料を用意しておかないと、選択ができないから。


たぶん、私たちは、「選ぶ」ことに慣れすぎている。だからあなたは、人生のすべてを、選択するという前提のもと、あなたの価値判断のレンズを通して見ている。

だけど、生きるということは、本来「選べない」ものではなかっただろうか。何を食べるかを選ぶのではなくて、手に入るものを食べるしかない。だれを友人にするかを選ぶのではなくて、周りにいる敵でない人間を仲間にするしかない。何をするかを選ぶのではなくて、ただ生きるために必要なことをするしかない。創造的な領域がないわけではないにせよ、人生のほとんどは、ただあるがままを受け止め、そのなかでなんとかやっていくことでしかなかったはずだ。

そういう選べない世界の方がよいと言いたいわけではない。ただ、理解しなくてはいけないのは、私たちのこの世界でいかに選べることが増えていようとも、すべてが選べるわけではないということだ。生きることの本質的なものごとは、選べない。その認識が、ぼやけがちになっている。

選べないから、それに好きとか嫌いとかラベルをつけるのは、そもそも出発点から間違っている。選び得ぬもの、「そうでなくあることはできない」ものは、ただそれとして受け入れるしかないからだ。だって、「好き」なのは他の可能性よりも相対的に好ましいからだし、「嫌い」なのは同様に相対的に好ましくないからだからだ。その尺度は、ただひとつの可能性しかない場合には意味を持たない。


家族や親戚といった血縁がいい例だ。これはもう、はなから選べないものだ。個別の言動に改めるべき部分があるにもかかわらず改めない場合などに、その部分について嫌うのはわかる。しかしそもそもその人たちの人となりとか、家のありかたとか、根本的に「そうであるしかない」もの、「そこに生まれたからにはしかたがない」ものは、好むも嫌うもないのだ。それともあなたは昼の次が夜であることに文句を言うだろうか。物を放れば落下するという事実を嫌うだろうか。そうでないなら、どうして同様に選び得ないものに心を悩ますのか。

あるいは、「生まれない方がよい」という考え方がある。これは存在と非存在を比べている点で議論の前提に疑問が残る1が、その点を棚上げにしても、そもそもわたしはわたしでしかあり得ず、あなたはあなた以外ではあり得ない(最初から、どの時点でも、それ以外ではあり得なかった)のだから、そこに良いとか悪いとかいう概念を当てはまること自体に無理がある。「xであるよりyであったほうが良い」と言えるのは、yである可能性があったときだけだ。「わたしは眼鏡をかけるよりコンタクトレンズの方がよい」とは言えるが、わたしはわたしでしかあり得ないのだから「わたしはわたしであるよりビルゲイツである方がよい」とは言えない2のだ。それは、選べる世界に毒されすぎた考え方だ3


この世界は、まるですべてが思い通りになるかのように信じ込ませる企みで満ちている。欲望を喚起し、あなたをカモにしようとする。だけど、人生はバイキング形式の食事ではない4。人生はタップやスワイプで人間とつながったりさよならしたりできるものではない。人生はネットで商品一覧から注文して作り上げていくものではない。そういう勘違いで世界の本質に目を曇らせて、「好き」「嫌い」という感情をどこまでも肥大させた姿は、醜い。

God, give me grace to accept with serenity the things that cannot be changed, Courage to change the things which should be changed, and the Wisdom to distinguish the one from the other. Serenity Prayer


  1. ユニコーンに生まれた方が幸せだから人間に生まれるのは不幸せだ」という論が成り立つだろうか?

  2. ビルゲイツは最初からビルゲイツなのであって、可能性の分岐の結果としてビルゲイツになったわけではないし、それはあなたも同様だ。

  3. ましてや、「わたしはわたしであるより非存在であるほうがよい」とは言えないだろう。二者が何らかの尺度で比較可能である前提は、両者が存在することだ。Nullと0を混同してはいけない。

  4. 以前にちょうど逆のことを主張する記事を書いた気がするけれど、そのときも、今回も比喩であって、まったく異なる比喩だから相互に関係がない。