あやつる・あやつられる

わたしが思うに、この世で最も警戒するべきは、権力者ではなく、体格がたくましい人間ではなく、頭が切れる人間でもなく、感情が爆発的に激しい人間でもなく、腕の立つ役者だ。

何かを演じている人間には注意を払わなくてはならない。キャラクターを演じているなら無害だ。そうではなくて、ストーリーを演じている人間には気をつけなくてはならない。とりわけ、その台本にあなたが登場する場合は。

人を操る人間はいろいろな種類がいるが、ざっくりその操り方でまとめれば、従わない場合の不利益をちらつかせ、従う場合に利益を与えるのがほとんどだ。それが金銭的なものであれ、雇用・昇進やその他の身分であれ、あるいは感情の取引であれ。例外は、人をいつのまにか自らの台本の登場人物にして動かすタイプだ。

こういう操り方は非常に強力だ。人は対抗できない。というのは、人はふつう極めて場当たり的にしか行動を決定していないからだ。その場の気分と雰囲気を仕立て上げてしまえば、いかようにも動かせる。もう少し思慮のある人間も、せいぜい遠くにゴールを設定し、それに向かっていくように心がける、くらいだろう。そういうアリやダンゴムシにも似た簡単なルールで動いている人間を、対人関係を詰め将棋のように計算している人間が操るのはさぞ簡単なことに違いない。そして相手は、劇場的なことをしてくるし、それ以上にあなたにさせようとする。

ストーリーを演じるというのは気持ちがいいものだ。物事がとんとん拍子に進むし、悩ましいことがあまりない。決断をどんどん下して、歩みを進めていける。そしてあなたの行動は一貫して方向付けられていく。あなたの感情も、方向付けられていく。というのは、行動を(相手に言われてでも)すると、後追い感情が生じてきて、まるでその行動を自分でしたかのように錯覚し始めるのだ。そうやって、あなたは相手にからめとられていく。相手の狙いが何であれ。

相手がそういう人間であることに気づくことすら容易ではない。手がかりがあるとすれば、筋書きが「できすぎて」いること、そして話を聞かないことだ。というのは、もともと計算した筋書きから逸脱したくないから。誤解しないでほしい、そういう人間は表面的にはむしろ「よく話を聞く」タイプだ。すごくよく傾聴してくれるし、懐が深い対応をしてくれるように見える。でもよくよく考えると、結局は丸め込んで相手の筋書きに戻る方向に進めようとするのだ。少なくともその場では。次回会ったときには、また別の計画を考えてきて言うことが変わるかもしれないけど、それってまるで組織の下っ端が持ち帰って検討するみたいじゃないか。そういうかすかな違和感があるかないか、くらいだ。

たぶん、注目すべきは相手ではなくてむしろ自分の心だろう。妙に心が踊る、妙に想像力がくすぐられる、妙に将来のことを考えている。そういう心理になる相手がいたら、それは自分に始点を持つ心の動きではなくて、相手から見えない糸で操られていることを疑うべきだ。そうしたら、想像を喚起するような言葉や行動を相手が多用していることを発見できるかもしれない。ものごとがうまくいきすぎているときほど注意せよ、ということわざはこういうことを言っているのではないか。

弱さをアイデンティティにしてはいけない

強いものは魅力的だ。ライオンや恐竜のように。一方、弱いものにも不思議な魅力がある。特に、その弱さが相手と共有されるときの引力はとても強い。けれどその引力には吸い込まれないように気をつけなくてはいけない。

ネットには、弱さを看板にしている人たちがいる。弱さをプライドにしている人たちがいる。そうすることでアイデンティティを築くことができる。そうすることで人と繋がることができる。似たような弱さを持つ者同士は不思議なほど引き付け合う。弱みを開示することで、相手との距離を一気に詰めることができる。

ときにはそうすることも必要なのかもしれない。だけど、それは危険だ。弱さをアイデンティティにすると抜け出せなくなる。あなたの「弱さ」が、永遠にあなたの人生の支配者であり続けてしまう。


生きていると、人は変化していくものだ。そして自分の何らかの意味での「弱さ」が薄れていったとき、違和感を覚えることがある。とりわけその「弱さ」が深刻で、長年抱えていたものであるほどそうだ。かつて嫌いだったマジョリティ、苦手だったマジョリティにいまや溶け込めるようになってきたことに嫌悪感を持ってしまう。なぜかそこに乗っかってはいけない気がしてしまう。後ろめたく思ってしまう。救われることに罪悪感を覚えてしまう。自分はする資格がないと思っていたことにも今や手が届く位置にいるのに、手を伸ばしてはいけないと思ってしまう。

でも、人は変化していいのだ。自己に過剰な一貫性を求めてはいけない。自分の過去にアイデンティティを固定してはいけない。あなたは、あなたの過去を克服しようとしているのだ。でもそれは、少しも「あなたらしさ」を損なうことではない。

あなたはインスタ映えするカフェに行って、それっぽいハッシュタグをつけて投稿してもいいのだ。あなたは飲み会で騒いで酔いつぶれてもいいのだ。あなたは新しい仲間たちと海水浴やバーベキューやキャンプに行ってもいいのだ。あなたはオシャレになっていいのだ。あなたはカッコよくなっていいのだ。あなたは若者っぽいことをしてもいいし、大人っぽいことをしてもいいのだ。ちょっと奮発して、高級なレストランに行ってもいいし、日本人でごった返すハワイへ旅行に行ってもいいのだ。あなたは恋愛をしてもいいし、結婚をしてもいいのだ。つまるところあなたは、幸せになっていいのだ。

もちろん、それらのことをしないといけないわけではない。でも、今までさんざん軽薄だとか、無為だとか、空虚だとか、ばかげているとか、チャラいとか、さまざまな言葉で軽蔑してきたことを、いまや素直にやってみてもいいのだ。過去のあなたの考えがルサンチマンから来ていたことを認めてもいいし、単純になかったことにしてもいいのだ。とにかく、自分で自分にかけた呪いを解くのだ。やりたいことはやっていいのだ。これまでに積み重ねた論理武装を解除するのだ。だって、そんなことであなたを責めるのは、あなた自身以外にだれもいないではないか。幸せになることを禁じるのをやめよ。それがいかに凡庸な姿をしていようとも。

あなたの価値は、あなたがマイノリティであることに由来するのではない。「ふつう」になることは、あなたの価値を損なわない。あなたは変化する。そして変化したら、ときにはマジョリティの領域に足を踏み入れることだってある。別にマジョリティになる「ために」そうしたわけじゃなくても。だってマジョリティの空間の方が広いのだから、そういうことだってありえるではないか。変わることは、過去の否定ではない。変わることは、過去があってこそできることだ。


SNS、特にTwitterのつながりも、だんだんと移り変わっていくべきなのだ。あなたが過去に抱えていた弱みを共有する仲間と、いつまでも同じ関係でいる必要はないのだ。あなたは、その人たちを置き去りにしていい。そのことに、罪悪感を覚える必要はない。ただ、意図的に虐げることさえしないでおけばいい。

別にその人たちが劣っているというわけではない。人にはそれぞれのタイミングがあるし、そもそも克服しないといけないわけではない。でも、あなたにはあなたの人生の道筋がある。それは、他の人の人生とは違う。

かつての仲間は、かつてあなたが吐いていたのと同じ呪詛を吐き続けている。それはあなたの足を引っ張る声だ。耳を傾けてはいけない。あなたの中の一貫性を求める心がその呪詛に共鳴してしまう。

あなたはその人たちに付き合う義務はないのだ。その人たちに借りなどないからだ。変な義務感を持つな。あなたは、彼らの理解者である義務など負っていないのだ。見なさい、世間の人々なんて何も気にしていないじゃないか。あなたは望んでその境遇に至ったわけでもないのに、どういう論理で世間一般とは違う特別な責任を負っているのか? そんなの、あなたの勝手な思い込みだ。ただ一点、あなたはもうその人たちの理解者ではあれないことだけ、心の片隅にとめておけばいい。けっきょくあなたはその人たちを救うことなどできない。何を思い上がっているんだ。

あなたは優しい。だけど、優しすぎてはいけない。あなたは真面目だ。だけど、真面目すぎてはいけない。前に進んで、自分の人生を生きなさい。それは、あなたにしかできないことだから。

故郷から逃げること

実際に正しいかというと疑いが大きいらしいが、「外国語でしゃべると別のペルソナになる」というのは本当だと思う。私なんかでも、英語でしゃべっていると、「さわやかにコミュニケーションできる、明るいけどまじめなやつ」みたいになれる。

これは作ったペルソナだ。英語環境ではこれでいける。一人のときは微妙だが、人と接していればずっとこれで。むしろ外そうと思っても外せないペルソナだ。こうやって切り替えられることは救いになりうる。生い立ちが幸せでなかった人、心を病んだ人、祖国で生きづらい思いをしている人にはいい選択肢だ。

それと比べて日本語ペルソナは息苦しいと言わざるを得ない。そういうとき、「ほら日本社会はこんなに息苦しい、海外はこんなに自由だ」という人がいる。でも、それは違う。だって、どうみても、同じ環境で人による生きやすさのほうがばらつきが大きいではないか。あなたが作った日本語用のペルソナは息が苦しく、あなたが後で作ったたとえば英語のペルソナは呼吸しやすい、それだけのことだ1。なんなら、もしあなたが英語話者として英語圏に生まれればまったく逆になったかもしれない2。どうしてそういうペルソナができあがってしまったのか。たとえば家庭環境のせいか。そういうところにここでは踏み込まないが。

けっきょく、自分と真に向き合うためには、もともとのペルソナに向き合う必要がある。いや、無理に向き合わなくてもいい。たぶん、このまま海外で暮らせば幸せになれるだろう。ただそれでも真実を見るには、やっぱり戻ってこなくてはいけない。自分が生きるうえでつらいところを見なくてはいけない。真実は快いものとは限らないのは知っているだろう。

もう一度言うが、そのペルソナが生きづらいのはこの社会ゆえではない。間接的にこの社会に影響されて形成されたものではあるにせよ、この社会の形から必然的に形成されたものではない。だってこの社会でも幸せにやっている人たちはたくさんいるではないか。そう、あなたがあまり好きじゃない「ああいう人たち」のことだ。なんならそれは社会の90%くらいを占めているのではないか? そして――落ち着いて考えてみるといい――どの国の社会でも、良くも悪くも「そういう人たち」が90%くらいを占めているのではないか?

あなたの誤解は、その精神と身体を通して見た「世間」が、実際の世間をゆがみなく写していて、他の人たちにも同じものが見えていると思っていることだ。そうではない。きちんと自分のゆがみと向き合うのは、絶対に苦しい過程になる。けっきょく、残念ながら精神の一番根っこにつながっているのは、母語のペルソナであり、日本で生まれ育った私たちにとって、日本という存在はどこまでもつきまとってくるものだ。たとえ明日起きたら国全体が太平洋の底に沈んでいても、それでも日本という存在が私たちの精神の根幹を成していることは何一つ変わらない。それが自分の中核にあることを認め、受け入れる落しどころを見つけなくてはならない。一番醜いのは、自分が生まれ故郷から切り離せない存在であることを認められず、「日本的なもの」に誰彼構わず攻撃的になったり、あるいは自分がどこかよその国や文化圏の人間になったと思い込んで、無意味に自分の優越性を誇示するような行動をとることだ。それは自分のルーツへの劣等感をこじらせた末路だ。

あなたは好むと好まざるとに関わらず、あなたはどこまで行っても日本人だ。だけど、それは別に悪いことじゃない。国が、政治が、文化が、好きかどうかは別に関係なく、あなたがどこかの出身であることは、何も恥じる必要のないことだ。同時に、別の国の方が生きやすく思うことも、苦々しく思う必要はない。だって、自分が幼い頃に形成したペルソナよりも、もう少し大きくなってから形成したペルソナの方が生きやすいのなら、それはあなたの人生が良い方向へ向けて進んでいるということではないか。過去に冷静に向き合えば、自分の出自とか属性が悪いのではないことに気づくだろう。少なくとも、「日本」とかいう括りは大きすぎる。だって、一億人以上の人がいて、その中には色々な人がいて、好きなように生きている人もちゃんといるではないか。あなたは、どんな場所で、どんな人間になることもできる。それを縛るものはない。あるとすれば、自分で自分にかけた呪いだけだ。


  1. もちろん、外国の社会ではある種「お客さん」だったり、社会のごく一部しか見てなかったりするというバイアスも激しくかかっているが、これはあまりに自明なことなのでここでは取り扱わない。

  2. 実際、日本というのは結構魅力的な国扱いされているのだ。日本の言説での北欧の立場に似ている。少しイロモノっぽい部分も加わるので、北欧にブータンをちょっと混ぜたくらいだろうか。

他人と比較して苦しむあなたへ

他人と比べて自分が優秀だのそうでないの一喜一憂するものではない。そういうのは言ってみれば受験勉強マインドだ。大人になったら人間はそんなに単純な一つの軸で評価できないことを知るべきだ。たとえ何らかの実績や昇進が非常に重要でも、それを達成する方法はいろいろあるし、だから何かの能力で劣っていても他を伸ばせばいいことだ。ふてくされるのをやめて自分のやるべきことをすることだ。

そしてとにかく前に進むことだ。自転車で先に出発しただれかを追いかけたことはあるだろうか。別に徒歩でもいいが。たいして出発した時刻は変わらないし、めちゃくちゃがんばって飛ばしたのに、追いつくまでは相当な時間がかかることに気づくだろう。人生もこれと似ている。とにかく遅くてもいいから進むのだ。アキレスと亀の話ではないが、相手が追いかけてくる間に自分はさらに進めるから、案外追いつかれないものだ。

特に大学院生について言うのであれば、とにかく自分なりの独自性を出してアウトプットしろって話だ。だってもうアウトプットがすべてなんだから。それ以外の表面的な「優秀さ」みたいなものはどうでもいい。そして、インプットは人と同じことをすることにしばしば意味があるが、アウトプットは人と違うことに意味がある。別に論文が人のものほどインパクトなくたって、数が少なくたって、独自性のある研究をしていればそれでいいのだ。それが自分の興味あることなのだから。何の不満があるのか。余計な感情を抱くのはやめて本来の興味に立ち返ることだ。あなたが研究に興味を持ったのは、そのころ知りもしなかったあの同期に勝つためではなかったはずだ。あなたはあなたの最先端を切り開いている。人類であなたが一番詳しいことがあり、あなたしか知らないことがある。つべこべ言わずに、その道を進むことがあなたの使命だ。さっさと戻ってそれを果たせ。

むやみに

むやみに約束してはならない。 Pacta sunt servanda, 約束したことはあなたを縛るから。約束を守る人間になるための一番の近道は約束をしないことだ。これは冗談で言っているのではない。本気で、むやみにできない約束をしてはいけない。したくない約束をなんとなくの義務感や付き合いでしてはいけない。社交辞令のつもりで言った「また会いましょう」は、自分を縛り付ける。人間は一貫性を求めるもので、たとえ相手が忘れていても、自分が発した言葉に矛盾することはできない。だから、会いたくもない人にまた会うはめになる。未来の自分を犠牲にしてはいけない。

むやみに願ってはならない。現状と違う未来を望むことは、現状を否定することだ。自分と違う存在になりたいと願うことは、自分を否定することだ。本当に、願いすぎてはいけない。願っていいのは、荒唐無稽なほど大きなことか、あるいは本気で実現することの二つだけだ。願うなら、全力で、犠牲を払ってでもそれを実現しなくてはいけない。願ったとおりの現実を手に入れなくてはならない。そうでないと、願いは呪いになって心に沈殿していく。

むやみに正しくあってはならない。正しさは凶器だから。正しさを振り回してはいけない。正しくないことでやたらと他人を攻撃してはいけない。正しさは、本質的に人間と相性が悪いからだ。あなたにだって、いつかは正しくあれない時が来る。そのとき、いままで砥ぎに砥いだ鋭利な刃はあなたに向かってくる。

よい先輩になるために

何もしなくても気を遣われてしまうことを自覚する。非対称な関係だから、遠慮すべきところは遠慮するようにする。たとえいやでも、向こうからそうは言いづらいのだから。勘違いしてはいけない。あなたと後輩との距離は、あなたが思うほど近くない。あなたは、あなたが思うよりも先輩だ。過去の記憶を思い出すのだ。そしてこの感覚の非対称性を理解するのだ。良い先輩になることは、とりもなおさず「自分の感覚は正しくないと自覚するプロセス」にほかならない。

後輩のメンツをつぶしてはいけない。後輩がさらに後輩に対して何かを教えている時、あるいは単に先輩風を吹かせている時、たとえ言っていることが間違っていたとしても否定しない。きみが優秀なら、きみの後輩も優秀なはずだ。たまに間違ったことを言ったとしても、おおむねよい指導をしている(なんたってきみの後輩なのだから!)はずだから。きみの責務は後輩の後輩を直接指導することではなく、後輩を指導することで間接的に影響することだ。そのためには、後輩を尊敬に値する存在だと見せることが一番大事だ。あなたがそこで自分の方が格上だと見せつけることには何の意味もない。

指導するためには自分をもっと磨かなくてはならないことに気づく。後輩ができたからといっていきなり教育専門にならない。プレーヤであり続ける。でないといい指導はできない。プレーヤーでなくなってしまうとどうしても感覚がずれてくる。これは言語化しづらいが、どこか違うのだ。そしてそのずれに気づき修正する機会がなくなってしまう。あなたはまだまだ自分が上達しなくてはいけない。

そしてさらに歳を重ねてきたら、ひたすら謙虚になることだ。自分が正しいと思うことがきっとすでに古い考えで、そしてそのことに自分は気づけないのだということを自覚する。後輩がなにか違うことをしようとしていたら、まず自分が間違っているのだと考える。後輩に教えを乞う。そのとき、自分なりに納得しやすいことを選び取らない。それは自分の考え。そうではなくて、まるごと飲み込む。ある種、無批判になる。もし信じられないなら、ほかの後輩にセカンドオピニオンを求めるのはかまわないけれど。

引退する時期が近づいたら、もうあなたは役に立つことよりも害をなさないことが大事だ。主導権は後進に譲り、自分の責務を果たすことだけに集中するべきだ。求められていないなら、でしゃばらない。組織には新陳代謝が必要だ。そしてあなたは、剝がれ落ちなくてはいけない角質だから。

スイッチをパチンと

スイッチというとどんな姿のものを思い浮かべるだろうか。某ゲーム機ではない。一般名詞の方だ。ボタンではなくて、二つの状態、オンとオフを持つもの。

まあ、なんでもいい、ちょっとそれを思い浮かべてほしい。それで頭の中でおもむろにパチンと切り替えるんだ。切り替わっただろうか。そう、それでいい。

そうしたら、そのスイッチを何かに接続するんだ。電灯とかにつなぐわけじゃない。あなた自身の行動に接続するんだ。スイッチを入れたら立つ。切ったら座る。単に想像上でやるんじゃない。想像上のスイッチを、実際のあなたの身体の動きに対応させるんだ。単一の動作でできたら、次は一連の流れに対応させよう。布団から出て、着替えて、身支度を手早くして、家を出る。その流れをスタートさせるスイッチにしよう。そしてそれを朝になったらオンにするんだ。何も考えてはいけない。自動的に動く。途中で止まってもいけない。スマホとか触るのはダメだ。ただ自動的に流れ作業で家を出る。一旦家を出てしまえばもう大丈夫だろう。そう、朝なかなか動き出せない時はこうやって対処すればいい。

感情につなぐことだってできる。恐怖心とか、不安とか、嫌悪感とか。どうしても気が乗らないけど送らないといけないメッセージは、下書きして送信ボタン一発で送れるようにしておく。そして、パチンと嫌な気持ちのスイッチを切って送信する。これは簡単だ。一秒だけ切れればいいから。したくない電話もスイッチを切って三秒でアドレス帳を開き、発話ボタンを押してしまう。何を喋るかとか事前に考えようとすればするほどできなくなる。勢いではじめてしまえばいい。嫌いな食べ物も、スイッチを切り替えた瞬間に口に運んで一気に咀嚼する。これは吐きそうになるからちょっと難しいけど。

いずれもある行動を開始するスイッチとして使うべきだ。開始したらもう止めづらい行動であるとよい。スイッチによって「何もしない」というのは難しい。余計な思考がぐるぐる回ってしまうから。スイッチを入れて、無心で何かの動作をする。部屋の掃除でもいい。そうやって自分をうまく制御できるようになると、たぶん日々が幸せに過ごせるようになると期待している。