ごはんにふりかけ

人生はね、ごはんにふりかけなんだよ。

人生は、カラフルで味の濃いふりかけ部分が本体なんじゃない。単調な白米の部分が本体。

白米が食べられるというだけで、雑穀や玄米しか食べられなかった時代に比べたら贅沢だよね。ありがたく思うべき。でもそんなの知らないし、無理な話。恵まれない人たちが地球上に、この町にだってたくさんいるとわかっていても、人生への不満も尽きない。

米の一粒一粒を眺めていると、人生の一日一日みたいに見えてくる。それぞれ少し形は違ったりするけど、でもだいたい同じで、区別するほどではない。

生きるっていうのは、肉や魚や野菜や果物、山の幸に海の幸、変化に富んだものを変わりばんこに味わっていくことじゃない。そうじゃなくて、毎日毎日、変わらずに米を食べ続けること。人生のどこを探しても、いつまで待っていても、どきどきわくわくの大冒険は始まらない。非日常に逃げても、すぐにそれが新しい日常になる。飽き飽きする毎日が人生であって、それだけが人生だってこと、受け入れなくてはいけない。

ただ、日々骨を折って、工夫をして、心を開いて、前向きに生きていけば、ふりかけをご飯にかけることができる。日常に変化が生まれる。まずは当てもなくごちそうを探すのをやめて、腰を据えて手元のご飯を大事にしなくちゃいけない。そしてしなやかに風に乗って、新鮮な面白さも大事にする。風林火山とはよく言ったもので、自然の本性に調和するのは、同時に風林火山の四つすべてになることなんだ。

ふりかけを得るために手を尽くしながらも、ご飯をないがしろにしない。だって、ふりかけがおいしいからって、ふりかけだけ食べようとしても食べられたものじゃないから。ふりかけは、つまらないご飯があってこそおいしいんだってみんな知ってる。なのに人生となると、どういうわけかみんなふりかけだけ求めてしまう。