内省することと摘み取ること

「庭の木を剪定する時季は、冬の早いうちでないといけない。そうじゃないと、春に出てくる新芽まで切り落としてしまうことになるから」そんな言葉が記憶に残っている。


自己について内省を巡らすことも、これと似ていると思う。それは混沌として、散らばって、はっきりした形を取らない自己を再構成する作業。輪郭を作り、形を積み上げていく過程。あなたがそうやって自身に形を与えるとき、整合性のあるナラティブをあなたの人生に与え、それを延長することで未来を志向しようとするとき、あなたがいままさに芽生えさせている新芽は失われてしまう。新芽は形がととのっていない部分だから。


人生を生きていくうちに、さまざまな転換や変容の機会が偶発的に訪れる。それはあなたの内側で生じたノイズ、気の迷いが具現化したものであることもあるし、あるいは外部からやってくるチャンスであることもある。いずれにせよ、そういう雑多なもの、取るに足らない小さな突起を日々少しずつ付け足していくことで、あなたという人間の形は思いもよらないような変貌を遂げることができる。

たとえば別にわざわざお金を払って試してみようと思わないタピオカを、ある日の夕方に友達に誘われて付き合いで飲んでみるような小さなこと。そういうことが、やがて「映える」ものが好きな人間にあなたを変えていくかもしれない。その変化はもしかしたら好ましくないと感じるものであるかもしれない。けれど、いま持っている価値観を形成しているのは過去のあなたであって、未来をどう生きるかはいま現在の価値判断に拘束される必要などない。

価値観を形成する、選択の基盤を形成する「メタな選択」も含めて自分の選択なのだから、あなたがAを選好するかBを選好するかをあたかも外部的に決定されたものであるかのようにみなすのは端的に誤っている。あなたは自らの好み・価値観に対して責任があるし、何人たりとも代わりにあなたが何が好きかを決めることはできない。だから、あなたは変化していくことができる、いま現在持っている価値観を超越していくことができる。畢竟、そうやって世界は広くなっていくのだ。


つねに内省的な考えを巡らすのは、つねに庭木を剪定し続けるのと同じことだ。すでにある形が変化することは決してできないし、成長していくこともできない。成長というのは、いびつな瞬間瞬間、その微小な変化を足し合わせた結果として生じていくものだから。どの瞬間も整合性を取り、どの瞬間も左右対称であり続けようとしたら、前に向かって一歩を踏み出すことは永遠にできないのと同じだ。

人生を幾何学的に構成することはできない。直線であれ円弧であれ、そういった図形で美しく構成され、塵一つ落ちていない極限の完成形は、極限まで冷涼で、無機質で、生命にそぐわない。均整の取れた自己像を描き出そうとするのは、自殺欲求の一歩手前にある。どちらも人生に完成形を求めている。ペットの毛並みをきれいに維持することが至上命題になれば、その生命は根本的に否定されてしまい、いっそ剥製にしてしまったほうがいいという結論に至る。

内省は過去についてしかすることができないから、内省でストーリーを積み上げすぎることは、過去のあなたに縛られ、過去の価値観に閉じこもり、未来をすべて過去の注釈として生きることにつながる。戦争や、災害や、事件などに巻き込まれた経験の語り部となっている人たちは、そういう生き方を選んでいる。それは自己を犠牲にする生き方であり、社会の未来のために自分の未来を捧げる献身的行為だ。しかしそのように自らの経験を役立てるわけでもないのに、進んで過去の奴隷と化すことは、単に人生を投げ捨てているだけだ。

とりわけよくないのは、そうして導き出した自己像をあとから容易に目にすることができる形で記録に残してしまうことだ。記憶とともに失われるべき過去が、朽ちて土に還るべき排泄物が、鮮度を保っていつまでもそこに残ってしまう。それは呪いとなって、あなたをつなぎとめる錨となってしまう。あるいは特定の時点で気に入った小説や詩といった他人の書き記したものをいつまでも大事に抱え続けることも、同様に、鏡の中に写った自己像を凍結保存することだ。

だけど何よりも一番いけないのは、特定の時点の思想や自己像だけでもって他人とつながることだ。特に、さまざまな現実的な制約を抜きにして、純粋に精神的な面だけでつながれる媒体で他人とつながってしまうこと。それは、単にある時点でのあなたの姿を保存しておくのみならず、その鏡像に命を与えてしまう行為にほかならない。他者が紡ぐ文字の向こうにあなたが見ているのはあなた自身でしかないのに、いまはそれと対話ができてしまう。仲良くなることができてしまう。連帯を形成することができてしまう。そうしてあなたはあなたが作った蟻地獄にいつまでも囚われ続ける。


わたしたちは日々肉体的に老いていく。その事実を好意的に受け止める人間はおそらく少ないことだろう。わたしもそうだ。でもときどき、老いはなんてすばらしいことなんだろうかとも思う。だって、もし老いるかどうかの選択が可能だったら、わたしを含めどんなに多くの人々が時間を止めようとすることだろうか。考えてみてほしい、あなただったらどうするかを。どんなに多くの人々が、成長を、変容を、人生を、すべて投擲して、時間軸のある一点に醜くしがみつこうとするだろうか。それはどんな地獄だろうか。老いることがしばしば醜いのは、老いの内包する変化そのものが醜いからではない。老いとともに人は変化を拒絶し始め、自分に生えてくる若芽を切り落とし、古い枝に固執するようになるから醜くなるのだ。

ここで気づかなくてはならないのは、肉体的成長や老化と違って、精神的成熟は、必ずしもひとりでには起こらないということだ。過去にしがみつこうとすれば、そこで立ち止まることができてしまう。変化を拒絶することができてしまう。それは、生けるものの宿命を拒絶することだ。その宿命とは、わたしたちはやがては死ななくてはならないということ、生きる毎日は死に向かってまっすぐ歩んでいく道程にほかならないということ。

人生の最後に最大の変化が待っている以上、わたしたちは変化を拒絶するのではなく、変化を生きなければならない。いやむしろ、変化することこそ生きることそのものなのだ。精神的変化を拒んで、生をもはや生ではない何かに変えてしまって、そのことに気がつくこともない人間のいかに多いことだろうか。変化を拒むその態度こそがむしろ老いそのものであって、どんなに年齢が若くてもそれは同じことだ。


木々は、ときどき剪定してやらなくては美しく調和の取れた庭を作ることはできない。ただひとりでに伸びるままにしていたら、その景観には何ら意味を込めることはできない。それでいて、剪定しすぎてもそこに命のこもった意味、変容のさなかにある意味が生じることは不可能になってしまう。この世は、中庸を要求するものだ。まずは生きよう。変化を、偶発性を祝福しよう。その上で、しばらく歩んでから、たまにだけ振り返ってみることにしよう。若い枝を自由に伸ばしてやろうではないか。夏は、もう近くまでやってきている。日光が降り注ぎ、蝉が命を輝かせる。あなたの知らないあなたが生まれる夏になりますように。