変化

変化という言葉がこれほど肯定的な意味で使われる時代がかつてあっただろうか。猫も杓子も変化変化。政治スローガンが変化に関するものばかりなのは言うに及ばず、仕事も生活もすべてが変化を謳う文句に溢れ、人々がみな変化を志向して生きている。社会を、生活を、そして自らを変化させようとしている。こんなに時の流れが速い時代だからしょうがないことだ、と受け入れるのは簡単かもしれない。

でも、変わることはそんなに良いことだっただろうか。変化を求めることはそれまでの否定だ。しかり、社会にはたくさんの問題がある。だからそれは変えたほうがいい。だけど私たちは変化中毒になってしまっている。新鮮なものはとりあえず肯定的に感じて、ひとときは満足して、でもじきにやっぱり粗が見えてくる。そこでどういうわけか「変化ってそんなにいいものじゃないな。不満があっても必ずしも変えたらよくなるわけじゃない」と考えるのではなくて、「変化が足りない。もっと変化をよこせ! 変化さえあれば幸せは約束されているんだ!」と叫んでいるように思えてならない。それを中毒と言わずしてなんと呼ぶだろうか。

とりわけ、外の世界の何かを変化させようとするのではなくて、自らを変えなければならないという半ば強迫的な欲求に囚われてしまうことがしばしばないだろうか。私はよくそうなる。そうやって自らを変化させようとすることは、現在までの自らそのものの否定であるから、ひときわ弊害が大きい。変化を肯定するからには「その変化を生み出す主体たる自分」を肯定できなければならないのに、その変化に肯定的な意味を持たせるためには「変化が作用する対象である自分」を否定しなければならない。

たとえば、あまり好きでもないことを勉強しなきゃと自分を駆り立てることができるためには、「自分はダメだ、勉強しない限り未来は開けていない」と信じると同時に、「そんな自分が勉強するという行為一つをすればどういうわけか明るい未来が約束されている」と思えなければならない。身体的にもまだまだ発達の途上にある子どもなら、変化することがすなわち生きることそのものだから、過去や現状の否定をしながら未来を肯定して生きる「矛盾」はそれほど問題にならないのかもしれない。けれど、どうやら一応形ばかり大人になって、どうやらもうあまり成長しないらしい私やあなたにとって、生きることはもはや本質的に変化をすることではなく、維持することでしかなくなってしまった。10年後の自分が劇的に変化していて、いまの自分には想像もできないようなことをしていると期待することは、もうあまりないだろう。そんな夢を見ても悲しくなるだけだと知ってしまったから。

そういう矛盾を抱えて、変化しなきゃという焦燥感が募るばかりの人生を生きている人が、けっこうな数いるように思う。けれど否定と肯定の自己矛盾をうまいこと消化してやることができなければ、健全に変化していくことはできない。ひとつには、過度な自己否定によって無力感、他者への責任転嫁や破壊的な衝動性に陥ることがある。これはいわゆる「真面目系クズ」みたいな言葉で示される対象といくらかオーバーラップしているかもしれない。もう一つには、変化の原動力となる否定の力が足りず、薄っぺらい変革ごっこを内輪でやって褒め合う末路もあるだろう。社会運動に傾倒しているようでいて、他人の言葉を借りてなんとなく満足しているだけの人々、あるいは起業というキーワードがよく出てくるけど結局何をしているのかよくわからないようないわゆる「意識だけ高い系」界隈がその例になるだろうか。

いずれにしても、こういうものにはまり込んでしまいやすいのはちょうどもう子どもではなくなってしまったくらいの「若者」世代であることが多い。あるいはそのままずるずると歳を重ねて行った層も含まれる。いままで自分が自然と成長していくこと、人生がその先に自動的に進んで、可能性が開けていくこと、それが当たり前だった。そういう人たちは、たぶん私も含めて、人生の離陸上昇から、次にやってくる水平飛行への移行に失敗してしまった。水平飛行しながらなおも高度を上げていくには、離陸上昇の続きをしようとするのではうまくいかない。そう気づく必要があったのだなと思い至る。

ほんとうは、変化を求めずに生きていけたら幸せなんだと思う。明日が昨日と同じでありますように。何も変わってしまいませんように。だけどもうきっと手遅れで、私たちは、私たちの社会は、いつの間にか自動スクロールのステージのように動き出してしまった。だから変化し続けなくてはならない。そのためには、自己否定と自己肯定をバランスする曲芸が必要だ。それはサーカスでボールの上に乗って、バランスを取りながら足元でボールを転がして進んでいく曲芸と同じだ。立っていることを崩さないことが必要であるのと同時に、前に進むためにはあえてバランスをずらさなくてはならない。私たちは、いつまで転ばずに曲芸を続けていけるだろうか。