よい先輩になるために

何もしなくても気を遣われてしまうことを自覚する。非対称な関係だから、遠慮すべきところは遠慮するようにする。たとえいやでも、向こうからそうは言いづらいのだから。勘違いしてはいけない。あなたと後輩との距離は、あなたが思うほど近くない。あなたは、あなたが思うよりも先輩だ。過去の記憶を思い出すのだ。そしてこの感覚の非対称性を理解するのだ。良い先輩になることは、とりもなおさず「自分の感覚は正しくないと自覚するプロセス」にほかならない。

後輩のメンツをつぶしてはいけない。後輩がさらに後輩に対して何かを教えている時、あるいは単に先輩風を吹かせている時、たとえ言っていることが間違っていたとしても否定しない。きみが優秀なら、きみの後輩も優秀なはずだ。たまに間違ったことを言ったとしても、おおむねよい指導をしている(なんたってきみの後輩なのだから!)はずだから。きみの責務は後輩の後輩を直接指導することではなく、後輩を指導することで間接的に影響することだ。そのためには、後輩を尊敬に値する存在だと見せることが一番大事だ。あなたがそこで自分の方が格上だと見せつけることには何の意味もない。

指導するためには自分をもっと磨かなくてはならないことに気づく。後輩ができたからといっていきなり教育専門にならない。プレーヤであり続ける。でないといい指導はできない。プレーヤーでなくなってしまうとどうしても感覚がずれてくる。これは言語化しづらいが、どこか違うのだ。そしてそのずれに気づき修正する機会がなくなってしまう。あなたはまだまだ自分が上達しなくてはいけない。

そしてさらに歳を重ねてきたら、ひたすら謙虚になることだ。自分が正しいと思うことがきっとすでに古い考えで、そしてそのことに自分は気づけないのだということを自覚する。後輩がなにか違うことをしようとしていたら、まず自分が間違っているのだと考える。後輩に教えを乞う。そのとき、自分なりに納得しやすいことを選び取らない。それは自分の考え。そうではなくて、まるごと飲み込む。ある種、無批判になる。もし信じられないなら、ほかの後輩にセカンドオピニオンを求めるのはかまわないけれど。

引退する時期が近づいたら、もうあなたは役に立つことよりも害をなさないことが大事だ。主導権は後進に譲り、自分の責務を果たすことだけに集中するべきだ。求められていないなら、でしゃばらない。組織には新陳代謝が必要だ。そしてあなたは、剝がれ落ちなくてはいけない角質だから。