「積ん読zone」

最近見かけたのにどこだったかわからなくなってしまったので出典を示せないのが心苦しいが、「本を読むモチベーションは買った当日が一番高いから、読む時間があるときに買うようにするのがよい」という趣旨のアドバイスを見かけた。

なんだかこれって恋愛関係(に発展しそこねるケース)に似ているような気がした。

どちらも、きっかけが大事で、流れに乗って関係性を前進させなくてはならない。当たり前にそこにある・いるようになって関係が停止してしまうと、そこから再び速度をつけることは難しい。何か大きなイベントがあればまた変わるが、そうでなければもう望みは薄い。積ん読している本を誰かに再び勧められるとか、古い付き合いの友人に街でばったり出会うとか。

けっきょく、人間は慣性に支配されて生きているのだろう。何か・誰かにコミットするには、モーメンタムが必要だ。最初に出会った時の緊張感から打ち解けていく勢いとか、あるいは読みたかった本を買ってきた時の高揚感に乗っかって進む必要があるのだろう。もちろん相手がある事柄と自分一人の読書は考慮すべき要素が違うし、すべてが一緒なわけではない。とはいえ、精神活動としてはある種似た性質を持つのではないだろうか。

恋愛関係では、もたもたしていると“friend-zone”1に入ってしまうから気をつけろ、と言ったりする。きっと読書も、「積ん読zone」に入らないように注意すべきだろう2


  1. この概念は日本に輸入されていない気がする。

  2. 積ん読は買ったら満足するという要素もあるからその点ではちょっと違うはわかっているが。

だから、優しいあなたはモテないのです

ネットの世界では「優しいのにモテない人間(たいてい男性)」が大きな存在を見せている。日本には限らず、"nice guys finish last"みたいなことを言うし、わりと広く見られる言説なのだろう。散々語られていることではあるが、あえて書いてみることにする。

誰にでも優しいから

優しいあなたは、たいがい誰にでも優しい。結論から言おう。あなたがモテないのは、そのせいだ。これはごく単純なインセンティブの論理から導かれる。

あなたは誰にでも優しい人間だ。無私の精神で、自分のことは後回し。しんどくてもそのことをおくびにも出さず、人を助ける。相手が嫌なやつであっても、人を分け隔てするのは非道徳的だと思っているから、求められれば助けてしまう。そもそも断れない性格だ。あるいは、そうやって人から頼られることに自分の存在意義を感じている。

だからあなたは不満に思っている。そんな聖人のようなあなたを差し置いて、いけ好かないあいつがモテていることを。あるいは恋愛以外の場面でも、なぜかあいつの支持者が多い。意見がぶつかると、あなたの味方だったはずの人々も、なぜかあいつの肩を持つ。

その理由は簡単だ。あなたが誰にでも優しい場合、周りの人間にはあなたに近づくメリットがないのだ。あなたの優しさは、あなたから遠くにいても手に入る。なんならあなたの敵であっても享受できる。だったら、誰がわざわざあなたに近づいてくるだろう?

それに対して、人が寄ってくる人間というのは、自己中心的な人間だ。えこひいきをする人間だ。第一には自分のニーズを満たすことを考えている。第二には身内・仲間への利益供与を考えている。そして残りの時間ではいかに敵を引き摺り下ろすかを考えている。

はっきりさせておこう。そういう人間がモテるのだ。なぜかというと、近くにいれば得をするからだ。八方美人のあなたよりずっと多くを近しい人間に与える。そのかわり、遠い人間には何も与えないし、むしろ害することが多い。この利益とか害とかは金銭的なものに限らない。時間とか、関心とか、感情とか、そういうものも有限な資源だ。それをだれにでもばらまくあなたには魅力がない。知っているか、結婚したら家族をないがしろにするタイプというのは、あなたのような「優しい」人間だということを。

生きていると嫌味な人間に多数遭遇するし、どうしてそいつらに恋人がいるのかと疑問に思うのはもっともだ。しかし、それはあなたが表面的な関係しか結んでいないからだ。そういう人たちの多くは、ひとたび「仲間」と認めた相手にはぐっと親切になる1。ましてや恋愛関係に至れば。そのことに気づいていないなら、人間の観察が足りない。

だからあなたは自己中心的にならなくてはならないのだ。世界は、あなたを中心に回っていて、親密な関係にあるごく少数の人間以外はすべて背景だと信じるのだ。だれかのストーリーの脇役になるのをやめるのだ。そうすることで、周りの人間はあなたに近づきたいと思うのだ。だって、そうしたほうが得だから。けっきょく、恋愛というのは特別に親密な関係を築くことだから、八方美人キャラは出番がない2

いや、あなたの気持ちはわかる。自己中心的になるのが怖いのでしょう。人から批判されるのが怖いのでしょう。拒絶を恐れているのでしょう。みんなから承認されないと死んでしまうのでしょう。だから誰にでも優しいのでしょう。――ねえ、それでモテると本気で思ってる?

「でも、」とあなたは言うかもしれない。「そんなことをしたら対人関係が悪化するじゃないか!」。ならばこう返さなければならない「そういうところだぞ」と。次の点に続く。

敵を作れないのは弱さだから

あなたはたぶん、全員ないしは大半の人から好かれるタイプだと自負している。なんならそのことにちょっとプライドを持っている。自分が優しくて、気遣いができるゆえの結果だと思っている。そう、そういうところなのだ。そういうところがモテないのだ!

あなたは、嫌われることを避けている。敵を作ることを恐れている。孤立したら生きていけないと思っている。――それらの態度は、すべて「弱さのシグナル」でしかないことに気づくべきだ。

あなたは、相手が嫌なやつでも怒ったりしない。無茶な要求をしてきても突っぱねることをしない。自分の守らないといけない範囲も譲歩してしまう。することといえば、せいぜいtwitterで愚痴るくらいだ。あなたはきっと、波風立てないのが大事だとか、譲歩するのは美徳だとか、そういう美辞麗句で自分の心をだましている。

気づいてほしい、それらはすべて、あなたが弱いということを示している。誰からも好かれるようにする戦略というのは、弱者の戦略だ。戦ったら勝てないから仲良くするのだ。野生動物の服従のしぐさに他ならない。そんなのでモテるわけはないではないか!

大事なことは、モテるためには強くある必要があり、かつそのことを示すシグナルを発信する必要があるということだ。シグナルというのは、クジャクの羽やら鹿の角と同じだ。

強い者は、自分の意見を主張することをためらわない。対立を恐れないから。強い者は、敵を作ることをためらわない。戦って勝つ自信があるから。さらに言えば、その強さを恐れて相手は敵にならないと踏んでいるから。そう、相手はあなたみたいな「優しい人間」だから。強い者は、時には味方を失うことも恐れない。また別に獲得できるとわかっているから。そういうのが強さだ3

不遜にふるまうのは、強さの「シグナル」効果を重視した振る舞いだ。しばしば店員とかの他人に態度が悪い人間がいて、なのにモテるとかなんとかの話しがあるが、それは横柄さが強さのシグナルだからだ。そうやって多少風波を立てることをしてもやっていけることは、強さを証明しているのだ。

けっきょく、モテるためには、そして恋愛関係に至るためには、ある程度波風を立てる必要があるのだ。人にアプローチすれば、嫌われることも拒絶されることもある。恋敵ができて対立するかもしれない。別れたら気まずくなる。コミュニティ中で相手を探せば出会い目的だと白い目で見られそうで心配だ。かといって出会い目的のコミュニティに飛び込む勇気はない。そんな、誰からも嫌われたくなくて、いい顔だけをしていたくて、他者からの評価にすがっているあなたは、モテるはずがないではないか。

「でも本当に強い人間はとても謙虚だって言うじゃないか!」とか言うかもしれない。これは一つには認知バイアスの働きである可能性が高い。もう一つには、それはさらに上級の戦略だから、あなたには無理だっていうことに気づく必要がある。

たとえば世界的に有名な億万長者が質素な生活をする。それは、「中途半端な成金とは違う」という逆説的な強さのシグナルだ。ふつうの金持ちは高級なものを身につけたりすることで強さのシグナルを送る。でも、振り切れた億万長者になると、「もはやそんなシグナルを送る必要もないほど有名な富豪だ」というメタなシグナルを送るのだ。ビルゲイツが四畳半に住んだら感心されるだろう。でもちょっとした金持ちが同じことをしたら庶民と間違われておしまいだ。ましてやあなたのような貧乏人が貧乏人っぽい生活をしたところで、名実ともにただの貧乏人でおしまいではないか。

それと同じで、あえて強さのシグナルを送らないで謙虚に生きるのは、メタな強さのシグナルだ。でも、なんでそれがメタなシグナルとして機能するかを考えてほしい。本当に一呼吸置いてよく考えてほしい。それは、そういう謙虚さがふつうなら弱さのシグナルであり、モテないシグナルであり、とても不利だからだ。だから真似してはいけない。


だから、優しいあなたはモテないのだ。万人に承認してもらうことを求めている限り、八方美人でいる限り、嫌われることを恐れている限り、対立を恐れている限り、あなたはずっとモテないままだ。そういう醜くて、不安にとらわれているあなたを直視する覚悟はあるか。あるなら、「優しい」なんていう都合のいい言葉で覆い隠すのをやめることだ。あなたは優しくなんかない。さあ、どうする。


  1. こういうのは道義的によいものではない。延長していった先には縁故主義ネポティズムがある。でも、世の中けっきょくのところそういうのばっかりではないか? 仲間になれば、ルールを曲げてでも便宜を図ってくれる。ニュースでは見るのに、身近な人間関係は違う力学で動いていると思うならなんてお花畑な考えかたをしているのだろう。めでたいからどうかそのままでいてほしい。モテないけど。あなたも少しくらいそういう経験をしたことがあるのではないか? 友達のよしみで何かの締め切りを延ばしてもらったりしたことはないか? ない? それはモテるモテない以前にだれかと仲間になることができていないということ……。

  2. これはなにも恋愛関係に限ったことではない。人を率いる立場一般にも当てはまることだ。誰にでも優しい人間は、リーダーたる資格がない。一番わかりやすい例は独裁者だろう。独裁者は好き勝手にやっているのではない。あれは、権力ピラミッドの頂上から転落しないように必死でバランスを取る無理ゲーだ。少しでも間違えれば革命でギロチンだ。側近を肥やさなくていけない。キーパーソンを懐柔しつつ、敵は消さなければならない。万人に優しい独裁者などいないのは、それがリーダーシップ失格だからだ。博愛主義とリーダーシップは両立できない。

  3. これは「空気を読めない」こととはまったく違う。以前に書いたので参照 qana.hatenablog.com

たとえだれも見てなくても

うそをついてはいけない。それは人にバレて怒られたり嫌われたり不利益を蒙るからではない。そういうケースもあるだろうが、それはうそが下手なだけだ。

どんなにバレないケースでもうそをついてはいけない。なぜならあなたは必ずあなたがついたうそを知るからだ。あなたがうそつきだと知るからだ。

これは一般の悪行や善行に共通だ。誰も見ていなくても、気づかなくても、あなたは自身はあなたの全行動を知っている。これは恐るべきことだ。

そうしてあなたは日々、あなた自身がどんな人物であるかの印象を形成していく。それは積み重ねの結果であって、変えようとして変えられるものではない。常日頃の行動によってのみ形成される。

あなたが悪行を重ねていれば、あなたは、あなた自身を悪人だと見るようになる。あなたは、あなたのことを「他人から尊敬されるに値しない人間だ」と思うようになる。それはあなたから前に進む力を奪う呪いだ。

加えて他人もきっとあなたと同じように生きていると思うのが人の常だから、他人もうそをつき、ばれないとわかれば悪行を働いていると思うようになる。この考え方は人生を台無しにする。他人を頼ること、他人を愛すること、他人を尊敬することができなくなる。

あなたが悪行を重ねれば、あなたはすべての人間を嫌いになる。どんな他人の優しさもあなたを救えない。孤独にすらなれない。だってあなたは、あなた自身と仲違いしているから。

だから、幸せに生きたければ、善い行いをすることだ。他人が見ていても、見ていなくても。そんなのはどうでもいいことだ。だって少なくとも自分は見ているのだから。そしてあなた自身を好きになり、それを通して全人類を好きになることだ。

裁いてはならない

あの人はバカだ。あの人は性格が悪い。あの人はキモい。あの人はチャラい。あの人は人生無駄にしてる。あの人は……。ああいう生き方は醜いよね。あいつファッションださいよね。あいつ調子乗りすぎてるよね。あいつかっこいいからって鼻にかけてるよね。あいつ就職負け組だよね。あいつ勉強だけできてもしょうがないよね。あいつ……。そうやって、人を裁いてはいけない。それは、その基準であなたが裁かれないためだ。

勘違いしないでほしい。他人がその基準であなたを裁くわけではない。そういうこともあるかもしれないが、それは言わないで黙っておけば回避できることだ。態度にも出ないようにすればいいことだ。それでもきっとバレるとかそういう話はここではしない。

そうではなくて、あなたはたとえ内心だけでも他人を裁いてはいけない。あなたの裁く心は、そのままあなた自身を裁くからだ。どんなに隠していても、あなた自身はあなたの心を知っている。

人を裁くことは、あなたの心の中に呪いを生み出すことだ。ああいう性格にはなりたくない。ああいう人生は送りたくない。ああいう態度はムカつく。ああいう行動は蔑むべきものだ。そうやってひとつひとつの裁きをするたびに、あなたはあなた自身の可能性を狭めている。どんどん選択肢を抹消している。それはあなたの自由と未来を投げ捨てる行為だ。

特にまずいのは、あなたの癪に触ることは、本当はあなたが望んでもできない酸っぱいブドウでしかないことがしばしばあることだ。しかしいまのあなたにできないからといって、未来のあなたにもできないとは限らない。なのに呪いの言葉を心の中で唱え続けると、未来はどんどん固定されていってしまう。人間には一貫性を求める心理があるからだ。

だから、人を裁いてはいけない。それはあなた自身のためだ。

よそものになる勇気

人は、よそ者であることに慣れていない。

みんな「続編」が好きなのだ。すでに知っていることの続きが好きなのだ。新しいことよりも既知のことを好む。シンゴジラを見ればわかる。あれは「日本社会」という物語の続編だ。コンテキストを共有している人たちの「内輪」だ。

みんな内輪受けが大好きだ。内輪受けはとても魅力的なのだ。人間がひきつけられる三大ネタをあげるのであれば、下品な話と、だれかの秘密についての噂話と、そして内輪ネタだろう。だから、この三要素を兼ね備えた恋愛ゴシップは最強なのだ。

内輪ネタをみんな好きすぎて、どこまで内輪受けのモードでやっていってよいのか、だんだんわからなくなってしまう。誰かがアウトサイダーであるかもしれないということを考えなくなってしまう。だから、政治家が内輪受けのつもりで不適切な発言をしてしまう。「外でしたら不適切な発言をあえてする」ことは最高の内輪ネタだからだ。つまり、「ここにいるみなさんは(外にいる敵たちと違って)私の仲間ですよ」というシグナルだからだ。で、読みを外して単なる失言に終わる。政治家じゃなくても、その場に文脈を共有しない人がいるかもしれない、という配慮をびっくりするくらいしてくれない。だから一部が内輪からあぶれる。

内輪からあぶれた者たちも、その外側にむしろ強い「内輪」を形成する。オタクコミュニティしかり。どこまでいっても、みんな内輪が大好きなのだ。内輪以外の人間関係のあり方を知らない人、あるいは自分が内輪になれない場を単に嫌って、それがどういうことであるかを考えていない人がたくさんいるように思う。

だからこそ、私は気をつけていたいなと思うし、あなたにも気をつけてほしい。場が一番盛り上がったときにこそ、一番置いていかれている人がいるかもしれないことに。一番楽しい瞬間に、ふと周りを見渡してあげてほしい。

そして大事なのは、自分自身がよそ者になる勇気だ。知っている人がいないところに飛び込むこと。今までの繋がりとか実績とか肩書きとかに関係なく、自分の身一つだけで新天地に赴いて、そこで自分の立場を確立すること。それができる力があれば、何があっても自分で生きていける。

あやつる・あやつられる

わたしが思うに、この世で最も警戒するべきは、権力者ではなく、体格がたくましい人間ではなく、頭が切れる人間でもなく、感情が爆発的に激しい人間でもなく、腕の立つ役者だ。

何かを演じている人間には注意を払わなくてはならない。キャラクターを演じているなら無害だ。そうではなくて、ストーリーを演じている人間には気をつけなくてはならない。とりわけ、その台本にあなたが登場する場合は。

人を操る人間はいろいろな種類がいるが、ざっくりその操り方でまとめれば、従わない場合の不利益をちらつかせ、従う場合に利益を与えるのがほとんどだ。それが金銭的なものであれ、雇用・昇進やその他の身分であれ、あるいは感情の取引であれ。例外は、人をいつのまにか自らの台本の登場人物にして動かすタイプだ。

こういう操り方は非常に強力だ。人は対抗できない。というのは、人はふつう極めて場当たり的にしか行動を決定していないからだ。その場の気分と雰囲気を仕立て上げてしまえば、いかようにも動かせる。もう少し思慮のある人間も、せいぜい遠くにゴールを設定し、それに向かっていくように心がける、くらいだろう。そういうアリやダンゴムシにも似た簡単なルールで動いている人間を、対人関係を詰め将棋のように計算している人間が操るのはさぞ簡単なことに違いない。そして相手は、劇場的なことをしてくるし、それ以上にあなたにさせようとする。

ストーリーを演じるというのは気持ちがいいものだ。物事がとんとん拍子に進むし、悩ましいことがあまりない。決断をどんどん下して、歩みを進めていける。そしてあなたの行動は一貫して方向付けられていく。あなたの感情も、方向付けられていく。というのは、行動を(相手に言われてでも)すると、後追い感情が生じてきて、まるでその行動を自分でしたかのように錯覚し始めるのだ。そうやって、あなたは相手にからめとられていく。相手の狙いが何であれ。

相手がそういう人間であることに気づくことすら容易ではない。手がかりがあるとすれば、筋書きが「できすぎて」いること、そして話を聞かないことだ。というのは、もともと計算した筋書きから逸脱したくないから。誤解しないでほしい、そういう人間は表面的にはむしろ「よく話を聞く」タイプだ。すごくよく傾聴してくれるし、懐が深い対応をしてくれるように見える。でもよくよく考えると、結局は丸め込んで相手の筋書きに戻る方向に進めようとするのだ。少なくともその場では。次回会ったときには、また別の計画を考えてきて言うことが変わるかもしれないけど、それってまるで組織の下っ端が持ち帰って検討するみたいじゃないか。そういうかすかな違和感があるかないか、くらいだ。

たぶん、注目すべきは相手ではなくてむしろ自分の心だろう。妙に心が踊る、妙に想像力がくすぐられる、妙に将来のことを考えている。そういう心理になる相手がいたら、それは自分に始点を持つ心の動きではなくて、相手から見えない糸で操られていることを疑うべきだ。そうしたら、想像を喚起するような言葉や行動を相手が多用していることを発見できるかもしれない。ものごとがうまくいきすぎているときほど注意せよ、ということわざはこういうことを言っているのではないか。

家族関係について

家族関係は難しい。家族とうまくいっていなくてその愚痴ばかり言ってくる人には近寄りたくない。だって、その人自身もその「家族」の一員だから。その愚痴の対象となる家族と同じくらい、本人も悪い可能性があるから。

もちろん個別の事例によっては家族が一方的に悪いかもしれないけど、逆に本人が一方的に悪いことも同様にあり得る。でも一番多いのは、両方がそれぞれ違う方向で悪いことだろう。愚痴をこぼしたくなるのはわかるけど、お互い様であることを客観視できていないなら危険だ。だって、そういう性格なら親以外の人間に対しても同じ問題を起こす可能性は高いから。家族というのは、良くも悪くも鏡だから。実際、虐待あるいはそれに近い状況で育った人々と話すと、残念ながらその人たちも他人との関係、とりわけ将来の本人の子供との関係において同様の問題を生じるだろうなと思うケースは少なくない。同じような虐待をしそうな場合もあるし、逆にそれを避けようと願いすぎるばかり逆の極端に振れそうな場合もある。

ただ、突き詰めていくと、家族関係がうまくいかないのは、どっちも悪くないとも言える。結局は、相性の問題なのだろうから。それは運でしかない。たまたま親と相性が良く生まれたからうまくいく人と、相性が悪く生まれたからうまくいかない人がいる。それだけのことだ

ここで危険なのは、親と幸運にもうまくいった人が、子ともうまくいくとは限らないことだ。子は違う方向性を持って生まれて来るかもしれないから。そういうとき、家族とは仲が良くて、距離が近くて、考えが一致して、幸せにやっていけるものだとずっと信じてきて、それでうまく生きてきた人間は、対処することが難しい。だって自分自身の生い立ちがあまりに良すぎるから。親子関係の不和なんて考えたことないから。親をうっとうしく思う子の気持ちを味わったことがないから。

だから、けっきょくのところ、その人が将来子供や他人とうまくやれるかどうかは、単純に親とうまくいっていたか否かで測ることはできない。そうじゃなくて、家族も含めて他人は別人格だということ、だから一定の距離が必要だということ、そして人と人の関係というのは必ずしもうまくいくものじゃないし、そう望むべきものでもないこと、そういうことを理解していること、実践できることが大事なのだろう。