人生と飛び石渡り

人生は、飛び石を渡っていくようなものだと思う。ある石からある石へ、いくつかの居場所、人間関係、やること、ないしは価値観を持ちながら、順々に渡り歩いていく。

そこで大切になるのは、「自分の体重に気づき、自覚的に体重を乗せる」ということ。どこかに足を置き、そこに体重を乗せているタイミングがある。あるいはそこから体重を抜いて軸足を入れ替えているタイミングがある。誰でも自分の足がどこにあるあるかはわかっている。でも、どこにどのくらい荷重をかけているのかはついつい忘れてしまう。それを自覚的にコントロールすることが、とても大切だ。

どこに足を置くかはよく考えないといけない。間違ったところに置いたら落っこちてしまう。いきなり乗るよりは、そっと体重をかけてみてから重心移動をしたほうがいい。でも時には次の石が遠くて、一思いに飛び移らなくてはいけない。そういうときは自分の見立てを信じて飛ぶしかない。

そう、信じること。石を信じてあげて、体重を預けることが大事なのだ。

過去に留まって、先に進めなくなっている人がいる。どの石に進もうとも転ぶ未来が見えてしまって、足がすくんでしまっている。過ぎてしまったことを美化して、それと異なるものに文句をつけ、その間に足元の過去という石はずぶずぶと沈み始めていることに気がつかない。二つとして同じ石はないことを受け入れなくてはいけない。形が違う石に、自分の足を合わせないといけない。だって、人生では、どの石も乗った瞬間からゆっくりと沈み始めるから。だから次の石を見つけて、勇気を持って体重を乗せてやらなくてはいけない。

あるいは反対に、どこにも体重を乗せないで、石から石へと目まぐるしく渡り歩いている人がいる。きっと、そういう人には二つの種類がいるだろう。すべてに不満な人と、すべてに惹かれて目移りしてしまう人だ。

どの石にも納得できない気持ちはわかる。どの石にもリスクはある。すっかり好きになれる人間関係はないし、将来の不安のないキャリアもないし、めんどくさい面がない趣味もない。だからどこにも属さない者になるためにひょいひょいと飛び移り続けたくなる。けれど、それでもどこかにちゃんとコミットするべきだ。運命の人、運命の職業、運命の住処、そういうものは存在しない。間違った選択はある。飛び移るべきでない石はある。だから感覚を研ぎ澄ませて見極めなくてはいけない。だからといって100点満点の石を探す態度は、自分の人生への責任放棄だ。自分の人生を外部に依存させている。あなたの人生は、他者がすべてを規定するものではない。むしろあなたが他者といかに関わるかによって規定されるのだ。どの石があなたを幸せにするかじゃなくて、あなたがいかに自分を幸せにするかを考えなくてはいけない。だから、ちゃんと自分で決断して、自分の体重を乗せるのだ。

あるいは全部が魅力的な気持ちもわかる。だから全部を試してみたくて、それであっちへこっちへ渡り歩きたくなる。でも、それではなにもほんとうに経験することはできないのだ。ちゃんとそこに体重を預けてみて、自分の存在をしっかりその石に乗せることで、はじめて石と対話することができるのだ。こちらから信頼してやらないと、こちらから自分の時間と人生をコミットする意思を見せないと、他人も、コミュニティも、ほんとうの意味で受け入れてくれることはない。すぐに裏切りますよ、すぐによそに行きますよ、あなたは私にとって取るに足らない一人なんですよ、だって私には他にもたくさんの人がいるからね。そんな態度は舐めすぎだ。コミットメントなしに、リターンを求めてはいけない。

いま、あなたはどこに体重を乗せているか?

空気を読まないこと

日本人は協調性を重視し、周りの様子をうかがいながら目立たないように行動するとよく言われる。と、ここで比較文化の話をしたいわけではない。程度は同じではないかもしれないが「空気を読む」のは人間に共通する性質だろう。

集団から逸脱して空気を読まずに行動するのは危険だ。ほとんどの場合、それは「空気を読む能力に欠ける」サインとして解釈される。社会的に戦力外通告に等しいものだ。頭がおかしい人、その場にいる資格がない人。そういうレッテルは強力で、人間扱いされないということとあまり変わらない。強引に進化心理学的な説明をするのなら、群れの空気を読めず、秩序を乱す存在は群れ全体への脅威ゆえ追放されるということになるのかもしれない。周りがみな息を潜めて天敵をやり過ごそうとしている「空気」を察せず、不用意に音を立ててしまう個体は速やかに排除される必要がある。こういうシナリオが人間の心理的作用を形作る上で実効的に働いたかは定かではないが、ひとつの筋書きとしてはもっともらしい。

しかし、逸脱はまったく逆方向にも作用しうる。「空気を読めない」ではなく「空気を読まない、読む必要がない」というメッセージは強さの証になる。カリスマ性の重要な条件の一つは他人がためらうことを真っ先にできることだ。それによって浮いてしまうことを恐れる必要がないほど自信に満ちたリーダーに人は魅了される。

では、この明暗の分かれ道はどこにあるのだろう?

たぶん一番大きいのは、「強さ」のサインを出しているかという身も蓋もない基準だろう。単純に体格が優れ、筋肉質であること、長身であること、容姿がよいこと。必ずしも純粋な格闘能力でなくても、生存競争と性選択の勝者であることを示すサイン。そういうものを持っていれば、逸脱した行動は強さだと解釈される。もちろん、逆もしかり。だから空気を読まないのはまさに「※ただしイケメンに限る」という専売特許なのだ。そこまでいかなくても、せめて「まともそう」な雰囲気を出すことが必要だ。行動や服装のある一点では空気を読んでいなかったとしても、ほかの点では風貌や振る舞いがまともっぽいことが必要だ。変にきょどっていたり、動きに落ち着きがなかったりと強者らしからぬ面を見せてしまったら、あとは空気を読まなければ読まないほどおかしなやつに転落していくしかない。

ただ、この「強さのサイン」はもう少し込み入っている。文脈によっては変わってくるからだ。たとえばスポーツでも音楽でもなんでもよいが、そういうことをする集団の中では、技巧がきわめて大きな強さの指標になるだろう。世間一般の文脈ではただのおかしな人になるところ、その集団では技術ゆえに尊敬され、逸脱した振る舞いも許容されるどころか、そういう振る舞いをすることによって技術的に卓越している事実を見せつけることになる。これは微妙なバランスだ。見せつけることによってしか確認されない卓越性はたいしたことないとも言えるかもしれないが、しかしそんなに飛び抜けて秀でることは通常ないわけで、少々の差でもアピールすることで集団の力学を操らなければならないのだろう1

閑話休題、もうひとつの明暗の分かれ道は、その行動が「理解できる」ものであることだろう。まったく意味不明なことをしているのではなくて、みんなやりたかったけどできないこと、あるいはその人の一貫した趣味嗜好を貫き通すといった、やりたい動機が理解できることであれば空気を読まなくても大丈夫だ。あえて恥をかきにいける。でもそれは、そうしたらかえってかっこいいとわかっているから。わかっててピエロをしにいく、あるいは単に楽しいことをしにいく。そういうのはけっきょく、リターンのためにリスクを取るということ。だから、リターンが理解できる場合はしっくりくる。たとえば、いつだか建物の廊下でローラーボードに乗っているやつがいた。普通の感覚だったら迷惑だし、そんなことやらないだろう。でも、楽しそうなことは間違いない。行動を縛っているもろもろのしがらみを取り去ってみれば、真っ直ぐで平らな廊下があって、ローラーボードを持っていたら、そこで遊ぶのが一番自然な行動かもしれないな、ということにはじめて気付かされた。それでもやっぱり感心はしない行動だが、そうやって自由に振る舞って、ほんとうはだれだってやりたいはずのことをしているのは端的にうらやましい。ローラーボードはしないにしても、見習うべきところは多いと思う。

たぶん日本の社会は、こうやって逸脱した行動を取ることへの寛容度合いが低い社会だ。それは日本だけではないかもしれない。それでも、もう少し規範性がゆるい社会も少なからずあるだろう。だから空気を読まないと疎まれていろいろな不利益を被ることもあるかもしれない。ただ、逆にそれはこういう行動を取るライバルが少ないというチャンスでもあるように思う。それこそ「日本的な」まめに機嫌を取るような行動とうまいこと組み合わせてリスクを軽減すれば、リターンは大きいはずだ。というのは、ほかにそうやって逸脱する競争相手がいないから、逸脱することによる利益をぜんぶ持っていけるからだ。ふつう人がしない交渉ごと、頼みごとをしてみる、ちょっと無茶かもしれない要求をしてみる、わからないときに積極的に質問してみる。だめなら引き下がればいい。無理に押し通す必要はない。ただ、不満があるときにだまってがまんしないで一歩踏み込んでみることは大事だと思う。ときにうまくいかないことがあったとしても、きっと得るもののほうが多い。


  1. けっきょくのところ、組織におけるモラハラはこういう集団の力学、リーダーが地位を脅かされないためには力を誇示し続ける必要があるという構造によって生じる部分が大きいのではないかと思う。個人が最初からモラハラ気質を持っている場合ももちろんあるだろうが、組織から離れれば家庭では優しい親なのに、といった事例はまさに組織の構造がリーダーをしてモラハラをさせていることの証拠なのではないだろうか。もちろん、モラハラを正当化したいわけではない。

二世帯住宅はやめておけ

私の実家は二世帯住宅だった。その時の経験から言うと、二世帯住宅はぜったいにやめるべきだ。

このことは近年すでに言われていることのようだ。二世帯住宅は過去の考え方で、ものの本によると「スープの冷めない距離」なるものがよいらしい。すなわち、徒歩数分くらいの距離で別に住むべきだということだ。

結婚したら、もう「親に対しての子」という立場は手放さなくてはいけないのだ。少なくとも優先順位は下げなくてはいけない。あなたはもう息子や娘であるより、妻や夫であり、かつ子どもがいるなら父や母であるのだ。この優先順位は絶対に逆転させてはいけない。たとえ自分の親にたくさん介護の手がかかるようになっても、そのことを肝に命じなければならない。

そして、配偶者に自分の親の世話をさせるなんてあまりにばかげている。他人同士の関係ではないか。肉親であっても介護なんてやっていられないのに、どうしてただの他人の世話ができよう? ナンセンスの一言に尽きる。

介護はつらい。なぜつらいかというと、出口が見えないから。出口は死しかないから。早く死んでほしい、そう願う気持ちは決して口に出せない。介護は家族の関係を壊す。なぜならぜったいに家族の間で温度差ができるから。これを経験したとき、私は孫の立場だったから気楽ではあった。でも、これをより近い立場でやりたいとは思わない。どの位置にいても、つらいだけだ。

二世帯住宅だと、24時間365日介護から解放されない。呼び出しブザーなんかつけてしまったものだから、いつ何時それが鳴って呼び出されるかわからない。1回目、2回目、3回目、そのころはまだ笑っていられる。でも、500回目でも、まだ平気だろうか? そう考えると数分で行けてしまうスープの冷めない距離とやらですら近すぎる気がしてくる。1時間くらい離れていたほうがいいのではないか。

そもそも、なぜ親の介護なんてしなくてはいけないのだろうか。いや、したくなるものなのか? 今の時点ではそんなこと思わないが、実際親が介護が必要になったらしようと思うのだろうか。あるいは、せざるを得ないのか。しかし介護を外注するくらいの金はあったはずなのに、どうしてそっちを選ばなかったのだろうか。こんなことを思う私は冷血な人間なのだろうか。

家庭の問題について語り出すときりがない。別に私は虐待されたとかそういうのではないが、でもやはり自分の家庭や周りの人たちを見ていて思うことはいろいろある。その中でも最大のものは、やはり親離れ子離れができていないケースが多すぎるという問題だと思う。特に母親とべったりになってしまう問題が多いのは、女性が出産育児とともに職場を離れざるを得ないというジェンダーロールの問題と地続きだろう。そうすると人間関係が狭まり、かつ固定されてしまう。職場だったらうまくいかなかったら転職すればいいが、専業主婦のママ友みたいなつながりは単に狭いだけでなく、いったんうまくいかないことがあったときに切り替える手段がないから、そうするとどこまでも孤立してしまう。昔からの友人だってずいぶん疎遠になっているだろうし、相手も家族を持ったりして忙しいだろう。結果として、母と子がどこまでも融合してしまう。

祖父母が亡くなったとき、私は別に悲しく感じなかったことが思い起こされる。なぜだろう。全員長生きしたからだろうか。それとも、介護の手伝いにもううんざりしていたからだろうか。いつもは冷静に見えた両親が、ずいぶんと周りが見えなくなっていた。父方のほうが介護を要したときは、私の父親がそっちにすっかり入れ込んでいるのを母親と私は醒めた目で見ていた。でも、そのあとに母方のほうが同様になったときは、今度は私は父と一緒に冷静さを失った母を見ていた。やっぱり、家族は他人のはじまりだ。家族という単位を、私はあまり信用しない。情なんて、もろいものだ。

だから、家族という単位で親世代を支えようと考えるのは間違っている。二世帯住宅なんて、やめておけ。

年齢を重ねること(2):老いることで失うもの

前回の記事ではおっさんになることについて、それがこわいということを書いた。今回はさらにその先、老齢になることについて考えてみる。老齢では、何を失うのだろうか。人は、どうやって老い、死んでいけばいいのだろうか。まだ早すぎる心配かもしれない。けれど、あまりにこういったことを考えている人が少ないように感じてしまう。あるいは、現実的にちかづいてきたら考えたくなくなるのかもしれない。だから、いまのうちに思索を巡らしておこうと思う。

1. 単純に身体的キャパシティを失う

これは当たり前のようだが、実感するまではなかなか分かりにくいものだと思う。以前、大自然の中でフィールドワークをしたとき、まだ若いにもかかわらず体力のない私は、ただそれだけで行動範囲が制約された。地図にはあって、他の人は行けるのに、私の世界にはそこは存在しないのだ。それは、どうしようもなく切なかった。

世界の大きさは、自己の身体的能力の限界によって規定されるのだ。大事なことだからもう一度言う。身体が衰弱すれば、すなわち世界が小さくなるのだ。いまはいつか行きたいなという思いとともにアフリカに思いを馳せることができるし、北海道旅行はもっと現実的な可能性として計画を立てることができ、週末にふらっと日帰り旅行なんて簡単だ。テレビで、ネットで、どこかの場所のおいしい食べ物について宣伝を見たとき、若いうちなら、実際には行かないとしても行くことを現実的に生じ得るシナリオとして考えることができる。

ところが身体的能力が低下してくるとどうなるか。もう、異国の地に旅することは叶わないのだ。もう、沖縄に旅行することだってできないかもしれない。どこか近場で、と思っても、誰かの助けがないと行くことができない。あるいはそもそも、寝たきりや車椅子では今まで簡単に行けていた場所にすら、行くことができない。選択肢が、自分の世界が、不可逆的に縮小し、もう二度と手が届かないものになってしまう喪失感は、いったいどれほどのものか。実際にそれだけ選択肢を失う前の段階でも、身体能力が右肩下がりになり始めた段階から、もうこのことは常に意識せざるを得ないだろう。

2. 自己の人格の一部を失う

個人の人格、あるいはアイデンティティは、他者との関係のもとに成り立つものだ。「自分が他者にこう見せる」と、「他者が自分をこう見ている」は相互作用の関係にある。悪ガキな自分、礼儀正しい新入社員な自分、面倒見のいい先輩の自分、そうやって他者から期待されるキャラが、自分の一部なのだ。

ところが、年齢を重ねていくと、自分とともに人生を生きてきた人たちが、一人、また一人と先に旅立ってしまう。そうすると、あなたは人格の一部を失ってしまう。「その人に見られていたあなた」は永遠に戻ってこない。草野球に明け暮れた中学時代を知る同級生がみなあの世に行ってしまえば、もうそのあなたは存在しなくなる。もう会うことがなくても、生きていてくれて、手紙でもやりとりしていれば、野球の思い出を話さなくても、あなたはきっとその相手が野球の記憶とともにあなたを見ていると信じることができる。たとえそれが間違っていたとしても、関係のないことだ。

そのうちに、どんどん自分の世界が失われていく。もうどこにも行くことはできないから、せめて思い出の世界に浸ろうとしても、その思い出を共有した人たちがどんどんいなくなっていく。その悲しみは、どれほど深いのだろう。

3. 自分への信頼を失う

そしてたぶん一番つらいのがこれだろう。自分のことが信じられなくなってしまう。自分の記憶、自分の判断、自分のすべてが、信用できなくなってしまう。特に認知症の場合に顕著だ。

自分がご飯を食べていないと思ったら、実は食べていた。薬を飲んだと思ったら、実は飲んでいなかった。はじめましての人が現れたと思ったら、実は自分の肉親だった。そんなとき、間違えるたびに、相手が怪訝な顔をする。口には出さなくても、一瞬表情が曇る。そして相手の対応がだんだん小さな子どもへのそれになってくる。そうやって、自分の正しいと思ったことが、客観的にはどうしようもなく間違っているということが繰り返される。たとえ昨日食べたものは忘れても、そういう悲しみはだんだん覚えてしまう。そして、自分が間違っていることを前提に物事を考えなくてはいけなくなる。これは最悪の呪いだ。そんなこと、いったいぜんたいどうしたらできるのだろうか? 我思う、ゆえに……? 自分の理性が信じられないなら、何一つ意味のある結論にはたどり着けない。それは、根本的に世界が逆さまになることだ。これはいままで味わったこともないほどのストレスに違いない。性格が変わったり、キレたりするのもしょうがないくらいだと思う。

こうして考えると、老いるのはつらいことに思える。老いながら、それでも心に平静を保つことはできるのだろうか。どうやったら、人間の尊厳を保ちながら老い、そして死んでいくことができるのだろうか。そのためには、若いうちにどうしておくべきなのだろうか。それはまだ、わからない。

年齢を重ねること(1):おっさんになるのがこわい

わたしは恐れている、いずれおっさんになってしまうことを。きっときもくて使えないおっさんになって、時代遅れの考え方で若い人から白い目で見られることを。まだ若いと信じているうちに、外から見たらもうおっさんになることを。

わたしはしばしば、おっさんをうっとうしく思っている。明確なセクハラはしないにしても、考え方が保守的でしばしば反感を覚える。持っている知識やスキルは時代遅れで、使い物にならない。昔話はつまらないし、そんな過去にしがみつくようにはなりたくない。

好感の持てるおっさんは稀だ。みんなそんなばかでもないはずだし、若いうちはきっといい感じの青年だったのだろう。なのに、ただ年齢を重ねるだけで、ほとんどがつまらないおっさんになってしまう。ということは、わたしも高い確率でそんなおっさんになってしまう。その結論がたまらなく憂鬱にさせる。

だからわたしは危機感を持っている。わたしたちの世代、いまの世代も、やっぱり数十年前の世代と同様にきもいおっさんたちになっていくんだってことに。団塊の世代がどうだとか言うけど、でもだいたいは普遍的でしょう。きもくて、うっとうしくて、短気で、空っぽで、それでいて若さをあきらめられない、そんなおっさんになってしまう。


現代社会は、おっさんにきびしい社会になってきていると思う。技術革新の速度は指数関数的に加速し、あっという間に過去の知識が使い物にならなくなってきている。年の功は、もう役に立たない。新卒の若者、場合によっては中学生くらいでも、先端技術に優れていればおっさんよりも使い物になる時代だ。過去の経験は新しい状況への判断を誤らせる。むしろ、何も知らないでいちから情報収集した方が良い判断ができるのではないか。年寄りは使い物にならないという考え方をagismと名付けて糾弾するのはけっこうだけれど、本当のことだから何を言っても変わるはずがない。

技術だけじゃなく、社会のあり方もどんどん変わるようになってきている。情報の流通速度が飛躍的に速まり、それとともに国境を超えて、海を渡って新しい考え方が入ってきている。近いうちに言語の壁だってなくなるだろう。そうすると、人間関係、家族、仕事と余暇、雇用関係の結び方、いろいろなものがどんどん進歩していくようになる。今だってそうなってきていて、古くさいジェンダーロールみたいなものはだいぶ弱まってきた。それについていけてないのはおっさんたちだ。それで時代錯誤な発言をしてしまう。失言をしようと狙っているわけではないのだ。単に、20年前と同じことを言っただけなのだ。だけど、それは今は言ってはいけないことだ。わたしは年齢を重ねながら、ますます加速するその変化についていけるだろうか。

そういうセクハラとかしてしまうおっさんの影を、今の若者にも見ることができる。全員20代30代みたいなITベンチャーとか、みんな友達みたいな関係で、私生活を混ぜるのが当たり前のカルチャーではないか。あれは若いから許される。大学のサークルだったら酒を人に押し付けてもパワハラ案件にならないのと同じ。それを企業でも続けている。みんな若いからそれでも構わない。だけど、同じことを20年続けていたらハラスメントで訴えられかねない。ああいう人たちは危ういと思う。


Twitterを見ていると、気持ち悪いおっさんがたくさんいる。ミスコンのツイートへのリプライを見るのが、地獄への最短経路。歳をとっても性欲から解放されない人間の成れの果てが転がっている。『国家』でプラトンは老年になると人を支配する欲望という暴君が鳴りを潜め、やっと自由になれるから老年はよいものだと言っていた。じゃあこの光景はなんだ。プラトンはとんでもない嘘つきだ。

この観察からわかるように、おっさんは性欲から解放されないが、しかしその性欲はタブーだ。あまりに救いがない。

歳の差というのは、最後のタブー、最後のひとつになるほど、他のすべてに取って代わるほど、強力な最後の一線だ。 − ミシェル・ウェルベックある島の可能性

特に日本、あるいは東アジアの儒教圏には、年齢差があると友達ではないという意識があると思う。たった一年ずれるだけで、もう先輩後輩の関係になってしまう。だから、少し年齢が違う相手と仲良く接するという経験を積むチャンスがない。その歳の差の壁がSNSなどで破れたとき、あまりに不慣れで気持ちが悪いコミュニケーションをはかってしまう。

そしておっさんは、自分がおっさんだという自覚がないのだ。それもそうだ。時間の流れは体感的にはどんどん速くなるらしいから。きっと35歳くらいのつもりでもう50歳とかになっているのだろう。だからかなり意図的にライフステージを先取りして、もっと上の年齢のように振る舞わないと、年齢相当の振る舞いはできないのだ。だけどそれって悲しいことだ。意図的にどんどん若さを捨てていかないといけないということだから。若さを保ちながら、尊敬できるおっさんになるにはどうしたらいいのか?


老害という言葉は好きではない。でも、言いたい気持ちはとてもわかってしまう。けっきょく、おっさんのさまざまな弊害に対して、何もおっさんの強みが見出せないのだ。いったい、若い人にできない何ができるというのだ? どうしたら、魅力的なおっさんになれるのか?

仕事をがんばれば中身のある円熟したおっさんになれるというのは間違いだ。反例は挙げるまでもなくたくさん見つかるだろう。仕事をたくさんしてきて、けっきょく何も中身が詰まっていない薄っぺらいおっさんがいかに多いことか。

じゃあ単調な仕事じゃなくていろいろユニークな経験を重ねればいいのかというと、それも間違いだ。おっさんの武勇伝聴いたことあるでしょう。うんざりしたことあるでしょう。けっきょく、珍しい経験やすごい経験をしていても、それじゃあ豊かなおっさんにはなれないのだよ。

けっきょくのところ、何をやろうが歳をとるとどんどん後ろ向きになってしまう。未来が先細りしていくから、そのぶん過去にすがらないと、自我を維持できないのだろう。だんだん自分が時代遅れになってきて、使えない存在になってきたとき、過去の思い出に浸って自尊心を保つのは、必要な防衛反応だろう。歳をとると、みんな後ろ向きになる。それは好き好んでやっているわけではなくて、そうせざるを得ないから。

むしろ、キャリアなんてつまない方がいいのかもしれない。5年とか10年にいっぺん、キャリアをまるっきり切り替えて、新しいことをはじめて、若い人に教えを請うべきなのかもしれない。そうしたら、いつまでも未熟者という気持ちでいられて、老害にならないですむのかもしれない。

人は木のよう、と言えるかもしれない。木々が集まって森ができるけど、ときにはあえて去らないと、そこに次の苗木は育たない。だから、いつまでも同じ場所に留まったら老害になってしまう。

でもけっきょくは、老害になるのはもう避けられないんじゃないかと思ったりもする。もう、むりだよ。しょうがない。受け入れるしかない。逆にそれを防ごうとするあまり必死になるほうが、かえって見苦しいかもしれないし、そもそも老害になるかどうかとかをやたらと気にするのはもうやめたほうがいいんじゃないだろうか。

やっぱり、おっさんになるのがこわい。

セカイはシステムでできている

この世界は、誰か個人とか、あるいはあるグループの意思で動いているわけではない、というのが最近の持論だ。この世界は、システムでできている。それは、実効的にコントロールする支配者を持たない。それは社会全員の意思の総体ではない。もっと超越的で、誰もコントロールなんてできていない。

戦争が起きるのも、金融危機が起きるのも。独裁者の専制だって、すべてシステムの歯車が噛み合った結果だ。個人をすげ替えても、何も変わらない。その一人を始末しても無駄だ。そもそも、独裁者は決して「独裁」なんてしていない。例えば軍部を手厚く遇して機嫌を取らないと、すぐにクーデターで吊られてしまう。その軍部にしたって、内部での力のせめぎ合いがある。構成員一人ひとりの思惑、欲望、生存上の要請、それらが織りなす制約の網。誰一人、状況を実効的にコントロールできてはいない。

だからもちろん、トランプが、安倍が、とかナンセンスでしかない。あるいは差別だって、誰一人そうしようとしているわけではない。構造が、人をして差別をさせているのだ。あなたが差別をしていないのは、たまたまあなたに差別をさせる力が働いていないから。人は単に、斜面の低い方に転がるボールのような存在。その動きを見てあれこれ言うのではなくて、地面の凸凹を作っている力に目を向ける必要がある。それは、要素の総和を超えた複雑系としてのシステム。システムは個人の感情の総体によって動いているわけではない。感情がシステムに作られている。

生命現象なんてその極みでしょう。アリの巣はどうやって成り立っているか? 何らかの意思があるか? 全体をまとめる司令部はないのに、ごくごく単純なシグナルによるコミュニケーションを通じて、総体としてきわめて複雑な機能を実現し、生存している。人間社会もそれと同じ。どうせ、人が何を思っても、たいして他人には通じていない。三色の信号機でも頭につけておけば、それで十分なんじゃないだろうか。

なのになんで人は、人間社会は自由意志によって駆動されていると思い込んでしまうのだろうか。それはもしかしたら、人に名前をつけたことによる過ちなのかもしれない。だから、個人を単位として扱ってしまう。本当は恣意的なものにすぎないかもしれないのに。数人の繋がりをひとかたまりにしてもいいはずだ。あるいは誰々の口が、誰々の心臓が、誰々の満腹の胃が、とか器官単位で見てもいい。はたまた誰々の腸内細菌のこの部分が、とか言ったっていいのだ。なのに、なぜか「個人」が絶対的になり、個人の自由意志という神話がなぜか本当のことだとされている。

もしかしたら、私たちは『ハイペリオン』(サイモン・シン)に出てくるビクラ族のように生きるべきだったのかもしれない。彼らには、個々人の名前がない。名前がなければ、個人という単位に原因を帰すことができない。アリの集団には個体の名前をつけないから、もう少しフェアに見ることができている気がする。

システムの力には抗えないから、自分の意思で社会のあり方を変えようとしても無駄だ。政治、経済、宗教、教育、全体主義、戦争、差別、流行……。その他なんでもいい。つねに変容していくものではあるが、そこに影響を及ぼすことはできない。だいたい、他の人だってばかではないのだから問題くらい分かっている。それで変えようとして、人生を捧げて、でも何も変わってないのだ。システムの力学は、人の意思を超越している。

変えられない理由は、表出する力は、よそで大きな力が働いた結果だからだ。関係ないところでよりたくさんの人が押しているところと、あなたの問題が出っ張ってくるところは、水面下でつながっている。関係ないと思っていた人の欲望とか、あるいは善意とかが、結果としてそこに集中している。だから、正面から押さえ込もうとしても上手く行くはずがない。せめてうまく行くとしたら、そういう隠れた力の構造を暴き、その働く方向をそらしてやることしかない。

特に長く存続しているシステムの中には、自己保存に長けたものがある。それは進化の産物だ。ミームと呼んでもいい。そういうものは、厳しい生存競争を経た選りすぐりの生き残りだ。そんなものと勝負したら、人間の一生くらい簡単に吹き飛ばされてしまう。

今日はこれくらいにしておくことにしよう。思ったよりも衒学的になってしまった。

書くことは病んでいるしるし

ブログを始めて数ヶ月が過ぎた。これまでもSNSなどにまとまった文章を投稿することはあったが、こんなにいろいろな話題について思うままに書くことができる気楽さはリアルの人間関係から切り離したブログの媒体ゆえのものだ。こんなに楽しいとは思わなかった。

ところが、最近奇妙に思うことがある。知人にブログに使うネタを部分的に話してみたり、あるいは原稿を見せたり1しても、たいして反応がないのだ。そして、こんなにたくさん文章を書いていると言うとだいたい驚かれる。なのに同時に、ブログ界隈ではもっとたくさん書く人達がいくらでもいる。考えも豊かだし、文章が魅力にあふれていてすばらしいなと思う。それはなにも有名ブロガーに限った話ではない。読者数が一桁二桁くらいのブログでも、宝石のように輝く文章をたくさん見ている。はたしてこのギャップは何なのだろうか。どうしてリアルで遭遇する世の中の人は案外文章を書かないのだろうか。

そう思いながら今日もいろいろな人のブログを見ていると、ふと気がついた。私が気に入っているブログはほとんどすべて、何らかの意味で「病んで」いるか、そうでなくても社会の「ふつう」なレールから逸脱した人達によって綴られていることに。そういうブログにだけ、不思議な魅力を感じるのだ。そういうブログだけが、自己の内面に目を向け、世の中を自らの経験に基づいて考え、その人なりの言葉によって生み出された文章でできているのだ。そういうブログだけが、本当に書きたい衝動に駆られて書かれているのだ2

そうなのだ。わかってしまった。ふつうの人は、書かないのだ。己の生い立ちや内心を何千何万もの文字に刻んで吐露するなんてことはしないのだ。ふつうの人は、書くとしても内容の薄っぺらいものだけだ。ふつうの人は、どこかで誰かが書いていたことをストックフォトとアフィリエイトと大量の改行とともに焼き直して、アクセスを稼いで広告収入を得ることくらいにしか興味がないのだ。対してどうだろう、内省的なブログは文字がびっしりと詰まっていて、引用もリンクもほとんどない。そう、こっちが私のいる世界。

そもそも、世界との不協和があってこそ書くことができるのだ。世界に溶け込めているなら、書く必要がない。書くことがない。

文章を書く人は、自己の内面世界と外部の世界の間に差異を抱えているのだ。例えてみるなら細胞膜によって隔てられていて、その内外で濃度が均一でないのだ。だから、内部から発信する必要がある。もちろん発信したって世の中は別に変わってくれるわけじゃないから、問題が解決するわけではない。ずっと膜にかかる圧力に耐え続けなければならない人生。

そしてまさにその差異によって、人々は社会から異常者とみなされる。差異ある者は狂気を持つ者であると定義され、精神医学によって作り出された病名3がつけられる。圧力は、このようにして作用するのだ。

世の中でうまくいっている人は、内と外でのずれが小さい。だから、溶媒である社会に溶け込むのに苦労がない。そのとき個人は切れ目のない存在として社会と一体をなし、社会は個人に内在する。文章を書くまでもなく、テレパシーを使うでもなく、何もしなくてもおおむね均質であるから、はなから通じ合っているのと同じことだ。均質であるから、自己の存在を規定する膜を意識する必要がない。膜に圧力がかからないから。そこに言葉はいらない。いや、言葉を使いはするが、しかし言葉が綴る意味を伝達することを目的としてはいない。差異を説明することが目的の言葉ではなく、同質性を確認することが目的の言葉。それがノリとか言われるものだろう。

それはどんなに生きやすいことだろう。そもそも、自己と他者の意味合いが変わってくるのかもしれない。自己の内外を厳格に峻別する必要がないから。人と人が部分的にせよ溶け合ったような自我を形成できる。だから彼らはあんなにも共感性を求めるのだろう。だから彼らは、卒業などで仲間のもとを離れるときにあんなに涙を流し、手厚く送り出し、その後もつながっていようとするのだろう。私は共同体に属している間はけっこうその場所を大事に思えるが、離れるとすぐに冷めるタイプだ。そのこともこれで説明がつく気がする。膜でしっかり分けて、自分を形成するコンポーネントは確保しているから、離れてもやっていけてしまうのだ。ある意味ではいいことかもしれない。どこにいってもやっていけるから。

文章を書く人間の性質は、他の創作物にも共通するのだろうか。音楽や絵画、あるいは彫刻。私の経験上、写真はわりと方向性が違うように思う。(一般的な写実的な)写真は被写体を表現することが第一であって、そこに撮影者の技量が入り込みはするが、それでも撮影者はどちらかというと黒子として振る舞う。文章は(少なくとも随筆については)写真とは反対に、文字によって描き出す客体より、描く著者そのものに焦点が当たる傾向が強い。絵はもう少し文章に近いかもしれない。


  1. このブログそのものがバレることはないように注意しているつもりだが、もし発見していたらぜひ直接連絡してほしい。怒らないから。

  2. ショーペンハウエル『著作と文体』の二つあるいは三つの著者のタイプに関するくだりを思い起こさせる。

  3. ここでは精神医学の学術的知見を否定的に扱うつもりはないが、しかしその社会的意義として一面では異常者をわかりやすくラベリングする方向に用いられたことが現在、あるいは少なくともかつてあったことは間違いないだろう。