よい先輩になるために

何もしなくても気を遣われてしまうことを自覚する。非対称な関係だから、遠慮すべきところは遠慮するようにする。たとえいやでも、向こうからそうは言いづらいのだから。勘違いしてはいけない。あなたと後輩との距離は、あなたが思うほど近くない。あなたは、あなたが思うよりも先輩だ。過去の記憶を思い出すのだ。そしてこの感覚の非対称性を理解するのだ。良い先輩になることは、とりもなおさず「自分の感覚は正しくないと自覚するプロセス」にほかならない。

後輩のメンツをつぶしてはいけない。後輩がさらに後輩に対して何かを教えている時、あるいは単に先輩風を吹かせている時、たとえ言っていることが間違っていたとしても否定しない。きみが優秀なら、きみの後輩も優秀なはずだ。たまに間違ったことを言ったとしても、おおむねよい指導をしている(なんたってきみの後輩なのだから!)はずだから。きみの責務は後輩の後輩を直接指導することではなく、後輩を指導することで間接的に影響することだ。そのためには、後輩を尊敬に値する存在だと見せることが一番大事だ。あなたがそこで自分の方が格上だと見せつけることには何の意味もない。

指導するためには自分をもっと磨かなくてはならないことに気づく。後輩ができたからといっていきなり教育専門にならない。プレーヤであり続ける。でないといい指導はできない。プレーヤーでなくなってしまうとどうしても感覚がずれてくる。これは言語化しづらいが、どこか違うのだ。そしてそのずれに気づき修正する機会がなくなってしまう。あなたはまだまだ自分が上達しなくてはいけない。

そしてさらに歳を重ねてきたら、ひたすら謙虚になることだ。自分が正しいと思うことがきっとすでに古い考えで、そしてそのことに自分は気づけないのだということを自覚する。後輩がなにか違うことをしようとしていたら、まず自分が間違っているのだと考える。後輩に教えを乞う。そのとき、自分なりに納得しやすいことを選び取らない。それは自分の考え。そうではなくて、まるごと飲み込む。ある種、無批判になる。もし信じられないなら、ほかの後輩にセカンドオピニオンを求めるのはかまわないけれど。

引退する時期が近づいたら、もうあなたは役に立つことよりも害をなさないことが大事だ。主導権は後進に譲り、自分の責務を果たすことだけに集中するべきだ。求められていないなら、でしゃばらない。組織には新陳代謝が必要だ。そしてあなたは、剝がれ落ちなくてはいけない角質だから。

スイッチをパチンと

スイッチというとどんな姿のものを思い浮かべるだろうか。某ゲーム機ではない。一般名詞の方だ。ボタンではなくて、二つの状態、オンとオフを持つもの。

まあ、なんでもいい、ちょっとそれを思い浮かべてほしい。それで頭の中でおもむろにパチンと切り替えるんだ。切り替わっただろうか。そう、それでいい。

そうしたら、そのスイッチを何かに接続するんだ。電灯とかにつなぐわけじゃない。あなた自身の行動に接続するんだ。スイッチを入れたら立つ。切ったら座る。単に想像上でやるんじゃない。想像上のスイッチを、実際のあなたの身体の動きに対応させるんだ。単一の動作でできたら、次は一連の流れに対応させよう。布団から出て、着替えて、身支度を手早くして、家を出る。その流れをスタートさせるスイッチにしよう。そしてそれを朝になったらオンにするんだ。何も考えてはいけない。自動的に動く。途中で止まってもいけない。スマホとか触るのはダメだ。ただ自動的に流れ作業で家を出る。一旦家を出てしまえばもう大丈夫だろう。そう、朝なかなか動き出せない時はこうやって対処すればいい。

感情につなぐことだってできる。恐怖心とか、不安とか、嫌悪感とか。どうしても気が乗らないけど送らないといけないメッセージは、下書きして送信ボタン一発で送れるようにしておく。そして、パチンと嫌な気持ちのスイッチを切って送信する。これは簡単だ。一秒だけ切れればいいから。したくない電話もスイッチを切って三秒でアドレス帳を開き、発話ボタンを押してしまう。何を喋るかとか事前に考えようとすればするほどできなくなる。勢いではじめてしまえばいい。嫌いな食べ物も、スイッチを切り替えた瞬間に口に運んで一気に咀嚼する。これは吐きそうになるからちょっと難しいけど。

いずれもある行動を開始するスイッチとして使うべきだ。開始したらもう止めづらい行動であるとよい。スイッチによって「何もしない」というのは難しい。余計な思考がぐるぐる回ってしまうから。スイッチを入れて、無心で何かの動作をする。部屋の掃除でもいい。そうやって自分をうまく制御できるようになると、たぶん日々が幸せに過ごせるようになると期待している。

尊敬されることは、孤独になること

先日、ある先輩にひさしぶりに会う機会があった。その人はこれまでに私が出会ったことのある人の中で一番と言っていいくらい尊敬する人だ。だから素直に言うことにした、「とっても尊敬しています」と。きっと喜んでくれると思って――。

しばしの沈黙ののちに返ってきた言葉は予想とは異なるものだった。「尊敬してるとか言わないでほしい。さびしいから。」

――尊敬されることは、孤独になることなのだ。遠ざけられることなのだ。異質な存在として扱われることなのだ。川の対岸にいる存在、最初から異なる生き物として生まれた存在、「私たち」の一員ではない人間。そうやって見られてしまうのだ。どんなに対等で、何も特別じゃないただの弱い人間として見てほしくても、それはかなわないのだ。尊敬とはそういう意味だ。

尊敬されることは、高い期待をもたれ、それを裏切れなくなることだ。尊敬されているゆえに自分の居場所があるのなら、尊敬に値しなくなった瞬間に自分はそこにいられなくなる。人間勝ち続けることはできないし、衰えは避けられないのに、それでも戦い続けるしかない。負けられない負け戦を。――いや、ひょっとしたらあなたは真に私を人間として認めてくれているのかもしれない。だけど、そうなのかどうかはわからない。だから、どこにいっても、私は帰属意識を得ることはできない。――そんな気持ちになるのだ。サッカープレーヤー、歌手、ピアニスト、棋士、なんでもよい、自分が下手になったら、みんな離れていってしまうのではないか。どんなにがんばっても勝てない次世代のスターが出てきたら、私のことなどみんな忘れてしまうのではないか。その猜疑心は、宝くじでいきなり億万長者になった人が誰のことも信じられなくなってしまうのと似ている。

尊敬されることは、自分という存在ではなくて、肩書きとか、業績とか、能力とか、そういうものによって認識され、取り扱われることだ。「あの○○さん」として見られることは、自分自身を見てくれないことだ。等身大の、ただの一人の人間としての自分自身を見てくれないのだ。人間なんだから短所だってある。怠惰になることだってある。恥ずかしい過去だってある。でも尊敬されればされるほど、そういう面を否定されてしまう。何かの能力にたまたま秀でていただけで、人々はその向こうに全人格的な卓越性、超人性、あるいは神性を見てしまう。まるで完璧な人間であるかのように誤解され、期待され、そうでないとわかれば失望される。だれだってただの人間なのに。どうしようもなく、人間なのに。それでも超人の仮面を被らなくてはならない。それがウソであることを、どこまでも隠し続ける。でも、自分だけはウソを知ってしまっている。孤独だ。

だから、そういう人たちは同族とつるむのだろう。スポーツ選手、芸能人、アイドル、あるいは王族とかもそうだ。どんなにファンが好いてくれていても、プライベートな付き合いはできないのだ。だって、自分を見てくれないから。俳優が演じた役に恋に落ちてその俳優を追いかけるのがバカげているのと同じで、そういう人たちはいつも「役」を演じているから、その向こうにプライベートの人物像はないのだ。だからこそ、田舎でひとり駐在の医師するのはいくら稼げても好まれない選択肢なのだろう。仮面を外せる機会がないから。ずっとちやほやされたり、嫉妬されたり、とにかく「医者」としてのペルソナから自由になれない。1

冒頭の話に戻る。なんということをやらかしてしまったのだろう。なんて私は浅慮だったのだろう。あれだけみんなに尊敬されている先輩だから、もういやというほど言われていることに想像が及ばなかった。そしてそれがどれだけつらいかということに。

でも、それでも尊敬していると伝えたかった。実はそれはあんまり素直じゃない表現だった。本当は、好意を持っていると伝えたかった。別にそれは恋愛関係を求めるということではなくて、とにかく好きだからいまよりも近い関係になりたいという意味で。けっきょく、私はそれを言うことができなくて、口を開くことができなかった。だって、「あなたがどんなふうになっても、能力とか全部抜きにしても、とにかく人間として好きです。尊敬というのは、ただあなたを人間として見て尊敬しているっていうことです。」その喉元まで出かかった言葉は、心の底から本当のことだとは思えなかったから。


  1. こういうのは卓越した人に限った話だろうか? ふつうの人もこれを味わう方法がある。それは親になることだ。子にとっての絶対的な存在となり、すべてを知っていて、すべてをできることを期待されることだ。全世界を相手にして、子を守る唯一無二の存在となる。親になるという経験の本質のひとつは、たぶんここにあるのではないかと思う。

人生は朝食バイキング

何人かで旅行して宿に泊まる。翌朝、朝食バイキングで、めいめい好きなものを皿に盛る。料理の選択肢には限りがあるのに、一人として同じ盛り付けの皿はない。これらはみな、それぞれの人生を映している。

人生において、決断力のある人間とない人間がいる。決断力のある人間は、これと決めたらこれで、人生をためらわず進んでいく。そういう人はときに視野が狭く見えることもあるが、それは最初からいろいろ見ることを望んですらいないのだ。別にそれでいいと思っているのだ。あれこれ見て、いろいろなものごとをつまみ食いして、世界のあちこちを訪れて、けっきょく決められずうだうだ悩んでいる「視野の広い人」になるよりも、もしかしたらベストな選択ではないかもしれないにせよ、さっさと決断して人生を歩んでいくほうが大事なのだ。

そういう人は、和食にするか洋食にするかさっさと決めて、自分なりの盛り付けをデザインしていく。けっきょくのところ、ものごとはどうにでもなるのだ。和食にしてもおいしい盛り合わせはできるし、洋食にしてもまたそれはそれでおいしく食べて一日を始められる。その意味で、もともとの二者択一はそこまで重大なものではなかったのだ。

人生でも、決めなくてはいけないことは、決めさえすればあとはどうにでもなるのだ。その後のやりようはある。とにかくまずは決めてやることが大事だ。それをいつまでも逡巡して、機を逸する方がよほど損失だ。えいや、とさっさと決められる思い切りのよさ・あきらめのよさは、有能な人に極めて広く見られるものであるように思う。だってそうではないか。今どんなに悩んでも先のことはたいしてわからない。たしかに将来に重大な影響を及ぼす決断かもしれないが、でもわからないものは仕方がないのだ。今はわかる範囲でさっさと決めて、進んだときにそのときできるベストを尽くせばいいのだ。

そうやって決められない人間は、人生の形を作っていけない。たしかに人生は彫刻みたいなもので、一回削ったら後戻りはできない。けれど、削っていかないことにはただの石の塊でしかないのだ。けっきょくのところ、人生とは頭に思い描くシナリオのことではないのだ。人生とは、あなたが実際に下す決断であり、実行に移す行動なのだ。それがわかっていない人は、朝食バイキングでも和食にするか洋食にするかを決められない。いや、やっぱりシリアルにしようかな、と迷い続ける。そうやって一周回って何があるかを確認しているうちに、いちばんおいしいおかずはだれかが取っていってしまうのだ。

決断できないことは、つまり可能性を狭められないことだ。けれど、最終的に二つの人生を同時に生きることはできない。最終的にはどちらかを選ばなければならない。選ばなければならないなら、むしろ選ぶのは早い方がよい。その方が、その未来を準備して迎えることができる。最後の最後までうだうだ悩み続けて、ぎりぎりで決めたら、用意ができてないでそのときを迎えることになってしまう。これは将来についてよく考えることとはまったくもって違うことだ。決められないでいることほど、非生産的なこともない。いつまでもいつまでもそのことに認知負荷を取られて、先に進めないのだ。そうやっているから、時間に追い立てられる人生になるのだ。時間の先を行く人生を送りたければ、さっさと決断をすることだ。

労働・人生・長老

世の中には、高給の仕事をしている人たちがいる。放っておいてもお金が転がり込んでくる資産家の話ではない。労働者階級でたくさん稼いでいる人たちのことだ。コンサルとか、金融とか、そういうやつ。

そういう仕事には、どんな価値があるのだろうか?

そういう仕事に就く人たちは、主には稼ぎがいいからしているのだろう。あるいは経歴としても強いから将来の転職とか開業にも向いているのかもしれないけど、かと言ってはっきりした夢を挙げられる人はあまりいないように思う。社会的にも、こういう仕事が特に価値を生み出すものにはとても思われない。経済学のモデルに基づけば稼ぎがいいならすなわち社会的価値があるのだろうが、それが成り立ちそうには到底見えない。経済学なんてそんなものだ。

じゃあ、そういう仕事から高給を抜いたら、何も価値はないということになる。ずいぶん悲しいことだ。世の中の特に優秀な人ですら、結局稼ぎのためだけに、たまにやってくる余暇のためだけに、空虚な消費をするためだけに、人生の限られた時間を費やし、そして老いていく。その生き方は、もうすでに死んでいるようなものではないか。

こんなことを考えるのはどうしようもなく青くて、世間的には10代のうちに済ませておくべきことであることはわかる。大人になるというのは、自分で生計を立てなければならない現実と向き合うことだ。けれど、そうやって持ち出す「現実」とか「大人」は、人生について考えることを放棄するための言い訳でしかないこともまた事実だと思う。意味のある人生を生きようとする試みから逃げ出した自分を正当化するために、「それが大人になるということだ」と後付けする。そうしないことは子どもっぽい態度だと嘲る。だって、そういうことにしておかないと、一回しかない人生の時間を金という紙切れのために捧げている自分の人生を直視できないから。つまりただの認知的不協和だ。当人たちがそれを望んだというよりも、資本主義の弊害であり、人間疎外の一環であると捉えるべきだろう。

そういう人生、きっと後悔するのではないだろうか。あなたが80歳や90歳になって、何を思うだろうか。それでも後悔しない生き方だったなら、ぜひ教えてほしい。そうしたらあなたの人生を参考にして生きようと思うから。

けっきょく、みんなどうしようもなく子どもなのだ。30代、40代、あるいは50代でも、まだまだ人生の途中だ。大人のふりなんかしても、その実はしばらく労働してみてイキっているだけのガキンチョではないか。生きること、死ぬことについて何も知らないではないか。それなのに人生について何かを知ったような口を聞くのは笑ってしまうほどこっけいだ。

つまるところ、昨今の世の中の問題は、長老がいなくなってしまったことだ。達観した目線から若者に助言を授ける存在がいない。医療によって寿命が延びてしまったことで、寿命に近い世代は認知症や様々な疾病を抱えていて参考にしようにもできない。そしてもっと重要なことに、急速に変化する社会の中で、何十年も昔の知恵は役に立たなくなってしまった。それによって「長老」の権威は「ボケ老人」まで失墜し、代わって壮年期の世代が大人の代表として権威を持つようになった。しかし、その世代はまだ人生を語ることなどできない。近視眼的なことばかり放言し、それが本当に良い人生を実現するのか知ることはない。そうして若者は行き止まりへと導かれる。

認知のゆがみ

「うちの代は変わってる人多いよね」と誰かが言う。わたしはあいまいに同意する。「あなたの認知の歪みはどこから?」と問いたくなるのをこらえながら。

だって、そんなの錯覚に決まってるではないか。うちの代が特に変わっているなんてことあるはずないのだから。上の代も同じことを言っていたに違いないし、下の代も来年には同じことをきっと言い合っている。どうしてそのことに気づけないのだろう? きっとその人は、そうやって自分の認知を相対化することができていないのだろう。そして偉そうに言うわたしも、他の場面ではそれができていないに違いないのだ。

人間の認知は歪んでいる。確かに日常生活で犬に見えるものは犬であって、猫であることはまずないだろう。けれど人はその感覚をnaïveに延長して、自分の知覚や感覚を真実そのものだと捉えてすぎるきらいがある。


流れのある川をざぶざぶと歩いて渡ったことはあるだろうか。そのときに足に感じる流れの力強さにひるまなかっただろうか。あるいは単に歩いているときでも、強風にあおられたとき、ただの空気があれほど大きな力を持つことに驚嘆しないだろうか。

海原を航海するときは、海流や風向きを考慮して舵を切らなくては、たとえ羅針盤を持っていても目的地に到着することはおぼつかない。横風を受けているなら、舳先をまっすぐ目的地に向けるのではなくて、いくばくか風上方向に向けなくてはならない。たとえ目的地から逸れる気がしたとしても、どんなに目的地にまっすぐ向かいたい気持ちがあったとしても、ぐっとこらえて、あえてずらさなくてはならない。

同じように、自分の知覚がどのくらい歪んでいるかを観測し、それに応じてずれを相殺するよう自分の感じる「真実」からあえて外れるように進路を補正しなくては、ほんとうの真実には近づけない。このひどく直感に反する操作を行えるかどうか、それが「批判的思考」というものの重要な要素ではないか。

では、どうすれば認知のずれに対処できるか。。きっと何か外部の目印を基準にして補正してやるべきなのだろう。

たとえてみれば、星を見て海原を航海するようなもの。でも、星はそれぞれに動くなかで、どれを基準をすべきだろうか。月や火星を選んだ日には目も当てられない。惑星、という言葉は惑うようなその運動に対して付けられたそうだ。それに惑わされて帰ってこなかった人々もきっといたのではないか。どの星を選ぶかが生死を分ける。

同じように、自分の認知のズレを補正しているつもりが、そのときに使うものさしが歪んでいたら、むしろ間違いを拡大してしまう。どのものさしを選ぶかが、人生を分ける。


多数派に乗っかるのが、多くの人がすることだろう。そうしていれば、細かい心配はしなくていい。みんなが楽しいと思うことを楽しみ、みんながすることをする。メインストリームに合わせていれば、きっと大丈夫だ。

いや、そうだろうか。だって、その平均が正しいとも限らないから。そのうちに「平均」を内在化してしまい、自分なりのcreativityは失われてしまう。エキセントリックなところがなくなってしまう。みんなが賞賛するTEDトークを見てこれがイノベーションかと言っているようでは終わっている。みんなに説得力のあるプレゼンとはつまり、聴衆が聞きたいことを聞かせることなのだ。聴衆の平均に迎合することなのだ。これはソフィストの術であって、プラトンが嫌ったのもわかる。

けれどその対極へ向かうことも恐ろしいことだ。世を疎み、過激な集団に共鳴した結果、触れただけで爆発しそうなほどの認知の歪みを蓄積させてしまった人も見かける。敵味方二元思考の極北。信じるものがあれば強いのは事実だが、力強く導かれた先が地獄では救いがない。その意味で、長い歴史がある信仰を持つのであれば、それは北極星となってくれることだろう。


けっきょくのところ、簡単な正解はないのだろう。揺れ動きながら、葛藤を抱えながら、ずっと自分の認知の正しさを疑いながら、手探りで進み続けるしかないのだろう。その不安を覚えなくなってしまったときこそが、一番危ないのだろう。山を越え、谷を渡る小径を辿っているはずなのに、もしそこに高速道路が見えたなら、それはきっと蜃気楼にちがいないのだ。

かける言葉

死にたがっている人と関わることが何回かあった。その誰も死んでいないし、実際どのくらい死ぬことに近かったのかはわからない。別にそれを知りたいわけでもない。ただ、少なくともその時点では、かなり危険でどうにかしなくてはいけない状況であるように思えた。

けれど、そこで気づかされたのは、私にはそこで発する言葉が何一つないことだった。世間にはあまりに安易な言葉が多い。だれであれ悩み抜いた先でしか選択肢に入ってこない選択であることは間違いないわけで、浅い言葉をかけるのは想像力が絶望的に不足している。何日、何週間、何ヶ月、何年と悩み抜いた先に見出そうとしている結論を、他人があっさり否定することなんてできるわけがない。


がんばって、なんて言えない。あたりまえじゃないか。

わかるよ、なんて言えない。だって、わかるわけないもの。目の前にいても、あなたが見る世界を何一つ私は見ていないことくらい知っている。

そばにいるよ、なんて言えない。だって、そんなことできないもの。そんな無責任なことは言えない。

きっといいことあるよ、なんて言えない。だって、そんなことわからないじゃん。今まであったいいことも悪いこともひっくるめて今そこにいるあなたに、そんなでたらめなことは言えない。

周りが悲しむよ、なんて言えない。一番悲しいのはあなただってわかっているから。

もう一日だけでも、なんて言えない。そうやって毎日を過ごしてきたであろうあなたに。次こそ宝くじ買えば当たるかもしれない、と言うのと同じではないか。


考えてみると、そこでかける言葉がないのはあたりまえなのかもしれない。神様ですら、何も言ってやれないのだ。だからタブーなのだ。人の子の身にして、そこで何ができるだろうか。