分断された思考

(前回の記事の続き)

……と、こんなことを考えているうちに、この分断とつながりの表裏一体性は人間関係だけに見られる性質ではないのではないかと思うようになった。それは、思考様式とか、知識についても当てはまるものなのかもしれないと。

いろいろな知識や考え方をつけると、それらがつながる瞬間がたびたび訪れる。表面的にまったく異なるように見える物事が、同じ思考様式、同じ探求方法、同じ体系で説明できる。物理でやったブラウン運動で、株価の変動が説明できる。ミクロ経済で扱ったゲーム理論で、生物の進化が説明できる。そして歴史の知識で、哲学の発展と芸術、さらに技術の進歩が理解できたりする。なんということだろう、すべてがつながっている! これが人類の英知。その知識で城を築いて、人は繁栄を謳歌する。でも、こうやって知恵がつながればつながるほど、その枠組みの外にある思考との分断が深まっていくのだ。

ときどき、理性の城にならず者が攻め込んでくる。たとえば疑似科学なんかがそうだ。人類が築いてきた科学という体系を汚そうとする。だから戦う。なのにどうしても信じる人がいる。嘆かわしいことだ。ところで、疑似科学がやってきた源であるこの城の外側には、いったい何があるのだろう? この城は人類のすべての知恵を含んでいるはずなのに、外に何かが存在することがありえようか? 城を築く前の人類はシャーマンが神に祈り、供物を捧げる野蛮な生を営んでいた。そんなものは、もう消え去ったはずだ。

……そんなことはない、壁の外にも、また人の営みがあるのだ。そこでは、違う思考、違う知識が支配する。そこでの言説は、天皇家は万世一代の血筋だというものだったり、ワクチンは毒だから打ってはいけないというものだったりする。そして、「○○の陰謀」とかが複数の現象に一貫した説明を与えてくれる説明してくれる。きっとここの人たちも「なるほど!」と納得しているのだろう。それが英知の体系なのだろう。神秘主義も包括的に宇宙に秩序を与えているのだろう。物理学が与えるのとはまた違う方法で。はたまた、ノリと共感でできているように見える心理も、たぶんちゃんと見れば思考が「つながって」いるのだろう。でも、そこにどういう心理があるのか分析的に名前をつけることは、きっとできない。だって、名前をつけようとした時点で、物事を分けて、名前をつけて、要素に還元していく「近代的」思考様式に無理やりはめ込んでしまうことになるのだから。

けっきょく、ただ見えていないだけなのだ。城の外にも、まだ世界が広がっていることが。占星術のころから、人類は何も変わっていないのだ。科学と理性に基づいた思考は、普遍的ではないのだ。文明とか思考様式が単線的に発達してきたという考えが誤りなのだ。人とサルではサルの方が古いのではないのと同じだ。人もサルも、どちらも進化の最前線にいるのとどうように、科学的思考も、非科学的思考も、どちらも現代の思考様式なのだ。その中で疑似科学がおかしな考え方として目に入るのは、それが一番理性の城に似ていて、私たちがいる城の城壁まで攻め込んでくるからだ。でも、ほんとうはそれだけじゃない。あっち先には陰謀論の城があり、こっちの遠くには宗教的コンサバの城があり、それらは私たちの城と同じくらい、世界に体系的な説明を与えている。あるいは城の外にはそもそも体系性そのものを拒否する雑然とした思考が渦巻いている。そういう思考が見えないのも無理はない。私たちのこの城の中でも、文系理系とかよくわからないわけ方をしていがみ合っているくらいだから、外を見ている歩哨はいないのだろう。だから、気がついたら、地球温暖化なんて起きていないと言い出す人たちがいきなり力を持ったりしてしまうのだ。分断の溝はどこまでも深い。

分断された世界

アクティブに学生の活動をいろいろしていて、SNSを活用していると、世間は狭いなと思う瞬間がたびたび訪れる。友達の友達は友達、つながってる現象。大学を超えて、国を超えて、予測を超えて、びっくりするほどいろいろなところでつながっている。でもこれは、「そういう人たち」のネットワークが所詮とても限られているから起きる現象だ。別に本当に資本家のすごいところの話をしているわけではない。大学生程度だとそういう社会階層は案外重要ではないように見受けられる。そうじゃなくて、日本であっても、他の国であっても、わりと有名な大学に行っていて、勉強をけっこうまじめにしていて、短期でも長期でも留学とかしていて、そしてある種意識の高めの活動をしている。アルバイトはあまりしないで、ただ遊ぶだけのことにかまけていることもなく、もう少し社会的に体裁がいいことをして充実している。そういう人はたくさんいそうで、実は本当に少ない。まずそういう学生が所属する大学というだけでもたぶん全大学生の10%くらいに絞られるだろう。それで、その大学のうちでもさらに5%あるいはもっと少ない割合の学生しかそういうグループには属さないと思う。いまの日本の大学生が280万人くらいだから、これだけで14000人しかいないことになる。そりゃあ狭いわけだ! そしてこういう層は往々にして海外ともつながっていて、海外の学生事情も私の知る限りそう大きくは変わらない(「欧米では大学生は全員まじめに勉強している」とかは幻想だ)から、世界で見てもそう多くはない。

けっきょく、「世の中狭い!」と思うとき、それは自分がいかに閉じたコミュニティにいるかが示されているだけなのだ。一見すると開いているように見える。だって、違う大学どころか違う国の人たちともどんどんつながっているのだから。たしかに、よそと交流のない内輪な遊び系のサークル活動で数十人とだけかかわって、そしてバイト先でまた数十人知っていて、みたいな人よりも、開いている世界にいることは間違いない。でも、どっちにしろけっきょくは閉じているのだ。ただその閉じ方が、単一の組織とか単一の場所に規定されているか、それよりも抽象的な価値観や生き方、そして間接的には生い立ちの環境、あるいは嫌な言い方をすれば社会階層に規定されているかの違いだ。昨日はFacebookでフランスに留学している友人の写真にlikeをつけて、今日は三年前にシアトルで知り合ったシンガポール人が日本に来ているので会って。そんなこと当たり前だと思ってしまう。異国の地でもこうやってつながっていられるのは、もう当たり前のこと。

でも、そうやって世界をつながりが覆ったとき、隣人との関係には分断が横たわっている。同じ大学生でも、こういうことに縁のない人たちはどこまでも遠い存在になってくる。大阪とか京都にいるだけで、東京を中心に発達しているこういう人たちのコミュニティから若干距離ができるのに、他の地方大学だったら、それこそもっと縁がない。そういえば東北大の人とか、この界隈で知り合ったことがあるだろうか? そして、偏差値で大学を分けるのはとてもいやなことだが、でも偏差値が低い大学に行く人からの距離はどういうわけか本当に遠い。まれにはそれでも関わってくる人はいるが、でも本当に少ない。さらに大学に進学しない・できない人からの距離はもう絶望的に遠い。

かつて、地域活動を行うNPOに関わっていたことがある。地域ベースなのでいろいろな大学とか短大の学生、あるいは高校生がいたが、そこではMARCHで圧倒的に「高学歴」(あえて誤用)だった。いま私がいる界隈ではMARCHですら存在感は早慶と比べて極めて薄い。正直、大学の偏差値なんてどうでもいいと思っている。所詮入試の話であって、いまこうやって受験産業が作り出した用語を並べるだけでも寒気がするくらいだ。でも、自分の周りを見渡すと偏差値ですぱっと切れているのが目に付いてしまう。そして高卒で働き始める人がどういう仕事について、どういう将来があるのか、どういうことを考えて日々を生きていくのか、もう想像できなくなってしまった。あのころ、一緒に関わっていたはずなのに。そうやって、日常で道ですれ違う人とですら、どこまでも分断されている。「つながる」ことは、その裏返しでしかない。

人生はチェックリストではない:「何事も経験」というまやかしと、パスする勇気

人生はチェックリストではない。アイテムを獲得、achievement unlocked、ステージ攻略、そういうゲームとは違う。なのに、人生をただチェックを埋めていくことを目的に生きているように見える人がたくさんいるように思う。自分もたぶんその一人だ。一度はあのレストランに行ってみる、一度はバンジージャンプをやってみる、一度は富士山に登っておく、一度はポケモンGOを遊んでおく。だってみんな行ってるから、やってるから、経験しているから。自分だけ取り残されたくない。チェックをいくつ埋められるかを人と競う。そういう生き方をしている人がとても多い。

チェックリストとしてしか人生を歩んでいけないのは、弱さの現われだ。何事も経験してみないとわからない? それはまやかしだ。そうやって次から次へと新手の「経験」をこしらえて、あなたの人生を新しいだけの空虚なイベントで埋め尽くそうとする陰謀だ。繁華街ではしょっちゅう新しい飲食店が開店するし、新しいガジェットは毎週発売されるし、コンビニは新商品に溢れている。そういうものに飛びつくのは、単にビジネスのカモになるという以上に、自らの人生に対する鑑識眼を持たないことを自白している。しかり、限られた数しかない選択肢なら一通り試してみるのもありだ。しかり、若いうち、自分のものの見方を確立するまでの間は手当たり次第に試してみるのもありだ。けれど、いい年になってなお、あっちの新商品、こっちのイベントと西へ東へ踊らされているのは見るに耐えない。それは無限に追加されるチェックリストだ。追いかけていっても終わりがない。そして気づけばあなたの短い人生は終わってしまう!

パスをする勇気を持ちなさい。自分の人生に筋を通せるのは自分だけだ。筋を通すというのは、何をやるかと同じくらい、何をパスするかで決まる。パスをするというのは、可能性を捨てること。可能性の中身すら知らないままに捨てること。でもときには知りえない山札を予想して、あえてパスを決断しなくてはいけない。そうしないと、人生はがらくたでいっぱいになる。

自分の価値基準を持つこと、それが大人の定義だ。ひとつの考え方に固執するとか、視野を狭く持つとか、そういうことではない。ただ、これはいらない、これは切望する、そういう判断を自分の人生という固有の文脈で下すことができること。そのために自分だけの価値基準を持つこと。それが、ひとつの人生の主人公として、人生に責任を持って生きていく道。一回限りの命を与えられた者の使命だ。

私のいない世界

Facebookの友達かもに急に浮上してくる人がいる。プロフィールを見て、共通の友達を見て、「ああ、この人はあの場所であの人たちと出会ったのだな」とひとりごちる。そこにどんな言葉があっただろう。どんな想いがあっただろう。それは私には永遠に関係のないことで、私が出会うことはきっと一生ない。その人の写真も、名前もわかるけれど、その人の声を聞くことはなく、どんな顔で笑い、悲しむのか、なにひとつ知ることはできなくて、相手は私の存在を認識しない。この世界は広くて、私がいなくても人は動き、出会い、別れ、それぞれの道を生きていく。私の世界は、その中のほんの微小な部分に過ぎなくて、私が存在することはニュートリノと同じくらいしか世界に影響を与えない。世界の中心は私ではなくて、人類の圧倒的大多数から見れば、私は単に存在しない。放っておけば知ることのなかった現実が電子の世界で可視化されてしまう。あたりまえで、どうでもいいはずなのに、どうしてかたまらなく哀しい。

英語学習について

煽りタイトルをつけるならば「Be動詞もわからない大人が2年でTOEIC870点を取った英語勉強法」とかなるのだろうが、くだらないからそういうことはしないでおく。ともかく、本当に英語がわからない状況からほとんど独学で勉強したので、やったことや思うことを書く。あと、アフィリエイトとかやりたいわけではないので商品名が出ているところでもリンクはしない。

語彙

たぶん英語力の低い人に一番足らないのは語彙だ。これがないと何もできない。ひたすら覚えること。かつ、音声付きの教材で音と一緒に覚えることは大事だと思う。その条件さえ満たしていればなんでもいいと思うが、私はDuo3.0を使い、復習用CDを繰り返し聴きながら例文全部について冒頭を聞くだけで暗唱できるようになるまでぼそぼそ自分の声を重ねた。なお基礎用CDは買う必要ない。

ここで、私が思うにシャドーイングなるものはゴミだ。端的に難しすぎる。超短期の記憶容量の大きさと高いマルチタスク能力を要求するからだ。合う人には合うのかもしれないが、これは英語学習とは関係の薄い能力だ。

だから私のやり方はもっと単純。単に例文を一つずつ繰り返し再生しながら、はじめは本を見ながらCDの声と重なるタイミングで口ずさみ、数回やったら本を閉じて同じことをする。そして次の例文へ。そのあとで例文いくつかまとめて一気に暗唱(あくまでCDの声とシンクロさせて)。シンクロさせるためには聞いて再現するのではなく覚えていなくてはいけない。これを繰り返し、直後、数分後、数十分後、そして翌日とだんだん記憶の期間を長くすることができる。

とりあえずこれだけで死ぬほど疲れる。もし疲れないなら漫然とやりすぎだろう。でもひたすらこれをやるのは大事だ。あまり一日にたくさんやりすぎても混乱して効率が悪いが、少ないのもまた効率が悪いと思う。語彙は数ヶ月間とか時期を決めて集中的に詰め込む期間がないと、いつまでたっても身につかない。ここは一番楽しくないが、とにかく毎日、そして一日に何度も、しっかり覚えること。

ちなみに、単語の綴りを覚えるには、少し変化球だがタイピングソフトがおすすめだ。typewellの英単語バージョンなどでタッチタイプを練習すると単語をイメージすると指が動くようになる。これで綴りに自信がなくなったら頭の中に単語とキーボードを思い浮かべれば解決するようになる。ついでにタイピングも速くなって一石二鳥だ。

もしもう少しお金をかけるつもりがあるなら、iKnowというオンラインサービスは非常に優秀だ。忘却曲線を考慮して問題を出してくれるし、例文や音声がついた問題になっている。ただ、綴りを問う問題ははじめのうちは難しすぎてやる気がうせるので出題しない設定にしたほうがよい。

文法

これはなんでもいい。中学、高校レベルの好きな文法の参考書を読み、問題集を解いて、間違えた問題は繰り返して、完全に正答できるようにすること。ちゃんと定着させるのが大事だ。知識量としてはそれほど多くないので、混乱しやすいところに慣れてくれさえすれば平気だろう。受験標準レベルの文法をちゃんと理解していれば英語学習者の文法レベルとしては十分だ。とはいえ文法の軽視はしないこと。受験するわけではなくてもこのレベルまでは文法を押さえておかないと、この先で論文などのちゃんとした文章の読み書きをする基礎力が不足する。そのときになってから文法を再度勉強する気にならない人が多いようなので(もちろん必要ならやるべきだが!)、早めに身につけておくこと。「5文型なんて日本でしか教わらない」とかいう言説はただのうそなので惑わされないこと。

作文

ちゃんとした作文は中高レベルの問題集で適当なものをやればよい。ただ、受験を目的としないなら型にはまった作文は重要でないのでたくさんやる必要はないと思う。その先はネットでやり取りするサービスがいろいろあるので、そこで日本に興味があるが日本語はできない人(日本語ができる人でもいいが、その場合はちゃんと半々で英語でも相手してくれる人にすること)を見つけるのがよい。これがなんだかんだ一番モチベーションになる。あと、紙の手紙で文通しようとするとめんどうで絶対に続かなくなるのでやめること。チャットだとはじめはペースについていけないのでメールやメッセージくらいがちょうどいい。そして話題がなくならないように趣味などが一致するのが望ましい。アニメ、マンガ関係が鉄板だ。そしてそれでもなかなか続かない相手が多いので、一人だけにしぼるよりも手数を多くしてたくさんの相手に同時並行でやったほうがよい。

リスニング

上記のように音で単語を覚えていれば土台はできると思う。それでもリスニングのボトルネックは二つある。

  1. 単純に音が拾えない
  2. 音は拾えているが頭の中での英語の解釈速度が追いつかない

前者は一筋縄ではいかない。なるべくスクリプトのある音源を聞くのが一番だと思う。TEDでもいいし、もっと遅いほうがよければVOAあたりになるだろう。スクリプトを常に見ていると音を聞くのが雑になるので、わからないときにだけ確認すること。ただ、楽しくないと続かないので、多少難しくてスクリプトなしでもyoutubeで自分の興味のある動画なんかを探すのもよいと思う。

後者の問題はひたすら英語にふれる量を増やすしかない。これは別にリスニングでなくてもよくて、本を読むのでも効果はあると感じる。例えば私はハリーポッターシリーズを通読した。なるべく語彙的に無理のない本を選ぶのがよい。ただ、最初は多少難しく感じてもページが進んで物語の中に入り込んでいくと案外読めたりもする。だから読み始めで挫折しないのが大切だ。まあ、日本語でざっと登場人物などを押さえておいてもよい。リーディングはとにかく量なので、ハードルを下げるように心がけること。

リーディング

上記のように本を読むのが主体でよいが、一応精読もしたほうがよいかもしれない。リーディングの問題集を適当にやればよいだろう。ただ、ここは普段から言語を問わずちゃんと文章を読んでいるかの勝負のような気もする。私はここでは特に苦労した記憶はない。

その先

このくらいをちゃんとやればTOEIC800点は超えられるだろう。ただ、TOEICなんてしょうもない試験なので、長期的に目標にするものではない。もっと実用的な英語、あるいは試験で言えばTOEFL iBTあたりをちゃんとできるようになるためには、語彙がもっと必要だし、構文解釈の力ももう少しほしい。さらに聞いて話す力も鍛えなくてはならない。しかしこの先は私は独学でない部分が大きいのでここでは扱わないことにする。

人生と飛び石渡り

人生は、飛び石を渡っていくようなものだと思う。ある石からある石へ、いくつかの居場所、人間関係、やること、ないしは価値観を持ちながら、順々に渡り歩いていく。

そこで大切になるのは、「自分の体重に気づき、自覚的に体重を乗せる」ということ。どこかに足を置き、そこに体重を乗せているタイミングがある。あるいはそこから体重を抜いて軸足を入れ替えているタイミングがある。誰でも自分の足がどこにあるあるかはわかっている。でも、どこにどのくらい荷重をかけているのかはついつい忘れてしまう。それを自覚的にコントロールすることが、とても大切だ。

どこに足を置くかはよく考えないといけない。間違ったところに置いたら落っこちてしまう。いきなり乗るよりは、そっと体重をかけてみてから重心移動をしたほうがいい。でも時には次の石が遠くて、一思いに飛び移らなくてはいけない。そういうときは自分の見立てを信じて飛ぶしかない。

そう、信じること。石を信じてあげて、体重を預けることが大事なのだ。

過去に留まって、先に進めなくなっている人がいる。どの石に進もうとも転ぶ未来が見えてしまって、足がすくんでしまっている。過ぎてしまったことを美化して、それと異なるものに文句をつけ、その間に足元の過去という石はずぶずぶと沈み始めていることに気がつかない。二つとして同じ石はないことを受け入れなくてはいけない。形が違う石に、自分の足を合わせないといけない。だって、人生では、どの石も乗った瞬間からゆっくりと沈み始めるから。だから次の石を見つけて、勇気を持って体重を乗せてやらなくてはいけない。

あるいは反対に、どこにも体重を乗せないで、石から石へと目まぐるしく渡り歩いている人がいる。きっと、そういう人には二つの種類がいるだろう。すべてに不満な人と、すべてに惹かれて目移りしてしまう人だ。

どの石にも納得できない気持ちはわかる。どの石にもリスクはある。すっかり好きになれる人間関係はないし、将来の不安のないキャリアもないし、めんどくさい面がない趣味もない。だからどこにも属さない者になるためにひょいひょいと飛び移り続けたくなる。けれど、それでもどこかにちゃんとコミットするべきだ。運命の人、運命の職業、運命の住処、そういうものは存在しない。間違った選択はある。飛び移るべきでない石はある。だから感覚を研ぎ澄ませて見極めなくてはいけない。だからといって100点満点の石を探す態度は、自分の人生への責任放棄だ。自分の人生を外部に依存させている。あなたの人生は、他者がすべてを規定するものではない。むしろあなたが他者といかに関わるかによって規定されるのだ。どの石があなたを幸せにするかじゃなくて、あなたがいかに自分を幸せにするかを考えなくてはいけない。だから、ちゃんと自分で決断して、自分の体重を乗せるのだ。

あるいは全部が魅力的な気持ちもわかる。だから全部を試してみたくて、それであっちへこっちへ渡り歩きたくなる。でも、それではなにもほんとうに経験することはできないのだ。ちゃんとそこに体重を預けてみて、自分の存在をしっかりその石に乗せることで、はじめて石と対話することができるのだ。こちらから信頼してやらないと、こちらから自分の時間と人生をコミットする意思を見せないと、他人も、コミュニティも、ほんとうの意味で受け入れてくれることはない。すぐに裏切りますよ、すぐによそに行きますよ、あなたは私にとって取るに足らない一人なんですよ、だって私には他にもたくさんの人がいるからね。そんな態度は舐めすぎだ。コミットメントなしに、リターンを求めてはいけない。

いま、あなたはどこに体重を乗せているか?

空気を読まないこと

日本人は協調性を重視し、周りの様子をうかがいながら目立たないように行動するとよく言われる。と、ここで比較文化の話をしたいわけではない。程度は同じではないかもしれないが「空気を読む」のは人間に共通する性質だろう。

集団から逸脱して空気を読まずに行動するのは危険だ。ほとんどの場合、それは「空気を読む能力に欠ける」サインとして解釈される。社会的に戦力外通告に等しいものだ。頭がおかしい人、その場にいる資格がない人。そういうレッテルは強力で、人間扱いされないということとあまり変わらない。強引に進化心理学的な説明をするのなら、群れの空気を読めず、秩序を乱す存在は群れ全体への脅威ゆえ追放されるということになるのかもしれない。周りがみな息を潜めて天敵をやり過ごそうとしている「空気」を察せず、不用意に音を立ててしまう個体は速やかに排除される必要がある。こういうシナリオが人間の心理的作用を形作る上で実効的に働いたかは定かではないが、ひとつの筋書きとしてはもっともらしい。

しかし、逸脱はまったく逆方向にも作用しうる。「空気を読めない」ではなく「空気を読まない、読む必要がない」というメッセージは強さの証になる。カリスマ性の重要な条件の一つは他人がためらうことを真っ先にできることだ。それによって浮いてしまうことを恐れる必要がないほど自信に満ちたリーダーに人は魅了される。

では、この明暗の分かれ道はどこにあるのだろう?

たぶん一番大きいのは、「強さ」のサインを出しているかという身も蓋もない基準だろう。単純に体格が優れ、筋肉質であること、長身であること、容姿がよいこと。必ずしも純粋な格闘能力でなくても、生存競争と性選択の勝者であることを示すサイン。そういうものを持っていれば、逸脱した行動は強さだと解釈される。もちろん、逆もしかり。だから空気を読まないのはまさに「※ただしイケメンに限る」という専売特許なのだ。そこまでいかなくても、せめて「まともそう」な雰囲気を出すことが必要だ。行動や服装のある一点では空気を読んでいなかったとしても、ほかの点では風貌や振る舞いがまともっぽいことが必要だ。変にきょどっていたり、動きに落ち着きがなかったりと強者らしからぬ面を見せてしまったら、あとは空気を読まなければ読まないほどおかしなやつに転落していくしかない。

ただ、この「強さのサイン」はもう少し込み入っている。文脈によっては変わってくるからだ。たとえばスポーツでも音楽でもなんでもよいが、そういうことをする集団の中では、技巧がきわめて大きな強さの指標になるだろう。世間一般の文脈ではただのおかしな人になるところ、その集団では技術ゆえに尊敬され、逸脱した振る舞いも許容されるどころか、そういう振る舞いをすることによって技術的に卓越している事実を見せつけることになる。これは微妙なバランスだ。見せつけることによってしか確認されない卓越性はたいしたことないとも言えるかもしれないが、しかしそんなに飛び抜けて秀でることは通常ないわけで、少々の差でもアピールすることで集団の力学を操らなければならないのだろう1

閑話休題、もうひとつの明暗の分かれ道は、その行動が「理解できる」ものであることだろう。まったく意味不明なことをしているのではなくて、みんなやりたかったけどできないこと、あるいはその人の一貫した趣味嗜好を貫き通すといった、やりたい動機が理解できることであれば空気を読まなくても大丈夫だ。あえて恥をかきにいける。でもそれは、そうしたらかえってかっこいいとわかっているから。わかっててピエロをしにいく、あるいは単に楽しいことをしにいく。そういうのはけっきょく、リターンのためにリスクを取るということ。だから、リターンが理解できる場合はしっくりくる。たとえば、いつだか建物の廊下でローラーボードに乗っているやつがいた。普通の感覚だったら迷惑だし、そんなことやらないだろう。でも、楽しそうなことは間違いない。行動を縛っているもろもろのしがらみを取り去ってみれば、真っ直ぐで平らな廊下があって、ローラーボードを持っていたら、そこで遊ぶのが一番自然な行動かもしれないな、ということにはじめて気付かされた。それでもやっぱり感心はしない行動だが、そうやって自由に振る舞って、ほんとうはだれだってやりたいはずのことをしているのは端的にうらやましい。ローラーボードはしないにしても、見習うべきところは多いと思う。

たぶん日本の社会は、こうやって逸脱した行動を取ることへの寛容度合いが低い社会だ。それは日本だけではないかもしれない。それでも、もう少し規範性がゆるい社会も少なからずあるだろう。だから空気を読まないと疎まれていろいろな不利益を被ることもあるかもしれない。ただ、逆にそれはこういう行動を取るライバルが少ないというチャンスでもあるように思う。それこそ「日本的な」まめに機嫌を取るような行動とうまいこと組み合わせてリスクを軽減すれば、リターンは大きいはずだ。というのは、ほかにそうやって逸脱する競争相手がいないから、逸脱することによる利益をぜんぶ持っていけるからだ。ふつう人がしない交渉ごと、頼みごとをしてみる、ちょっと無茶かもしれない要求をしてみる、わからないときに積極的に質問してみる。だめなら引き下がればいい。無理に押し通す必要はない。ただ、不満があるときにだまってがまんしないで一歩踏み込んでみることは大事だと思う。ときにうまくいかないことがあったとしても、きっと得るもののほうが多い。


  1. けっきょくのところ、組織におけるモラハラはこういう集団の力学、リーダーが地位を脅かされないためには力を誇示し続ける必要があるという構造によって生じる部分が大きいのではないかと思う。個人が最初からモラハラ気質を持っている場合ももちろんあるだろうが、組織から離れれば家庭では優しい親なのに、といった事例はまさに組織の構造がリーダーをしてモラハラをさせていることの証拠なのではないだろうか。もちろん、モラハラを正当化したいわけではない。