年齢を重ねること(1):おっさんになるのがこわい

わたしは恐れている、いずれおっさんになってしまうことを。きっときもくて使えないおっさんになって、時代遅れの考え方で若い人から白い目で見られることを。まだ若いと信じているうちに、外から見たらもうおっさんになることを。

わたしはしばしば、おっさんをうっとうしく思っている。明確なセクハラはしないにしても、考え方が保守的でしばしば反感を覚える。持っている知識やスキルは時代遅れで、使い物にならない。昔話はつまらないし、そんな過去にしがみつくようにはなりたくない。

好感の持てるおっさんは稀だ。みんなそんなばかでもないはずだし、若いうちはきっといい感じの青年だったのだろう。なのに、ただ年齢を重ねるだけで、ほとんどがつまらないおっさんになってしまう。ということは、わたしも高い確率でそんなおっさんになってしまう。その結論がたまらなく憂鬱にさせる。

だからわたしは危機感を持っている。わたしたちの世代、いまの世代も、やっぱり数十年前の世代と同様にきもいおっさんたちになっていくんだってことに。団塊の世代がどうだとか言うけど、でもだいたいは普遍的でしょう。きもくて、うっとうしくて、短気で、空っぽで、それでいて若さをあきらめられない、そんなおっさんになってしまう。


現代社会は、おっさんにきびしい社会になってきていると思う。技術革新の速度は指数関数的に加速し、あっという間に過去の知識が使い物にならなくなってきている。年の功は、もう役に立たない。新卒の若者、場合によっては中学生くらいでも、先端技術に優れていればおっさんよりも使い物になる時代だ。過去の経験は新しい状況への判断を誤らせる。むしろ、何も知らないでいちから情報収集した方が良い判断ができるのではないか。年寄りは使い物にならないという考え方をagismと名付けて糾弾するのはけっこうだけれど、本当のことだから何を言っても変わるはずがない。

技術だけじゃなく、社会のあり方もどんどん変わるようになってきている。情報の流通速度が飛躍的に速まり、それとともに国境を超えて、海を渡って新しい考え方が入ってきている。近いうちに言語の壁だってなくなるだろう。そうすると、人間関係、家族、仕事と余暇、雇用関係の結び方、いろいろなものがどんどん進歩していくようになる。今だってそうなってきていて、古くさいジェンダーロールみたいなものはだいぶ弱まってきた。それについていけてないのはおっさんたちだ。それで時代錯誤な発言をしてしまう。失言をしようと狙っているわけではないのだ。単に、20年前と同じことを言っただけなのだ。だけど、それは今は言ってはいけないことだ。わたしは年齢を重ねながら、ますます加速するその変化についていけるだろうか。

そういうセクハラとかしてしまうおっさんの影を、今の若者にも見ることができる。全員20代30代みたいなITベンチャーとか、みんな友達みたいな関係で、私生活を混ぜるのが当たり前のカルチャーではないか。あれは若いから許される。大学のサークルだったら酒を人に押し付けてもパワハラ案件にならないのと同じ。それを企業でも続けている。みんな若いからそれでも構わない。だけど、同じことを20年続けていたらハラスメントで訴えられかねない。ああいう人たちは危ういと思う。


Twitterを見ていると、気持ち悪いおっさんがたくさんいる。ミスコンのツイートへのリプライを見るのが、地獄への最短経路。歳をとっても性欲から解放されない人間の成れの果てが転がっている。『国家』でプラトンは老年になると人を支配する欲望という暴君が鳴りを潜め、やっと自由になれるから老年はよいものだと言っていた。じゃあこの光景はなんだ。プラトンはとんでもない嘘つきだ。

この観察からわかるように、おっさんは性欲から解放されないが、しかしその性欲はタブーだ。あまりに救いがない。

歳の差というのは、最後のタブー、最後のひとつになるほど、他のすべてに取って代わるほど、強力な最後の一線だ。 − ミシェル・ウェルベックある島の可能性

特に日本、あるいは東アジアの儒教圏には、年齢差があると友達ではないという意識があると思う。たった一年ずれるだけで、もう先輩後輩の関係になってしまう。だから、少し年齢が違う相手と仲良く接するという経験を積むチャンスがない。その歳の差の壁がSNSなどで破れたとき、あまりに不慣れで気持ちが悪いコミュニケーションをはかってしまう。

そしておっさんは、自分がおっさんだという自覚がないのだ。それもそうだ。時間の流れは体感的にはどんどん速くなるらしいから。きっと35歳くらいのつもりでもう50歳とかになっているのだろう。だからかなり意図的にライフステージを先取りして、もっと上の年齢のように振る舞わないと、年齢相当の振る舞いはできないのだ。だけどそれって悲しいことだ。意図的にどんどん若さを捨てていかないといけないということだから。若さを保ちながら、尊敬できるおっさんになるにはどうしたらいいのか?


老害という言葉は好きではない。でも、言いたい気持ちはとてもわかってしまう。けっきょく、おっさんのさまざまな弊害に対して、何もおっさんの強みが見出せないのだ。いったい、若い人にできない何ができるというのだ? どうしたら、魅力的なおっさんになれるのか?

仕事をがんばれば中身のある円熟したおっさんになれるというのは間違いだ。反例は挙げるまでもなくたくさん見つかるだろう。仕事をたくさんしてきて、けっきょく何も中身が詰まっていない薄っぺらいおっさんがいかに多いことか。

じゃあ単調な仕事じゃなくていろいろユニークな経験を重ねればいいのかというと、それも間違いだ。おっさんの武勇伝聴いたことあるでしょう。うんざりしたことあるでしょう。けっきょく、珍しい経験やすごい経験をしていても、それじゃあ豊かなおっさんにはなれないのだよ。

けっきょくのところ、何をやろうが歳をとるとどんどん後ろ向きになってしまう。未来が先細りしていくから、そのぶん過去にすがらないと、自我を維持できないのだろう。だんだん自分が時代遅れになってきて、使えない存在になってきたとき、過去の思い出に浸って自尊心を保つのは、必要な防衛反応だろう。歳をとると、みんな後ろ向きになる。それは好き好んでやっているわけではなくて、そうせざるを得ないから。

むしろ、キャリアなんてつまない方がいいのかもしれない。5年とか10年にいっぺん、キャリアをまるっきり切り替えて、新しいことをはじめて、若い人に教えを請うべきなのかもしれない。そうしたら、いつまでも未熟者という気持ちでいられて、老害にならないですむのかもしれない。

人は木のよう、と言えるかもしれない。木々が集まって森ができるけど、ときにはあえて去らないと、そこに次の苗木は育たない。だから、いつまでも同じ場所に留まったら老害になってしまう。

でもけっきょくは、老害になるのはもう避けられないんじゃないかと思ったりもする。もう、むりだよ。しょうがない。受け入れるしかない。逆にそれを防ごうとするあまり必死になるほうが、かえって見苦しいかもしれないし、そもそも老害になるかどうかとかをやたらと気にするのはもうやめたほうがいいんじゃないだろうか。

やっぱり、おっさんになるのがこわい。

セカイはシステムでできている

この世界は、誰か個人とか、あるいはあるグループの意思で動いているわけではない、というのが最近の持論だ。この世界は、システムでできている。それは、実効的にコントロールする支配者を持たない。それは社会全員の意思の総体ではない。もっと超越的で、誰もコントロールなんてできていない。

戦争が起きるのも、金融危機が起きるのも。独裁者の専制だって、すべてシステムの歯車が噛み合った結果だ。個人をすげ替えても、何も変わらない。その一人を始末しても無駄だ。そもそも、独裁者は決して「独裁」なんてしていない。例えば軍部を手厚く遇して機嫌を取らないと、すぐにクーデターで吊られてしまう。その軍部にしたって、内部での力のせめぎ合いがある。構成員一人ひとりの思惑、欲望、生存上の要請、それらが織りなす制約の網。誰一人、状況を実効的にコントロールできてはいない。

だからもちろん、トランプが、安倍が、とかナンセンスでしかない。あるいは差別だって、誰一人そうしようとしているわけではない。構造が、人をして差別をさせているのだ。あなたが差別をしていないのは、たまたまあなたに差別をさせる力が働いていないから。人は単に、斜面の低い方に転がるボールのような存在。その動きを見てあれこれ言うのではなくて、地面の凸凹を作っている力に目を向ける必要がある。それは、要素の総和を超えた複雑系としてのシステム。システムは個人の感情の総体によって動いているわけではない。感情がシステムに作られている。

生命現象なんてその極みでしょう。アリの巣はどうやって成り立っているか? 何らかの意思があるか? 全体をまとめる司令部はないのに、ごくごく単純なシグナルによるコミュニケーションを通じて、総体としてきわめて複雑な機能を実現し、生存している。人間社会もそれと同じ。どうせ、人が何を思っても、たいして他人には通じていない。三色の信号機でも頭につけておけば、それで十分なんじゃないだろうか。

なのになんで人は、人間社会は自由意志によって駆動されていると思い込んでしまうのだろうか。それはもしかしたら、人に名前をつけたことによる過ちなのかもしれない。だから、個人を単位として扱ってしまう。本当は恣意的なものにすぎないかもしれないのに。数人の繋がりをひとかたまりにしてもいいはずだ。あるいは誰々の口が、誰々の心臓が、誰々の満腹の胃が、とか器官単位で見てもいい。はたまた誰々の腸内細菌のこの部分が、とか言ったっていいのだ。なのに、なぜか「個人」が絶対的になり、個人の自由意志という神話がなぜか本当のことだとされている。

もしかしたら、私たちは『ハイペリオン』(サイモン・シン)に出てくるビクラ族のように生きるべきだったのかもしれない。彼らには、個々人の名前がない。名前がなければ、個人という単位に原因を帰すことができない。アリの集団には個体の名前をつけないから、もう少しフェアに見ることができている気がする。

システムの力には抗えないから、自分の意思で社会のあり方を変えようとしても無駄だ。政治、経済、宗教、教育、全体主義、戦争、差別、流行……。その他なんでもいい。つねに変容していくものではあるが、そこに影響を及ぼすことはできない。だいたい、他の人だってばかではないのだから問題くらい分かっている。それで変えようとして、人生を捧げて、でも何も変わってないのだ。システムの力学は、人の意思を超越している。

変えられない理由は、表出する力は、よそで大きな力が働いた結果だからだ。関係ないところでよりたくさんの人が押しているところと、あなたの問題が出っ張ってくるところは、水面下でつながっている。関係ないと思っていた人の欲望とか、あるいは善意とかが、結果としてそこに集中している。だから、正面から押さえ込もうとしても上手く行くはずがない。せめてうまく行くとしたら、そういう隠れた力の構造を暴き、その働く方向をそらしてやることしかない。

特に長く存続しているシステムの中には、自己保存に長けたものがある。それは進化の産物だ。ミームと呼んでもいい。そういうものは、厳しい生存競争を経た選りすぐりの生き残りだ。そんなものと勝負したら、人間の一生くらい簡単に吹き飛ばされてしまう。

今日はこれくらいにしておくことにしよう。思ったよりも衒学的になってしまった。

書くことは病んでいるしるし

ブログを始めて数ヶ月が過ぎた。これまでもSNSなどにまとまった文章を投稿することはあったが、こんなにいろいろな話題について思うままに書くことができる気楽さはリアルの人間関係から切り離したブログの媒体ゆえのものだ。こんなに楽しいとは思わなかった。

ところが、最近奇妙に思うことがある。知人にブログに使うネタを部分的に話してみたり、あるいは原稿を見せたり1しても、たいして反応がないのだ。そして、こんなにたくさん文章を書いていると言うとだいたい驚かれる。なのに同時に、ブログ界隈ではもっとたくさん書く人達がいくらでもいる。考えも豊かだし、文章が魅力にあふれていてすばらしいなと思う。それはなにも有名ブロガーに限った話ではない。読者数が一桁二桁くらいのブログでも、宝石のように輝く文章をたくさん見ている。はたしてこのギャップは何なのだろうか。どうしてリアルで遭遇する世の中の人は案外文章を書かないのだろうか。

そう思いながら今日もいろいろな人のブログを見ていると、ふと気がついた。私が気に入っているブログはほとんどすべて、何らかの意味で「病んで」いるか、そうでなくても社会の「ふつう」なレールから逸脱した人達によって綴られていることに。そういうブログにだけ、不思議な魅力を感じるのだ。そういうブログだけが、自己の内面に目を向け、世の中を自らの経験に基づいて考え、その人なりの言葉によって生み出された文章でできているのだ。そういうブログだけが、本当に書きたい衝動に駆られて書かれているのだ2

そうなのだ。わかってしまった。ふつうの人は、書かないのだ。己の生い立ちや内心を何千何万もの文字に刻んで吐露するなんてことはしないのだ。ふつうの人は、書くとしても内容の薄っぺらいものだけだ。ふつうの人は、どこかで誰かが書いていたことをストックフォトとアフィリエイトと大量の改行とともに焼き直して、アクセスを稼いで広告収入を得ることくらいにしか興味がないのだ。対してどうだろう、内省的なブログは文字がびっしりと詰まっていて、引用もリンクもほとんどない。そう、こっちが私のいる世界。

そもそも、世界との不協和があってこそ書くことができるのだ。世界に溶け込めているなら、書く必要がない。書くことがない。

文章を書く人は、自己の内面世界と外部の世界の間に差異を抱えているのだ。例えてみるなら細胞膜によって隔てられていて、その内外で濃度が均一でないのだ。だから、内部から発信する必要がある。もちろん発信したって世の中は別に変わってくれるわけじゃないから、問題が解決するわけではない。ずっと膜にかかる圧力に耐え続けなければならない人生。

そしてまさにその差異によって、人々は社会から異常者とみなされる。差異ある者は狂気を持つ者であると定義され、精神医学によって作り出された病名3がつけられる。圧力は、このようにして作用するのだ。

世の中でうまくいっている人は、内と外でのずれが小さい。だから、溶媒である社会に溶け込むのに苦労がない。そのとき個人は切れ目のない存在として社会と一体をなし、社会は個人に内在する。文章を書くまでもなく、テレパシーを使うでもなく、何もしなくてもおおむね均質であるから、はなから通じ合っているのと同じことだ。均質であるから、自己の存在を規定する膜を意識する必要がない。膜に圧力がかからないから。そこに言葉はいらない。いや、言葉を使いはするが、しかし言葉が綴る意味を伝達することを目的としてはいない。差異を説明することが目的の言葉ではなく、同質性を確認することが目的の言葉。それがノリとか言われるものだろう。

それはどんなに生きやすいことだろう。そもそも、自己と他者の意味合いが変わってくるのかもしれない。自己の内外を厳格に峻別する必要がないから。人と人が部分的にせよ溶け合ったような自我を形成できる。だから彼らはあんなにも共感性を求めるのだろう。だから彼らは、卒業などで仲間のもとを離れるときにあんなに涙を流し、手厚く送り出し、その後もつながっていようとするのだろう。私は共同体に属している間はけっこうその場所を大事に思えるが、離れるとすぐに冷めるタイプだ。そのこともこれで説明がつく気がする。膜でしっかり分けて、自分を形成するコンポーネントは確保しているから、離れてもやっていけてしまうのだ。ある意味ではいいことかもしれない。どこにいってもやっていけるから。

文章を書く人間の性質は、他の創作物にも共通するのだろうか。音楽や絵画、あるいは彫刻。私の経験上、写真はわりと方向性が違うように思う。(一般的な写実的な)写真は被写体を表現することが第一であって、そこに撮影者の技量が入り込みはするが、それでも撮影者はどちらかというと黒子として振る舞う。文章は(少なくとも随筆については)写真とは反対に、文字によって描き出す客体より、描く著者そのものに焦点が当たる傾向が強い。絵はもう少し文章に近いかもしれない。


  1. このブログそのものがバレることはないように注意しているつもりだが、もし発見していたらぜひ直接連絡してほしい。怒らないから。

  2. ショーペンハウエル『著作と文体』の二つあるいは三つの著者のタイプに関するくだりを思い起こさせる。

  3. ここでは精神医学の学術的知見を否定的に扱うつもりはないが、しかしその社会的意義として一面では異常者をわかりやすくラベリングする方向に用いられたことが現在、あるいは少なくともかつてあったことは間違いないだろう。

教養とは何か

今朝シャワーを浴びながら、教養とは何だろうと考えていた。その結果、教養とは次の3つで考えればいいのではないかという考えに達した。例によって先行研究は特に当たってなくて、今までどこかで見聞きしたことと自分で考えたことをごたまぜにして書くが、まあ日記なのでいいとしよう。

1. 役に立たないことに意義がある教養

いきなり何を言っているのかと思うかもしれないが、伝統的な意味での「知識人の教養」というものは、役に立たないその一点において逆説的に価値が生じているものではないだろうか。それこそが貴族階級と労働階級を分け隔てる最大の違いだからだ。役に立つこと、例えば数学がけっしてこの意味での「教養」において重要な位置を占めないのは、それが役に立つからであり、ゆえに労働階級がそれを現に学び活用しているからだ。他方、哲学や文学はそれが役に立たないゆえに日々の糧となる実学を志向する労働階級には手が届かない贅沢品であり、だからこそ富を持ち、労働に追われずに余暇を楽しめる貴族としての地位を示すシグナルとして機能するのだ。

この教養は細分すると2種類に分けられる。教養として定められる知識の内容そのものは同じだが、それを披露する対象が異なる。

1-1. 「内輪」シグナルとしての教養

おそらくもっとも素直に理解しやすいのが、相手と知的に同レベルにあることを示すための道具としての教養だ。ある種の「上流社会」においては、特に西洋の古典や近現代の思想・文学・芸術に通じていることがメンバーシップの条件であることがある。それを持つものは「内輪」としてその階級にあることが認められるのに対し、持たなければ庶民であって、よそ者であるとされる。例えばシェイクスピアのセリフをもじったジョークを誰かが飛ばしたときに、周りが笑っているのに自分だけ何もわからないで固まっていたら、その場に属せていないことは明白だ。

こういった、人間集団を形成するためのコードとして特定の知識を要求し、その有無によって内外を峻別することは別にこういった「教養」のある上流階級に限定されるものではない。例えばオタクコミュニティにおいては、最近の、あるいはしばらく昔のアニメのセリフを知っていることが相当するコードであり、それを持つものはメンバーシップを認められる。あるいはヤンキー的コミュニティにおいては、ギャンブルの話とか、風俗の話とかが通じることが条件であろう。けっきょくのところ、どんな集団でもこういったコードは存在するのだろう。ただ、上述のように伝統的な貴族的階級が差異化のためにコードとするのは彼らしか習得できない類の知識であり、それが「教養」と呼ばれるようになっただけの話だ。

1-2. ハッタリ、マウンティングとしての教養

上で挙げた教養は相手が知的に同程度にあることを前提としていたが、ここからスピンオフすると思われるのが、相手よりも自分が格上であることを示すための教養。いわゆる「教養のある人」的なしゃべりを大衆に向けてする人が持っているところの教養だ。偉い人、学識のある人、国のリーダー、そういう人々がスピーチをするときに、古今東西の賢人の言葉を引用して語る。これは簡単に言えばハッタリのための教養、あるいはマウンティングのための教養だ。虎の威を借る狐という言い方をしてもいいかもしれない。それほど「高尚な」知識を持たない大衆を相手にして、自分が余裕のある貴族階級に属していることを示すと当時に、自分が知識人であり引用するような過去の偉大な人物に近い存在であることを示すことにより、自己の権威を増大させる。このような教養は、力を持つ立場にある人間には必要なものだろう。そうでないと舐められてしまう。

ここまで見てきた「教養」は日本の近代化の歴史の中で、西洋貴族階級への憧憬とともに見出されてきた教養の定義ないしは性質であるように思う。これらは、良いとか悪いとかいう問題ではなく、たしかに必要な教養だと思う。ただ、そのことに本当に価値があるのだろうか。単に偶発的な現象として価値があるように見られるようになって社会が固定されただけで、少しばかり初期値を動かしただけで1まったく別の種類の知識が教養とされる帰結になっていたのではないだろうか。

けっきょく、歴史上の偉人だって、その歴史を作り上げてきた人々が代々がそう考えてきたから偉人とみなされている。ソクラテスなんてただの変質者として忘れ去られてもいいのだ。ただ、力を持った階級が偉人だとみなし続けてきたから、そう信じ込まれているだけだ。"1984"でGeorge Owellはいいところを突いている。

Those who control the present, control the past and those who control the past control the future. だからきっと、オタクが世界の覇権を握ったら、古今東西(?)のオタクコンテンツの中の名作が世界の偉大な精神による偉大な創作物であり、世界の歴史を形作ってきたという解釈が語られるだろう。荒唐無稽なのはわかっているが、ここで言いたいのは現実もこれと同程度のものだということだ。

次に、少し違う観点から現代によく言われる教養の定義を見てみることにする。

2. 役に立つことに意義のある教養

最近になってときどき教養教育を持ち上げるような記事を見ることがある。だいたいうさんくさい経済誌にうさんくさい人が書いているものだ。教養、というよりはリベラルアーツ教育の価値として挙げられることが多いかもしれないが、ここでは区別しないこととする。

さて、その教養というのはプラクティカルに役立つ汎用的ソフトスキルとしての教養だ。批判的に思考することができる。いろいろな考えを持つ人とチームで協働することができる。プレゼンテーション・コミュニケーション能力に長ける。学ぶスキルが高く、将来にわたって新しいことを学んでいくことができる。特定の専門に閉じた知識にならず、融合的な知を獲得している。問題解決能力に優れる。それらの結果として、イノベーションを起こすことができる。だから日本に必要なものはこれだ、そしてアメリカが強いのはこういう教育をしているからだ。そんな話をよく耳にする。

しかしこれは教養の定義としては安易に過ぎるのではないだろうか。要するに役に立つスキルを身につけろと言っているだけなのだ。でもそれだったら、いくらでも代替の方法があるだろう。例えばエンジニアリングをしっかり習得すれば同じことができるのではないか。何かを作るためには新しい知識を基礎的なところからしっかり学ぶことが必要で、それによって自分の持っていない知識にアクセスして習得するというスキルが身につけられる。そして学んだ知識を統合し、活用し、さらにチームとして成果物を生み出すには、知の融合、コミュニケーション能力、問題解決が必要だろう。そして社会の需要を探り、社会に成果物を売り込む必要もあるから、プレゼンテーションやイノベーションにつながる能力も涵養されるだろう。さて、ここで教養とはなんだったのだろうか? 別にエンジニアリングに限らない。実学的な学びをして、プロジェクトを回していけば同じだろう。教養とは、そうやってビジネス上のサイクルをリーダーシップを取って回していけるスキルなのか? だとしたら、うまくいった実業家は定義より教養人であるということになるのか? それはいささか不自然な解釈に思われる。

3. 人間性向上のための教養

最後に挙げる教養は、自己は何者であるか、他者は何者であるか。そして世界はどうやってできているのか、正義とは何か、善くあるとはどういうことか。そういう問いを立て、いろいろな観点から考えられるようになるための教養だ。こういう言い方をすると哲学っぽくなるし、実際哲学や文学が占める領域は大きいだろう。しかし、決してそれが全てではない。現代においては自然科学、数学、情報科学といった分野なしに世界を理解することはできないし、生物である我々自身を理解することもできない。同時に、経済学は資本主義社会を捉える上で必須であるし、行動経済学や心理学から人間行動を知ることも欠かせない。

もう少し具体的に描写するために、聞きかじって感心した話を書いてみることにする。中世ヨーロッパでの高等教育カリキュラムではヘブライ語が占める時間数が大きかったのだという。それは、世界は旧約聖書に書かれたようにあるとの考えが支配的で、だからこそ旧約聖書の原典を読むためのヘブライ語教育が必要だったのだ。しかし、数世紀が過ぎてその時間はほとんど数学に置き換えられた。それは、啓蒙思想の普及とともに世界を理解する方法として数学の方が中心的な立場を占めるようになったからだ。これがまさにここで言いたい教養の意味合いだ。

こういった教養は、別に身につけることが金になるからやっているわけではない。ただ、人間としてよく生きるために知るべきものだからだ。それは、人間として生きるということは理性的に生きるということであるという心情に基づいている。

どの教養に本当に価値があるのか

ここまで三種類の教養を見てくると、それぞれずいぶんと違いがあることがわかる。

第一に挙げた役に立つための教養は、もともとは最後に挙げた人間性を育むための教養に起源を持つのだろうが、そこからだんだんそれていってしまったもののように思われる。

そういう「かっこつけ」のための教養は、けっきょくのところ、何も面白い必要もないし、何も人生の糧になる必要もないのだ。とっつきにくくて、難解で、楽しめなくて、それでいいのだ。むしろその方がいいのだ。だって、サブカルチャーのようにわかりやすく面白かったら庶民もアクセスしてしまうから。だからハリーポッターはどこまで行っても教養にはなれないが、たいして時代を経ているわけでもないフランスの20世紀ポストモダン思想は早くも教養の仲間入りをしているのだ。

その意味で、「西洋エリートと互角に話せる教養」とかいうものがくだらないことがわかる。それは鹿の角と同じだ2。何の役に立つわけではないが、それが強さのシグナルであるといったん決まってしまったら、どんなに邪魔で役立たずでも伸ばしていくしかないというだけ。その不毛な競争に参加しなければならない場面はあることには同意するものの、そこに本質的な価値があるように考えるのは、鹿の角を見てそれがさぞかし便利な機能を持っているに違いないと思うのと同じくらい、端的に間違っている。

だから気をつけなければならない。”the great books”みたいな形で言われる教養は、往々にしてハリボテであることに。実はみんな理解できてなくて、でもわかったふりをしないと恥をかくから賞賛しているだけだったりする。それに、けっきょくのところアジア人である日本人がそれを身につけても、本当に西欧のハイ・ソサイエティに入っていけるかどうかはきわめて疑わしい。

第二に挙げた教養は第一の教養とは根本的に対立するものだ。あくまで道具であって、本当に価値のあるものではないという点では共通しているが、その働きが全く逆方向であり、これは労働者や経営者、つまりは働かなくてはいけない人たちのための教養であり、働かなくてもいい階級のための教養とは違う。伝統的なヨーロッパの貴族のための自由七科と混同すると議論がずれるし、日本近代化期に輸入された教養の概念もまた限られたエリートのための教育を志向しているため、根本的に起点が異なり、ゆえに互換性のない考え方であることに留意する必要がある。

その点でアメリカ的なリベラルアーツ、特に大学の大衆化に伴い変遷しつつあるその思想を参考にすることは的確であると言えるかもしれない。しかしそれにしても、単に役立つことを求める意味はどこにあるのだろうか。上述したようにいくらでも代替が効いてしまうものであると同時に、大学という機関で行う必然性も見出せない。もちろんきわめて有用なものであろうとは思うが、それを日本に導入するという文脈においてはとりわけ、「根がない」感が醸し出される。思想・価値感の面での土台がないまま便利なところだけ輸入しようとするのは、戦前に犯した過ちではないのか。別に全部西洋に染まることがいいと思っているわけではないが、あまりに軽薄に思われる。

ただ、だからと言って第一の教養のタイプ、古臭くて偉ぶったような考え方に与するわけではない。私は断然最後に挙げた教養こそが教養であり、価値のある教育だと考える。聖書から引用され、国会図書館にも刻まれている”The Truth Shall Set You Free”もこのような考え方に基づくものだろう。すなわち、無知蒙昧であることの制約から解放され、卑しい欲望を捨て、人類の知に手を伸ばし、そして自他を理解していく存在。それこそが自由な人間であり、本当に人間らしい生き方をしている人間だろう3

その過程で、スキルとしての教養が必要になる部分はあるかもしれない。ただそれはあくまで道具であって、価値そのものではない。そして前半に挙げた教養もまた場面によっては便利に活用できることはあるだろうが、この観点ではあくまで恣意的・偶然的にそういうものが教養とみなされるだけであって、それらの知に内在にする性質に基づいて教養となっているわけではない。

けっきょくのところ、「善く生きる」という考えを持つかどうか、持つとしたら何が「善い」のかという答えの出ない問いの上に立っているから、この問題は難しいのかもしれない。

そしてこの意味では、教養は古典的な名著とか、お堅い本に限らず、もう少し幅広く捉えてもいいのではないかと思う。最近、『あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント』(鴻上尚史)という本を読んで「感情の教養」という考え方にいたく感銘を受けた。自分の感情がどういうときにどう変化するかを知っていて、それを適切にコントロールすることができる。それは教養と呼ぶにふさわしいし、よく生きるために、理性に導かれて生きるために身につけるべき力だと思う。


  1. ここで初期値と私が言うとき、微分方程式を勉強したことがあれば当然初期値問題による解の不安定性のことを指していることがわかると思う。こうやってさまざまな分野で見出された主要な概念を一通り共有していることは、コミュニケーションをより高度なものとし、複雑な概念を限られたコミュニケーションコストで伝えることを可能にする。毎回いちから概念を説明してはいられないのだ。こういう使い方は単なるコードとしての教養ではなくて、むしろ最後に挙げた世界理解を触媒する教養であると考える。

  2. これも注釈1と同様で、進化生態学を少し勉強して自然選択と性選択を知っていれば通じる概念を比喩的に導入している。

  3. もちろんこの考え方は理性偏重であるとのそしりを免れないし、ある種の選民思想でもあるかもしれない。だれもがこういった教養を身につけることができることは考えにくいし、そもそも身につけるべきであるとの主張に賛同を得ることもできそうにない。それなのにそれが普遍的な「人間の条件」であるような主張をすることは、裏を返せば多くの人が条件を満たしておらず、人間である程度が低いという言明になってしまうのだ。しかしこれは教育に常につきまとう二面性であろう。教育を徳であると称えれば讃えるほど、教育を受けていない者は野蛮であると蔑むことになる。このことが、教育がどうしてものぞかせる偽善性の原因かもしれない。

潮時を見極めること、逃げないこと

「潮時」という言葉1が好きだ。それは自然とやってきて、また去っていくもの。

人生において、日々の生活において、潮時を意識しようと心がけています。みんなと一緒にいても、どこかのタイミングでさよならしなくてはいけない。それは何年かを過ごした場所やコミュニティに別れを告げるときもそうだし、飲み会みたいなものに参加したときどのタイミングで抜けるかを考えるときも同じ。ずるずるといつまでもとどまるのはよくないことが多いから、たとえみんなが動かなくても、自分だけ先に去るべきときがある。たぶん、それはけっこう頻繁にある。なぜなら人はそういう決断がなかなかできないからだ。だらだら二次会三次会と参加して、そのまま終電を逃してカラオケで朝まで、みたいのは典型的な無駄な時間の使い方だ。潮時はもっと前にあったはずだ。

答えなくてはいけないのは、「この場にもう一時間、一ヶ月、一年残ることによる効用は、いかほどのものだろうか? それによって自分がどのくらい成長できるだろうか?」という問い。こういうとき、居心地がいいとついつい長居してしまう。ちやほやされる場所、仲間がいる場所。ぬくい場所。そういう場所を、それでもあえて捨てなくてはいけない。未知の荒野に踏み出さなければならない。振り返っている場合ではない。

でも逆に、あまりころころ場所を変えるばかりでもいけない。それは逃げだからだ。これはとある競技をしていて思ったことだ。何かに取り組むとき、特に何らかのスキルを身につけようとしているとき、中途半端にかじって、その先が大切なところなのにフォロースルーをしないで満足してしまう人が多すぎる。他の人がしばしば一年や二年やったら満足することでも、もっと長くやったほうがいいこともある。その先の地平にはじめて見えてくるものがある。たしかに将来そのスキルそのものは使わないかもしれない。でも、真剣に取り組んで何かを身に付ける経験はきっと無駄にならない。

やめてしまうのが早い人を見ると残念な気持ちになる。「そんなにガチ勢じゃないから」とか「ほかにやりたいことがあって、それと両立したい」とか言って、けっきょくフェードアウトしていく。まあ、それはその人の判断なのでとやかく言うことはない。その人の人生なりに優先順位があるのでしょう。実際、別のことに取り組んで結果を残している人は純粋に尊敬する。でも見ていて思うのは、そういう言葉はしばしば逃げだということだ。本気で取り組んだら、自分の限界を見てしまうから。本気で取り組んだら、結果に言い訳できないから。だから本気を出さないことにして自尊心が傷つかないように守っている。そうやって痛みのない世界、ぬるくてやさしい世界に逃げている。それでいいのか?

けっきょく、大切なのは「人脈」とかではない。表面的に仲良いふりをしていても、そんなものはなんの役に立つか? 無駄にいろんなイベント、コミュニティに顔を出して、けっきょく自分の売りにできる強みがなかったら、よくて便利屋さんにしかなれない。若いうちはそれでもちやほやしてもらえるけれど、10年後にはどうなるか?

だから、潮が満ちるのを待たなくてはいけない。本当に満ちるまで、食い下がらなければいけない。プライドを砕かれても、傷だらけになっても。結果を出せず、スポットライトを浴びることができなくても。先輩にはかなわず、同期には差をつけられ、後輩には追いぬかれ、もう居場所がないように感じながら、それでも血まみれになりながら食らいつき続けるしつこさを持たなくてはならない。戦い続けないと、強くなれないのだから。

潮時を見極める目を持ちなさい。いつまでもずるずると快適なところにとどまらない。そしてつらいからといって早く逃げ出さない。居心地のよさに惑わされず、弱さにも負けずに。


  1. 厳密なことをいうと、「潮時」というのはなにかにちょうどいいタイミングのことであって、「そろそろ潮時だね」というフレーズで意味するような「やめどき」の意味では本来はないらしいが、けっきょく「やめるのにちょうどいいタイミング」という意味で使うのであれば両者の意味が重なるところだから問題ないと考える。この文章ではそういう意味で使っている。それに、誤用警察の言うことはそこまで気にするつもりはない。

痴漢されること

もうずいぶん前の話だ。私は痴漢された。あのとき、私は18歳だった。先に書いたように、学校にもずっと行ってなかった。友達も誰一人いなくて、そもそも人との関わりをほとんど持っていなかった時期だ。ただこのころにはわりとふつうに話せるようにはなっていた。

その日は夏の暑い日だったように思う。そのころ自転車を乗り回して一人で出かけることをよくしていて、その日もそうだった。昼頃だったか、暑くて、空腹にもなり、水分と糖分を補給しようとコンビニに立ち寄った。周囲は住宅地だったが、都市部ではなくて多少郊外だったから、駐車場の広いコンビニだった。その片隅で補給をすませ、しかし暑くて出発するまでもう少し休憩していたとき、一人の男が近づいてきた。

年齢とか雰囲気とかはよくわからなかった。40代から50代程度のそのへんに転がっていそうなおっさん、というところだろうか。他に特徴はなかった。

だいぶ前のことだから、なんと言って話しかけてきたのかは覚えていない。ただ、話しかけて来るときやたらと距離が近かったことははっきり覚えている。あまりに近いものだから私が後ずさりしてしまって、でも向こうはまた近づいて来るものだから最終的には何歩も位置が下がっていたくらいだ。

そして妙に卑猥な話をしてきた。内容は覚えているがしょうもないことなのでここで文字に刻むことはしない。私はそういう会話を文字通りまったくしたことがなかったからひたすら戸惑った。概念としては理解していたし、ネットで文字情報としては入ってきていた(そういう絵とかは見なかったし、そういうサイトには一切アクセスしなかったから、普通の掲示板にスパム的に貼られるやつとか、会話の節々に出て来る情報に限られたが)ので言っていることはわかったが、しかし一体全体どうしてこの男が私の前に現れてそういう会話をしているかはまったくわからなかった。

この時点で、本当に私は何もわかっていなかった。あまりに免疫がなくて、そういう下心で持って人が話しかけて来るということに及びもつかず、ただ赤面しながら相槌を打つだけだった。

そのうち、順番は忘れたが男が私の上に着ていたジャージのファスナーを降ろそうとしてきた。今度は私の股間に手を伸ばして触れてきた。まったく意味がわからなかった。ここに至っても、何一つ警戒心のようなものはなかった。ただ、何も理解しないまま、あまりにパーソナルスペースに近いから無意識に後ずさりをしていただけだった。

他人が自分に性欲を向けているということは完全に発想にないことだった。自分の性欲すら(この歳にしては奇妙なことだと思うが)よくわかっていないくらいだった。純粋を通り越していた。

けっきょく、このあたりまでで済んだのは単純に私が時間を気にしたからだ。まだ道のりは長く、ここでたぶん一時間くらいいたのだと思うが、もう出発したかった。それで出発するとき、よくわからないことに向こうは握手を求めてきて、それに快く応じるくらいには、事態が飲み込めていなかった。

気づいたのは出発した後だった。5分も走るうちに、ここまでのすべてがつながった。私は痴漢されたのだ。いっぺんに恐怖に震え上がった。振り向いたが追ってきてはいなかった。そんなの当たり前だが、そのときはずっと追跡されて捕まえられて車に放り込まれて拘束されてしまうのではないかと本気で思った。

さすがに距離があくうちにもうついてきていることはないと思ったが、今度は帰り道に待ち伏せされているのではないかと思った。帰り道では大きな川を渡らなくてはいけないから、そこでさっきの男からの情報で人身売買をする組織にでも張り込みされるのではないかと、どこまでも真剣に思った。それで警戒しながら橋を渡って、その後わざわざぐるぐると細い道を使って遠回りをして追っ手が来ていても撒けるように工夫したほどだった。

これで何が起こったかの話はおしまいだ。けれど、この後すぐに思ったことが一つと、振り返ってみて思うことが一つある。

すぐに思ったのは、「自分が気持ち悪い」ということだ。痴漢されて汚されたとかではない。けっきょく、わずかしか触られてもいないから、その意味では気にならなかった。そうではなくて、あの男の気持ち悪さが自分の中にもあるのかと思ったことでどうしようもなく汚い存在であるように思うようになった。あの男が私にしたように性欲を投射することを、私は女性に対してしてしまうのだろうと思うと、もうそんな器官は切除して中性的な存在になりたいくらいだった。あの男よりタチが悪いではないか、だって女性との間では体格とか力に差があるのだから。いきなり自分がゴキブリになったような気分だった、と言うとゴキブリに失礼なくらいだ。こういう自らの男性性への罪悪感みたいなものは未だに抱えている。

もう一つ、振り返ってみてわかることは、自らの性的側面に無自覚だと誰かが侵襲的な気持ち悪い行為をしてきてもそのことに気づけないのだということだ。少女・少年の性犯罪被害者とか、(その一種ではあるが)親族からの性的虐待を受けた児童が被害を受けた当時は十分に理解できず、後々になってから苦しむのはこういうことかと少しだけわかった気がした。人にもよるが、中学生高校生くらいでも自分と他者の性を認識するのが遅い純朴な子どもたちがいる。そういう子どもたちがさまざまな形で搾取される構造がどういうことなのか、部分的にせよ自分と重ね合わせられる気がする。あるいは大学生くらいになってもそういう事柄に疎い若者がいいように遊ばれて傷つくのも、類似の事例なのだろう。

痴漢関係の話題はネットの言論がもっとも不毛な場所の一つだ。だからこれでもって何かを言おうとは思わないけれど、せめてここに私の経験を書き記しておくことにする。

バカって言うやつがバカ

他人がバカだと思ったら、あなたがバカなのです。他人の置かれた状況、持っている情報、その他もろもろの条件が異なるのに、なぜあなたと同じ思考で同じ結論に至り、同じ行動を取らないことをバカだと思うのか。その想像力の欠如がバカなのです。

他人がつまらないと思ったら、あなたもつまらないのです。その人はつまらないかもしれないけど、あなたもつまらない。相手が自分の食いつける話題を提示してくれないのはわかったけど、あなただって相手が食いつける話題を提示できてない。それって同類じゃないですかね。お似合いですよ。あるいは、相手のほうが本当につまらないかもしれない。でもまた別の人、もっとおもしろい人から見たら、あなたはやっぱりつまらない人に過ぎないのです。話題の引き出しが少ないし、気の利いたことも言えない人。他人をつまらないといって裁いたら、次はあなたが裁かれる番。

他人がめんどくさいと思ったら、あなたも同じくらいめんどくさい。生きていたら、だれしもめんどくさくなるときはあるのだから、受け入れなさい。なんたって死者ですらときどきめんどくさいくらいなのです。それなのにいちいちぶつぶつ文句を言うあなたがめんどくさいことに気づきなさい。文句を言わなくても不機嫌になるなら、それでも十分にめんどくさいことに気づきなさい。

他人が差別的だと思ったら、あなたもきっと同じくらい差別的だということに気づきなさい。いま話題にしている特定の事柄では相手のほうが差別的かもしれないけど、あなたもきっとほかの事柄では差別的なのですよ。自分が安全圏にいると思うのはやめなさい。差別を叩いているつもりで、あなたこそ思いっきり差別してるかもしれないし、そうだとしてもあなたはそれに気づけない。聞く耳を持ちなさい。自分が絶対的正義を持っていると思うのはやめなさい。お互いに、学んでいこうじゃないですか。

他人が過ちを犯していると思ったら、あなたも過ちからは逃れられないことに気づきなさい。しょせん、あなたもわたしも人間なのです。思い上がってはいけません。

他人の行いに問題があると思ったら、それがあなたに何の関係があるかを考えなさい。そのせいであなたがよい人間であれなくなるのですか? そうだとしても、それはあなたの問題ではないのですか? あなたの心持ちが、あなたを害しているだけです。他人があなたを害しているわけではありません。あなたに関係のないことにとらわれて、心を乱して、いったい何がしたいのでしょう。他人のことは放っておきなさい。もしそれでも関わりたいなら、相手をよくするために関わりなさい。腹を立てることは、その役には立ちません。

それでもだれかが自分を害していると思ったら、それに怒って何の役に立つのかを考えなさい。そうすれば問題が解決するのですか? 怨嗟を撒き散らして、関係ない人まで巻き込んで、どうしたいのですか? あなたの感情はあなたの持ち物です。あなたはあなたの感情の持ち物ではありません。淡々と対応しなさい。離れる必要があるなら離れなさい。でも、あなたの大切な感情まで相手に売り渡す必要はないのです。

だれかが自分を益してくれたら、素直によろこびましょう。勘ぐるのは後でいいのです。相手にどんな意図があろうと、あなたが与えられたことに違いはありません。生きていればプラスもマイナスもあるのです。なのになんで、後でマイナスがあるかもしれないからといってプラスの出来事に対してまで心をマイナスにするのでしょう。そうするなら、ちゃんとマイナスの出来事に対しては心をプラスにしてますか? マイナスに振り切れたらあとは上がるしかないから、喜びの極致にありますか? そんなことないですよね? そういうのをダブルスタンダードって言うのですよ。

だれかが自分を助けてくれたら、素直に助けられなさい。与えられることを拒んではいけません。それはあなたが半人前だという意味ではなく、あなたを一人前以上にしてくれるための助けなのです。あなたは感謝して、もっと先に進めばいいのです。

だれかに恩恵を受けたら、そのことで罪悪感を感じる必要はありません。その人に返す必要なんてないからです。また別の人に恩を送っていけばいいのです。そうすればあなたの元に借りは残りません。そうやって世界は回っていくのです。恩という貨幣がたくさん流通するほど、みんな豊かになるのです。経済学の基本でしょう?

だれかががんばっているなと思ったら、あなたも同じくらいがんばっているのです。その人は見えるところでも、見えないところでもがんばっているけど、あなただって同じようにがんばっている。その人をたたえて、自分もたたえなさい。

だれかが尊敬できる人だと思ったら、自分も同じくらい尊敬できる人であると自信を持ちなさい。他人を尊敬できる心は、謙虚に学ぶことができる。他人を尊敬できる心は、ねたまない。他人を尊敬できる心は美しい。そんなあなたは尊敬に値する。

だれかを愛せるなら、あなたは愛されることもできる。信じなさい、あなたは愛される資格がある。だれも、そうじゃないとあなたに告げることはできない。あなたは、愛されない関係に甘んじる必要はない。あなたは、ここにいていい。