過去から自由になること:自分の外にある自分

「自分」は自分の外にある。自分が何者であるかは、自分が持っている物、自分がいる場所、自分の人間関係、そういうものによって規定される。単に外からそういうふうに見られるというわけではない。自意識の上でも、全面的に影響されるのだ。自分とは、一つの身体の中に閉じたカタマリではなくて、自分とその周囲が総体として作り出す「場」に存在するものなのだ。

自分というのは一面的存在ではない。ある時点の自分は複数のコミュニティに属して複数の顔を持つし、また時間の経過とともに自分は変わっていく。親といたときの自分と、学校での自分、大学に進学してからの自分、就職してからの自分、あるいは自分の家庭を持ってからの親としての自分。さらには孫に対しての自分。75歳のあなたがいたとして、去年孫からもらったプレゼントと、20歳の時に恋人からもらったプレゼントがあったとする。どちらを身につけるかで、あなたの人物像、振る舞いそのものが変わってくるのではないだろうか。だから人はゲンを担ぐということをするのだ。何か重要な勝負に勝ったときに身につけていたものを、その後も事あるごとに身につけるのだ。その時の自分が現在に宿ると信じて。

そう、物には自分自身の一部が宿っている。それも、その物を使っていた時系列上の自分が。中学生のころから使っているポーチ、大学生のときにプレゼントしてもらってずっとつけている腕時計。新社会人のときにもらってそれ以来使っているペン。そういう物品には、当時の自分の残滓が付着している。それを使うたびに、当時の記憶が少し戻ってくる。ポジティブな意味づけができることもあれば、その逆もあるだろう。別れた恋人にもらったものは捨てるかどうかという論争はよく見かける。親の形見も同じようなものだろう。そこに表象されるのは恋人といた自分、親といた思い出、そしてそのころの記憶。

場所も記憶と密接に結びつく。駅の階段、交差点の風景、スーパーのにおい。街並みはしだいに変わっても、その場所の痕跡はそうそう消えるものではない。だから故郷に帰ってることが人にとって大きな意味を持つ。過去の場所は自分を当時に引き戻す。

人間関係もまた、自分の外の自分であり、現在と過去をつなぐものだ。人生の各ステージにおいて、人のつながりがある。そしてやがて離れる。80代の祖父母も、学校の同級生と会うときはまるで当時に戻ったかのように話をしていた。そう、他人との関係もまた、時間軸を持っている。あなたの過去と現在のあなたを結びつける。それだけではなく、他者の記憶にあるあなたと、現在他者の眼に映るあなたの間も結びつける。多層的な連関だ。

果ては形のない習慣によっても、やはり人は過去を映し出す。帰宅してからの風呂や食事や娯楽の順番、洗濯物のたたみ方、ノートの取り方。そして口癖の一つ一つ。そういうものはどこで身につけたものだろうか? 誰と、いつ? そのすべてが、あなたという人間を構成し、あなたをあなたの歴史と分かちがたくつないでいる。


そうやって、人が過去と結びついていることはかけがえのない価値を持つことがしばしばある。そうやってしか、自分を保てないことがある。特に、それは高齢になったときの命綱になってくる。

しかし問題は、人はときに変わらなくてはいけないことだ。特に若いときには過去の自分から離れて成長していかないといけないし、過去に何か乗り越えなくてはならないものを抱えているときはなおさらだ。そういうとき、持ち物、住む場所、人間関係、そして習慣や言葉を変えることが自分の変化を助けると思う。まだ使えても古いものは捨てるべきだ。あえて引っ越すべきだ。意識して新しいコミュニティに参加してみるべきだ。過去の自分から自由になるために。

ところが現代社会の問題は、いつまでもいつまでも他人と密につながっていられることだ。交通手段と通信手段の発展がそれを可能にしてしまった。過去の人間関係に浸っている限り、自分は過去に縛りつけられる。「大学デビュー」が可能だったのは、家族や旧友と離れて、過去からの他者の視線が遮断されるタイミングだったからだ。今はそれは難しい。たとえ会ったり写真を送ることがなかったとしても、テキストでやりとりしているだけで、内面化された過去の人間の視線が常に意識されて、自分のキャラクターを変えることは困難になる。

だから、ときにはきっぱりと次に進んだ方がいい。もちろん縁は保っておいた方がいいこともたくさんあるが、少なくともそれにどっぷりになってはいけない。新しい場所で新しい自分として新しい関係を築くべきだ。ときどき、新しい場所に移ったはずなのにうまく馴染めずに、過去の関係に逃避してそちらとばかり付き合う人がいる。慣れるまでしばらくはしょうがないこともあるかもしれないが、そういうのを続けるのは良くないことだ。


そして過去を離れ、自分を変えたいとき、実家暮らしは最悪だ。過去を映し出す大量の物があり、変わらない街にあり、そしてかつて一番大きな存在であった親がいて、自分はその子という立場に固定される。何も思わずに実家に暮らしていける人がいたとしたら、その人はそれまでの過去を全面的に肯定できている人であり、子どものころから精神性があまり入れ替わっていない人なのだと思う。きっと、過去を振り返ってもつらいことがあまりないのだろう。

そういう人は、時間性の強い人だ。現在に存在するだけではなくて、過去にも同時に存在している。さらに未来にも存在している。自分の幼少期、現在の自分、そして老年の自分が、全部一体つながって、その人をなしている。

私はそうはなれないから、実家を離れたし、昔から使っているものを捨て始めている。人間関係を派手に切ろうとは思わないが、こうやって新しいブログを作り、新しい自分を作っている。そうやって、過去から自分を自由にしたいと思っている。

勉強法について

それほど偉そうなことを言える実績があるわけでもないし、たいして勉強した人間でもないのだけど、思うところを書いてみる。

勉強法は、大きく二つの別々のターゲットがあると思う。一つ目の勉強法は受験勉強の方法だ。対象となる知識の範囲が決まっていて、合格ラインも決まっていて、いつまでにそこに達さなくてはいけないかもおおむね決まっている。そして教材も選びきれないほど様々なものが出ている。もう一つの勉強法は対極的だ。何を勉強するかは決まっていないし、特定の合格ラインがあるわけでもない。時期的な目標はあるかもしれないが、はっきりいつまでというものでもない。そして教材はあることもあれば、ほとんどないこともあるし、少なくとも親切な作りになっていないことがざらだ。

受験的な勉強は単純だ。とにかく効率性を高めることが正義だ。過去問と合格ラインありきだ。何点必要かを計算して、領域ごとに分割してそれぞれの目標点数を定め、過去問を主体にした問題演習を回していく。過去問を取り組めるレベルにないならもう少し簡単な問題集からはじめる。教科書はざっと読んで把握するだけにして、あとの知識は問題を解くうちに覚える。そしてもう時間との勝負で、あとはひたすら一定のペースで進めていくのみ。レールは敷かれているから、そこを進むのみだ。モチベーション維持は簡単ではないが、そのために予備校などのはっぱをかけてくれる場所もある。模試がペースメーカーになってくれる。大学受験はこれでいいし、諸々の資格試験もおおむね同じだ。

こういう勉強で変に凝ったことをするのはよくない。教材かと見まごう綺麗なノートを作るのは典型的な無駄だ。そんな暇があったら問題演習をするべきだ。教材はできあいのものが十分によくできているし、そういったものを作る時間は無駄だ。問題を解くほうが、教材を作ることの何分の一かの時間でこなせる。それに世間にそれを公開しても、よっぽどのできばえでもないと何の意味もない。とにかく、試験の点数が正義であって、そこに戦略を最適化しなくてはいけない。

しかしそれとは違う勉強もある。レールのない勉強だ。もっと長丁場の勉強になるし、いつまでにどこに到達するべきかが明確ではない。こういう勉強では、効率性よりもモチベーション維持が大きな課題になる。けっきょく、同じ勉強をする仲間はあまり多くないし、用意されたカリキュラムもなく、いつまでにやらないといけないという焦りもないからだ。つまるところ、この手の勉強がやりづらいのは、アウトプットが定義されていないからだ。だったら、自分なりのアプトプットを決めてしまったほうがよい。ブログに記事を書いて、自分の勉強した内容を第三者にもわかるように解説していく。勉強会で発表者として参加する予定を入れてしまって、それで背水の陣で勉強する。周りがそのスキルを持っている人たちの集まりに飛び込んでどうにかついていけるように勉強する。やり方はいろいろあって、どれを採用するかは自由に決められるのが受験勉強と違うところだ。それはよい面とも言えるし、悪い面だとも言えるだろう。私の考えはとにかく記事を作って他人に教えるスタイルで勉強するのがよいというものだ。たしかに、受験のために綺麗なノートを作るのと同じで効率は悪い。しかし、効率は悪くてもモチベーションが続くならそれでよいのだ。楽しんで、あるいは義務感でも、とにかく続くことが第一だ。

さらにこういう勉強を公開することにはモチベーション維持にとどまらない価値がある。自分のブランディング、あるいは能力の証明として使うことができるからだ。受験勉強と違い、こういったスキルには統一された能力の指標はどこにもない。だから、自分の成果物を見せることが一番はっきりと能力を示す方法になる。さらには、先端的な高度なスキルは世間に教材や教えられる人が少ないから、そのスキルを教えるスキルにも価値があるし、それを身につけることも勉強の一環だ。だからそもそも目標設定が違うのだ。みんなができることを習得するとき、それを教えるスキルを得てもしかたがないが、専門的なレアなスキルは教える力の価値が高い。そこそこのできばえでいいから教材を作って教えられることは有意義だ。そして公開すれば求めている人がやってくるし、そこからチャンスも広がる。むしろ、最初からそういうために勉強をする部分も大きいのではないか?

この二つのまったく違う勉強の切り替えができることが大事なのだと最近思うようになった。というか、もう少し早く気づきたかった。周りを見回すと、中途半端な勉強のスタイルでどっちもやっている人がたくさんいることに気づく。それは非効率的だ。勉強をするなら、まずは目標を明確化し、その道のりを明らかにしないといけない。それが息をするようにできる人がなかにはいて、そういう人が優秀な人なのだ。私はそうはなれないが、せめてここに書き残してみる。

反出生主義に感じる違和感について

ネットの言論に食いつくのはよしておこうと思っていたのですが、気になる話題が盛り上がっているようなので思わず反応してみます。

anond.hatelabo.jp

この考え方は理解できます。おおむねロジックは通っていて、ある程度は賛同したいところもあります。自分に引きつけて考えると、私自身あまり子どもを持ちたいとは思いません。そしてこの論への反論の主たるものである「社会の維持」という観点は、筋が通っていないと言わざるを得ません。もし個人レベルで反出生主義を受け入れつつ、社会的な面が課題となるだけなら、社会が持続可能なぎりぎりのところまで出生数を絞って、最後に生き残った老人の介護をしてくれるロボットを作って、緩やかな滅びへと着地させるべし、という結論になるでしょう。でも社会の持続可能性の観点で反論している人がその立場を取っているようには私には見受けられません。

この論の弱いところはすでに指摘されている通りこの部分でしょう。

まだ生まれていない(欲望がない)なら「幸せになる可能性がある」より「苦痛を感じる可能性がない」方が合理的なのだから常に生まれてこない方が良いのです。

ここの点で、反出生主義は本来もっと強い論理を持っていると思います。単なる損得勘定でどっちが重いという話ではなくて、自己決定権に寄せて立論されるべきでしょう。すなわち、生まれるということは、望むと望まざるとに関わらずいろいろなこと(いろいろありますが、最も回避できないのが死を迎えること)を経験せざるをえないことである。それは幸福と苦痛が50:50かもしれないし、100:1かもしれないし、あるいは1:100かもしれません。でもそれがどんなものであれ、それを経験したいかどうかは個人の自己決定にゆだねられるべきであり、いやだという人に無理やり「これはいいものだから」と言って経験させることは認められません。なのに、生まれるということは選択できず、いったん生まれてしまったらそこから離脱することにも困難を伴うのです。だからこれは決定的に自己決定権の侵害である、という論理です。他方、「生まれない」ということは自己決定権の侵害ではありえない(主体がそもそも定義されませんから)ため、こちらのほうが正しい、そういう主張だと思います。

以下の文章の一点目ではこの点について反論を試みます。反論としてはいまいち弱いことは承知です。そして二点目では私のただの印象に基づいて話します。もとが匿名ダイアリーだから当たり前ですが、特定個人への攻撃は意図していません。あくまで書いた人に対してではなくてこの意見、またこの意見を持っている人たちの傾向(私が知っているのはn=3くらいしかいませんが)に対してのコメントです。


1. 自分のことを神様だと思っている

この意見、そして文章について一番引っかかるのは、あまりに自分の「論理」が正しくて、世界で一番、宇宙で一番正しいと思っている匂いがすることです。でもそれって本当に正しいんでしょうか。その論理ってこの宇宙の果てまで行っても正しいのでしょうか。生きるっていうのはそんなに予測の範疇に収まる現象なのでしょうか。そういうところで自分の考えの無謬性を無邪気に信じすぎていないでしょうか。

今まで生きてきて、あなたは詩で心を動かされたことはあるでしょうか。自然の驚異に打たれたことはあるでしょうか。数学の深遠さに吸い込まれそうになったことはあるでしょうか。人間の尊厳に目を見開いたことはあるでしょうか。ひょっとして神様いるんじゃないかって思ったことあるでしょうか1。自然的、超自然的、人間的、なんでもいいですから、そういう自分には届かない超越的なものへの畏敬の念を覚えたことはないでしょうか。私たちの生きている世界は、セカンドライフのゲーム世界みたいな、人によって作られた限りあるものではありません。あなたも、私も、全世界のだれだって、そのほんのちょこっとしか知らないのです。そして生きるということはその世界を探検することです。確かに苦しいことも多いでしょう。でも、どんなすばらしいものが眠っているか、まだだれも知りません。

もちろんどんな可能性があろうとやっぱりいやだ、生まれてきたくなかったという人はいるでしょうから、自己決定権の侵害には違いないでしょう。でも、その自己決定権という論理が本当に正しいかどうか、生きるということに関してどんなことが真実で、どんなことが嘘八百かだって、まだ全然わかってないのです。

だから、まるで森羅万象を理解したかのような顔をして、自分の振り回す「論理」なるものがこの銀河で絶対に未来永劫正しいかのように「生きることは苦しいから生まれない方がいい」と言ってのける態度はひどく傲慢なものなように私には映るのです。もし、本当は何もわかっていないことをわかっていながらそんな断言しているなら端的に誠実じゃないと言わざるを得ません。あるいは(このスタンスを取る人にありがちなように)自分がいかにちっぽけで、世界ははるかに超越的なものであることに気づかないで、まるでゲームの中の世界を生きるかのような無感動な人生を送っているなら、そして自分は頭がいいから本当のことがわかっていて、そして他の人はバカだからそれを理解しないと思っているようなら、それはご愁傷様です。これは一般論ですが、人をバカだと思ったら自分こそがバカなんじゃないかと疑った方がよいのです。

あなたは神様じゃないし、私もそうではない。だから何が正しくて何が間違っているかはよくわからないし、生きるとはどういうことなのかもわからないのです。でも、たぶん確かなのは、生まれなかったら、そういう未知の世界を探検するチャンスもないっていうことです2。だから、私は出生を手放しに肯定するわけではありませんが、すっかり否定する気にもなれません。

これはある種のダブルスタンダードであることはわかります。出生以外について自己決定権の尊重を基本としたスタンスを取っているなら、出生についてだけは自己決定権の概念が誤っている可能性を考慮すべきだというのは一貫性に欠けることは事実です。でも、それは出生というのはあまりに決定的なできごとであり、それなしには主体が存在し得ないという特殊性を持つからです。ふだん他人を監禁して生活を管理しないのは、主体の自己決定を尊重しているからです。でも、自己決定によって生まれてくることはできない以上、同じ基準を出生に適用することはできません。


2. 素直じゃない

これはまったくの印象論です。反出生主義でこうやって論理武装している人って、もし見事な論理で「いや、それは間違っている。出生はよいものだ」と反論されたら「なんと! 納得した、これからは出生を祝福する」となるのでしょうか。ならなくないですか? なるんですか? なるならこれ以上言うことはありません。でも、どんな主義主張でも、どんなに論理武装していても、それは往々にして後付けであって、説得されて転向することはないんじゃないでしょうか。

そうだとすると、その主張はひどく素直じゃないものだということになります。だって、対外的には論理的だから正しいんだと打ち出しておきながら、実際に自分が信じている理由は論理なんかじゃないからです。別に反出生主義者は自分の人生が辛いからそういう主張をしているのだとか単純化するつもりはありません。人によっていろいろ理由はあるでしょう。でも、その理由を言わずに、論理の笠を着るのはなんででしょうか。それは何か見せたくないものがあるからではないですか? 自分が反出生的であるその本当の理由を、認めたくないのではないですか? 誰だって言いたくないことはあるものです。それは構いません。でも、だったら、その論理の薙刀を振り回すのはやめたらどうでしょうか。


  1. これは語弊があるかもしれませんね。別に宗教的な考え方を前提にして言っているわけじゃありません。

  2. 生まれなくても何かを経験できる可能性は否定できませんが、そうすると反出生主義が前提としている「生まれなければ苦しみもない」という点も疑わなくてはいけなくなってしまいますから。

What do they do here?

それほど長い期間ではないが、海外で辺境の村に滞在したことがある。かつて鉱物資源の採掘で栄えていた歴史は夢の跡。農業ができるような土地でもないし、かといって狩猟採集で自給自足生活をしているわけでもない。わずかな観光収入があるくらい。都市に出るまでは車で7時間。携帯電話の電波が入る村までも3時間くらいだろうか。ただ一本の道路も年の半分は雪に閉ざされ、小型飛行機が唯一の交通手段になる。そんな、辺境の中でもかなり隔絶された場所だった。

その村のはずれに、がらくたに囲まれた家があった。ヤードには廃車になったバスとか、古タイヤとか、ドラム缶とかが乱雑に積んであった。というか、家とガラクタの境界線がよくわからない、そんな散らかった住処に見えた。そこに一家族が住んでいた。ここで何をしているのだろう、と思って地元の同行者に"what do they do here?"と聞いた。返ってきた返事は"they live here"だった。何かがすとんと落ちた。

そう、人間にとって、生きること、暮らすことが先なのだ。どうやって稼ぐかはその後であって、何を稼業にしているかは何者であるかを規定するうえであまり重要でないし、そんなにすっぱり決まるわけでもない。

もちろん、これはそんなにいい話ではない。きびしい自然の中を自力で生き抜くのではない限り、けっきょく、生きていくのに金はかかる。ここでは人は少なからず福祉に依存して生きている。地下に眠る化石燃料と、遠くの都市の経済活動の恩恵に預かっているだけだ。そういう言い方をすると、私たちの「常識的」感覚からするとひどく情けない暮らしであるように思えてしまう。でも、そこに人の営みがあって、そこにひとつの生き方があるのだ。それを自分の持っている価値基準で評価することはひどくいけないことであるような気がした。

そこには、競争という考え方がないように見えた。「もっと」を求めていないようだった。どちらにせよ一つの商売は一軒しかない。どんなにがんばっても客が増えるわけでもない。村の住人は100人だか200人だかに限られるし、こんな辺鄙な場所までわざわざやってくる観光客の数だって増やせるものではない。だからほどほどでいいのだ。がんばっても、骨折り損になるだけだ。そういう価値観のようだった。そう、人々はともかく「生きて」いるのだ。それだけで、十分なのだ。

わたしは、わたしたちは、きっとそういう世界に生きることはないだろう。こちらの世の中では時間に追われ、競争に晒され、結果を残していかなければならない。べつに、あっちの世界にこそ本当の幸せがあるとか、そんな安易なことを言うつもりはない。そもそも、本当の幸せが何なのかなんてわかるわけがないではないか。ただ、広い世界で、人の生き方にはいろいろあるのだということを心に留めておきたいと思う。生きること。それはほかのすべてよりも先にある。どんなに失敗しても、敗北しても、職を失っても、なお生きていていいのだ。そう思うことで救われるときがきっとある。

書けなくなってきた

最近、文章を書く衝動が急速に弱まってきたのを感じる。

6月にブログをはじめたころ、ひたすら書きたい気持ちに駆られていた。寝食も忘れる勢い、といったら言いすぎだが、それでもかなりの時間を費やして書いていた。ところが最近はすっかりご無沙汰してしまっている。アイデアのメモはあるが、そこから膨らます気にならない。ただただ面倒くさい。最近の更新は以前に書き溜めた文章を消費して、さらには書きかけで放置していたものを少しばかり手直しをして記事に仕立てているだけだ。

どうして書けなくなったのかと不思議に思う。あのころが異常だったのか、あるいは書く気力すら減衰しているいまがむしろまずい状況なのか。判断できないでいる。半年くらい前にちゃんと付け始めた家計簿もすっかり放置しているし、年単位で続けてきた日記すらこのところ滞っている。

ブログをはじめたとき、週一回更新のペースで一年間続けようかと思っていた。いまもその目標は放棄していないが、なかなかきびしいかもしれない。かといって空っぽの文章を書くつもりもない。分量が少なくなるのは不可避だが、自分なりに納得のいくものを書いていきたいと思う。

局所最適から外れる勇気

昔、タッチタイピングができなかった。それはそうだ。できる人はどこかで覚えたからできるのだから。でもタイピングはそれほど遅くなかった。キーボードを見ながら、数本の指を使いながら、まあまあすばやくタイピングができた。でもやはりタッチタイピングは習得したほうがいいと思って練習し始めた。はじめはいっぺんにタイピングが遅くなった。慣れないことをしているから。でもやがて速くなってきて、いまではもう比べ物にならないほど速く、そして当然のようにタッチタイピングができるようになった。たぶんこれはけっこう多くの人が経験していると思う。

そして、こういう経験は一般化してやることが大切だ。つまり、いままでやっていたことは最適解から遠いかもしれないのだ。しかも改善するためには一度大きく山を降りないといけない。けれど向こうに見える山には雲がかかっていて高いか低いかわからない。

こういうとき、線形な成長しかイメージできないともう行き止まりだ。あるいはおっかなびっくり少しだけ試してみても、山を降りる区間がけっこうあるからそこで見切ってしまう。ずっと自己流の二本指タイピングみたいなことをしている。きっとそうやって、はじめに登り始めた局所解の山を登りつめたらおしまいというのが、ほとんどの人の人生の生き方なのだと思う。最適解の探索は容易ではない。

だからあえて山を降りなくてはいけない。なんだかんだいって人生は長い。いったんいまいる場所から下降してでも、より高い頂を探す価値はある。生活のさまざまな場面で、当たりまえだと思っていたことを見なおさなくてはいけない。通勤の交通手段を変えてみよう。あるいはせめて、駅まで歩く道を変えてみよう。メモのとり方を変えてみよう。スーパーでいままで買ったことのない野菜を買ってみよう。そしてたぶん一番大事なのは、ふるまいや人との接し方を変えてみることだろう。声のトーンや大きさ、言葉遣い、歩き方。そういう染み付いたものを、あえて変えてみよう。うまくいかなくてもいい。そういう結果が得られたなら上出来だ。

ただ、どこで見切るかは考えなくてはいけない。やみくもにあちこちへ向かっていたらそれはそれで人生の改善にはなかなか近づけない。そういうときは、たぶんものの本を参考にするとよいのだろう。中身の薄っぺらい自己啓発本は好きじゃないが、古典を中心にして中には悪くないものもあるように思う。そういうものを手本にしてみたら、頂を探すための地図になるかもしれない。そんなに当てになる地図ではないけれど、ないよりはいいだろう。けっきょく、こういう自己啓発本の内容はどれもたいして代わり映えしないから、意味があるかどうかは強い意志を持ってきっちりやるかどうかにかかっているのだと思う。

けっきょく、日々の生活は実験なのだ。毎日何か一つ、いままでと違うことに挑戦してみよう。まったくはじめてのことでなくてもいい。ただいままでうまくできなかったり、なぜか避けていたようなことに。そうやって、単調な日々にとらわれる受け身の自分ではなく、たとえ小さなことでも日々の生活をコントロールする主体性を持とう。

さあ、明日は何をしよう。日常に、ささやかな独創性と遊び心を。

「いい子」という呪い

以前、ほんの短期間保育園でボランティアをした。子どもをあやしているときに、ふと口をついた、「いい子だね」。

……どうして自分の口からその言葉を発してしまったのかわからなかった。「いい子」という言葉は嫌いだ。それは、呪いだから。

いい子、と言われるのは、おとなしくて、聞き分けがよくて、騒がなくて、そんなふるまいをする子どもだ。それは小さな子どもにとってきわめて抑制的なふるまいだ。放っておけば、叫ぶし、走るし、言うことなど聞かないのが子どもではないか。それをぐっと抑えこんだら、「いい子」とほめてもらえる。だからもっとがんばって抑えて、もっとおとなしくなろうとする。だって、自分はいい子なんだから。だって、自分はいい子じゃなきゃいけないのだから。だって、自分はいい子であるがゆえに愛されているのだから。いい子じゃなかったら、きっともう愛されないのだから。

「いい子」であることをほめることは、条件付でほめることだ。もちろん、ほめるという行為が条件性を抜きにしては成立しないから、それは仕方がないかもしれない。けれど、子どもに「いい子」と言うたびに、「わるい子」の存在を示唆していることを自覚しなくてはいけない。「いい子」とほめられる頻度が高いおとなしい子どもほど、自分が受け取る愛情の中で「条件付」の愛情が占める割合が高くなってくる。だからますますおとなしくする行動は強化され、さらに「いい子」になっていくサイクルに陥る。

いったんそのような「いい子症候群」にはまってしまうと、いかに愛されても、本当に愛されたように感じることができないのかもしれないと考えた。自分の存在と「よい行動」がいつも同時に存在するため、どちらを愛してくれているかがわからないからだ。かといって、そこから逸脱する勇気はない。だって、いままで受け取ってきたすべての愛情は条件付だったのかもしれないから。そしてその愛情を裏切れば、もう二度と省みてくれないかもしれないから。いい子である自分という仮面は、もう外せない。

そうやって、自分を殺すことを強いる呪いの言葉が「いい子」だとわたしは思う。だから、二度と口に出さないことに決めた。