矛盾は矛盾じゃない

あれとこれが矛盾してるじゃん! って思うことは珍しくはない。でも、突き詰めていくと何事かが本当に純粋な意味で矛盾していることはないのだと思う。何か前提を置いているから、矛盾していると感じてしまうだけ。その前提を、ちゃんと考え直す必要がある。

「昼食はカレーにしたい。昼食は中華にしたい。」……たぶん矛盾している。でも、昼食をハシゴすれば両方食べられるじゃないか。あるいはどこかには中華カレーもあるかもだけど。

猫大好きだけど猫には絶対近寄らない、それも矛盾じゃない。猫アレルギーなだけ。

スライドの情報量もっと減らせって前回は言われたけど、今回は必要なことはちゃんと書いておけと言われたのは矛盾? それだって、前回と今回じゃ時間や会場や聞き手が違うからであって、あべこべなことを教えているわけではない。


現実の世界は無限に複雑なのだから、あることが正しくて、かつ間違っていることはいくらでもある。時と場合による、というやつだ。昨日と今日で違うことを言ってはいけないとか、あの人とこの人に違うことを言ってはいけないとか、そういうのは外から前提を持ち込んでいるだけだ。

前提は、世界をスライスにする。3次元では交わらない直線も、2次元ではぶつかってしまうのと同じで、たとえば時間軸で言うことが一貫していないといけないという前提を導入するのは、世界の時間方向を消し去るのと同じことで。そのときにはじめて矛盾が生じてくる。

スライスする方向は時間や場所だけじゃない。たとえば「カニを食べたいけどカニを食べたくない」ことだってきっとある。味としては食べたいけど、手間としては食べたくないということ。それが、人の望みは複雑な形をしていてはいけない、一点に収束していないといけない、という前提を入れたときには矛盾になる。あるいは、代わりにあなたがカニの身をほじってくれてもいいけれど。

何でもかんでも相対化したいわけじゃない。たとえば現実的には一人でお昼ご飯を食べるときには一つの定食メニューを選ばないといけない。たとえば住む場所を決めるときには一定のトレードオフの中から選ばないといけない。

でもやっぱり、考えてみればだれかを誘ってごはんを半分こにするって選択肢だってあるのかもしれない。もしかしたら平日と週末で違うところに住むって選択肢もあるのかもしれない。一人、一箇所という前提でスライスしていたから、同時に成立しなくなっていただけ。ただ前提を外せばいいというものではない。必要な前提ももちろんある。だけど、知らないうちに前提にとらわれていてはいけない。わかって選ばなくてはいけない。

他人の矛盾だって同じだ。昨日はこれからはooの時代だって言っていたのに今日はこれからはxxの時代だって言うのだって、別に矛盾ではない。ただ、もしそれが周りの行動を振り回して困らせているのだったら、一緒に何か仕事をする以上は昨日と今日でむやみに違うことを言ってはいけない、という前提が必要だってこと。

お金を節約しなさいとあなたに言っておきながら、その人は浪費している。それだって、その人なりの文脈を考えればきっと矛盾ではない。もしかしたらずいぶん前からほしかったのかもしれない。あるいは、あなたとその人で別扱いなのかもしれない。むかつくにせよ、「あなたと私は同じ基準でお金を使わなくてはいけない」というそもそもの前提があってこその矛盾だ。その前提が正しいのであれば主張すればいいと思うけど、どちらにしても前提があることは意識しておいた方がいい。言い争っているように見える主張ではなくて、考慮から漏れている前提の段階でそもそも食い違っているかもしれないから。


世界を平面ではなく立体で、立体ではなくもっと高次なものとして、とらえていけば、矛盾しているように思えるのは実際には単に別々の場合に過ぎないとわかるようになる。その上で、この面で切ったらたしかに矛盾だ、と認められるとなおよい。矛盾だけの話じゃないけれど、そうやって世界をどう捉えるか、どう切るかに柔軟になること、自覚的になることは、人間の精神的な成長のうち大きな部分を占めていると思う。

日本に留学しよう

親戚の葬儀に出る。地元の名士とでも言うべき人物で、ずいぶんたくさんの人々が参列していた。代々檀家をしている寺で、一族に顔なじみらしい僧侶が読経をはじめる。その声が響き渡る本堂で、そっと薄眼を開けながら考えることがある。わたしは一生のうちに、このような文化体験を、どこか日本以外でできるだろうか。観光客向けによそゆきのラッピングされていない、内側にいる人たちだけのための儀式を目撃することがあるだろうか。あるいは、もしわたしが日本に生まれなかったら、この場に入り込む方法はあっただろうかと。


「国際的」な人間になりたい人たちが、一部にはたくさんいる。わたしは別に国粋主義者でも保守主義者ではないと思うし、かつて、あるいは今でもそういう「グローバル」な人々に共鳴するところも少なからずある。ただ、最近になって、その手の考え方に底知れない軽薄さを感じるようになってきた。そこには、どこまでも希釈され、どこまでもコモディティ化された記号としてしか、もはや文化の形は残っていないではないか。土地や歴史、何よりそこに暮らした人間に根ざした生き方は損なわれてしまった。代わりに、博物館に展示されているかわいい動物の剥製に成り果てた「文化」がそこにはある。もう血が流れていない。唯一「文化」の血が臭うのは、その文化が西欧的な、あるいは「グローバル」な標準化との間で摩擦を起こすとき。そこでは人間の生き様の最後のあがきを目にすることができる。

あるいは少し違う人たちに目を向ける。「世界で活躍するためにはまず日本の文化を学ばなきゃね」というおきまりの文句がある。で、どんな文化? 茶道? 生け花? 趣味としては面白いと思うけど、それは死体だ。だってもう解剖が済んでいるから。きわめてきれいに整えられて、解釈がなされて、ストーリーが付与されている。それが文化の死体処理。そうして今や剥製としてガラスケースの中に展示されている「文化」という名の商品にすぎない。ツアー旅行を企画したいならそれでもいい。海外で博物館を巡って「先住民の伝統の舞踏」みたいなものの実演を見て、ミュージアムショップでそれらしきグッズを買って、それで何か深いことを知った気分になれるならそれでもいい。

本当に興味をそそるのは、世俗の人々のリアリティのある暮らしではないか。社会における光と陰ではないか。どのような規範があって、暗黙のタブーがあって、身分や階級はどのように構成されて、あるいはそこでどのように儀式が意味をなしているかではないか。そういうものをすべて漂白して資本主義の枠組みで再構成し直したあとに残るのは、いったい何だろうか。


思い出すべきは、わたしたちはすでに「日本にやってきている」ということだ。たまたま、この島国でインサイダーの顔をするための潜入作戦に成功している。他の国では話されていない独自の言語も理解できる。だったら、ここでフィールドワークをやる以外ないではないか。どこか遠くの小さな島国への留学をする機会を得たら、そのくらいのことをしようとは思うだろう。

もしそんな気分にならないのだとしたら、それは逆説的にあなたがあまり「グローバル」な視点を持っていないからだ。日本人であることに染まりすぎて、それを当たり前だと感じてしまっているからだ。いったん出自を忘れれば、この国の人々のありかたはいろいろと興味深いだろう。冒頭に挙げたような葬式は、たぶんもうすぐ見られなくなってしまう。今のうちに観察しておかなければならない。だって、こういうのは「文化」という商品として保存されることはなさそうだから。ほかにも、社会の輝かしくない側面は、文化が商品に変換されるときにぜんぶ抹消されるから、今のうちに見ておかなければならない。けっきょく、いまここでフィールドワークして馴染めないし興味も持てないなら、よそに行っても表面的な社会しか見ないで終わるだろう。

いまあなたが異郷の文化に興味を持っているのは、それが新鮮で非日常だからにすぎない。でも、これからの数十年で、日本という土地はきっと大きく変わっていくだろう。たくさんのものが、消えていってしまうと思う。もしかしたら、あなたもわたしも故郷を捨てて移民してしまうかもしれない。だったら、せめて限りある「日本留学」の期間、この夕暮れ時のきらめきをよく目に焼き付けておくのが一番有意義なことだと思う。

不在の在

よい教育は、卒業して終わるものではなくて、むしろ卒業を始まりにして一生続くもの。それが、「学び方を学ぶ、学ぶ姿勢を学ぶ」という言葉の意味。

よい本は、読み終わって情報を得ておしまいではなくて、むしろその後の人生で経験することの意味を変える。そうすることで一生影響を及ぼす。

よい人間は、出会って別れることが、その人との出会いの始まりにすぎない人間。「不在の在」その人がいないところでも、よい影響を受け続けられる、関係性がさらに育っていく、そんな人間のこと。

Out of sight, out of mindは避けられない運命かもしれない。でも記憶はなくなっても、それでもきっと人生に影響している。だから、関係性が持続することはそんなに重要ではない。本を再読するように、たまにまた会えたらうれしいけど。

想像力の先へ

社会で他人が不愉快な振る舞いなんかをしていたときに「とてもつらいことがあったり、特別な事情があったのかもしれないじゃん。そういう想像力が大事だよ。」みたいな言説、とてもよくあるもの。昔は好きだったけどなんだか浅く感じる。子どもだましでしかない。

そこで言う「想像力」がどうにも薄っぺらい。自分が持っている感性の尺度そのものは手つかずで、外部的な条件だけ変更する想像力でしかないから。根本的な思考の枠組みそのものを疑ってはいないから。「子供叱るな来た道じゃ。年寄り笑うな行く道じゃ」はたしかに有意義な人生訓であるにせよ、どこまでも「自分の延長の他人」でしかない。だから、自分が経験する可能性のある事情とか、直接経験する可能性はなくても理解の範疇に収まることしか考えられない。

その「想像力」は、動物にセリフを当ててしまうたぐいの「想像力」だ。異質な他者を怖がる気持ちを根本的には問い直すことなく、大きくて無根拠な同質性を土台に据えて安心しようとしている。差異に意識を向けようと言いながら、表面的で偶発的な差異だけに矮小化している。

だいたい、電車に乗る列に割り込んでくる無礼な人間にきっとそんな極端な事情はないじゃないか。育った文化圏だって多くは同じだ。そうじゃなくて、そもそもの考え方が違う。それは人生の中で一つ一つは取るに足らない小さなできごとの積み重ねでできている。根本的なところから、たとえ同じ世界に住んでいても経験はまったく異なるという事実を見つめないといけない。

他者との間で根底に同質性そのものが存在しないと言いたいわけじゃない。ただそれは、この世界のありかた、身体的存在のしかた、備える感覚のつくり、そういったものを一つ一つ吟味して、むやみに同じだと思っていないか注意深く疑いながら積み上げていかなくてはいけないもの。

けっきょく、安易に極端な事情を持ち出したって他人の振る舞いを説明することなんかできない。わけのわからない他人、あるいは他の生き物すべてそう。雑な「同じなはず」から出発して同じじゃないことに驚くのははなから間違っている。けっきょく、他人なんて解剖してみないかぎり人間なのかロボットなのか宇宙人なのかすらわかったものじゃないじゃないか。何も知らないのに、どうして当然のように自分と同じだと思っているのか。一度まっさらにして考えると、むしろ驚くべきなのは気味がわるいほど感情や思考が似通っていることのほう。

そうやって考えれば、想像力なんていらない。あるいはもっともっと大きな想像力こそが必要なのかもしれない。

This is (no longer) water: 心が変わってしまうこと

私たちは、物事を考えるとき、「自分の心が変わる」ということを忘れてしまいがちに思います。それはきっと、自分=世界の中心という揺るがしがたい直感があるから。そして世界の中心はすなわち不動だからなのでしょう。

だから、物事の因果関係を考えるとき、外的世界のことばかりを考えてしまいます。「Aを選ぶ→外的世界の因果関係→Cが起きて、Dが起きない」。Aを選ぶべきか、Bを選ぶべきか、思い悩みます。そういう選択は別に問題じゃないのです。間違えることはあるけど、間違えたってどうにでもなるからです。間違いというほどでもありません。限られた時間や情報の中で判断が不完全になるのは当たり前でしょう。

こういうとき、その「外的世界」には当たり前のように「他人の心の動き」が入っています。これをしたらあの人に嫌われるかな、そうしたらきっとあっちに話が行って、それで……。そんなことを考えることは珍しくないはずです。だけど、「自分の心の動き」はどういうわけか入っていません。まるで自分の心は思い通りに操れると思い込んでいるように。そんなわけないって、毎朝スヌーズボタンを押しながら実感しているはずなのに。


世界の中心は、動くのです。あなたの選択によって。あなたの心は変わる。そして、変わってしまったあなたの心は、今度はあなたを動かすのです。抗えないほどの力で。

日常に選択はつきものですけど、実際のところはどれを選んでもなんだかんだあまり変わらないところに落ち着きます。「りんごを買って帰ったけど、やっぱりみかんが食べたかったな。」じゃあ今度はみかんを買えばいいじゃないですか。単に「りんごが食べられなかった」ということは、過ぎ去ってしまえばもうそれだけで、未来に影響は及ぼしません。

けど、「赤い家を買う」という選択はどうでしょう。しばらくの間は「やっぱり青い家にしておけばよかったかな」と思うかもしれません。でもそのうち「赤い家が一番」と強く信じるようになります。そこに自分を正当化したい欲求があることに気づくことはむずかしいし、まして止めることはできないでしょう。青い家を買っていたら、まったく逆の考えになっていたことに気づくことも、むずかしいのです。自分が強く信じている信念が、まったく必然性がない恣意的なものだってことになってしまいますから。ほんとは逆を信じてもぜんぜんかまわないなんて、受け入れられるわけがないじゃないですか。

他人が違う考えを持つことは、まあ受け入れられます。ときとして簡単じゃないけど、できる。でも自分が違う考えを持つことはどうでしょう。ぜんぜん相容れない考えを、表面的に口先だけじゃなくて、心の底から信じる私がいたかもしれないってことを受け入れられますか。そして、本当は私はそっちになりたかったんじゃないかって思うことほど悲しいことは、実はあまり多くないんじゃないでしょうか。What do you want yourself to want?

感情や習慣は人を操ります。どんな意思を持っていようと、願ったように行動することはできません。あるいはどのような願いを持つかさえ、思うようにはいきません。他人を自分の利益のためだけに使いたいと思うか、そんなことは思わないか。いざというときに誘惑に抗えるかどうか。心の中で都合のいい言い訳を思いつくのは簡単です。


たぶん、これこそが本当に「選択」なのだと思います。自分自身が変わるとき、世界全体が分岐するのです。世界にある一つや二つのものが動くのではなくて、世界全体が動く。自分が動くから。あなたが、あなたじゃない人になるから。

動かしちゃいけない、固定しなさいって言ってるわけじゃありません。むしろ動かさないといけません。だけど、どう動かすかを考えないといけないってことです。だって、どっちに動かしたとしても、動かしたあとの自分にとってはそこが中心になってしまうからです。

どちらの道に行くかでその先の出来事も変わるし、周りにいる人も変わる。赤い家を買ったら、赤い家が好きな人ばかりになる。青い家なんて最低だって「常識」を身につける。逆もまたしかり。いったんそこまで入り込んだら、もう切り替えることはできない。でも遡ってみればどっちでも選べた瞬間があったんです。そのときには、きっと「選択」の重大さには気づいていなかった。


だから、行いを他人の目から隠すことに意味はないのです。一人や二人の他人が見たってどうせたいした影響はないでしょう。でも、どんな影でしたことも私は見ているし、未来の私は全人格でそれを表現してしまうのです。自分が見るということは、たとえ誰も見なくても全世界が見るということです。

訓話めいたことを言いたいわけじゃありません。ただ、小さなことの積み重ねは大きな力を持つ。ものごとのとらえかたが、だんだん積み重なって私たちにとっての現実全体を動かしていくという大きな力を発揮する。その力を私たちはすべての瞬間に行使しているのだということを言いたいのです。そして、それをどう行使するかについての責任を取ってくれる人は、他にだれもいません。

たとえば「人(々)を大事にする」ために大切なのは、その人に接している時にどうするかじゃありません。「人を大切にできる自分の心を育てる整えるために24時間365日の生き方に気を配ること」が核心なのです。スポーツ選手は試合の間だけがんばるのではなくて、常日頃練習をし筋肉をつけ食生活に気を配り生活している、それと同じことです。普段筋トレしていなかったら、球を打つ瞬間にどんなにがんばっても結果は出せません。条件が決まれば、筋肉も心も一定の能力を発揮することしかできません。けれどその条件は整えていくことができます。それは意志の問題です。私自身の、あなた自身の責任です。

私は、どんな私になりたいのでしょう。そうなるために必要なのは、どんな心のあり方でしょう。私は、どんな世界を望んでいるのでしょう。外的世界をそのように映し出す心は、どんな形をしている必要があるでしょう。どんな行動が必要かを問う前に、そのことをよく考えなくてはいけません。

それでも葡萄はすっぱい

The fox who longed for grapes, beholds with pain
The tempting clusters were too high to gain;
Grieved in his heart he forced a careless smile,
And cried, ‘They’re sharp and hardly worth my while.’ 1

金、肩書、名誉、人間関係、どんなことにしても、手に入れてないものを「そんなものはどうでもいい」と口にするのはためらわれる。ひがみみたいだから。まさにすっぱい葡萄の寓話のとおり。

だけど、それはずいぶん不健全なことだ。だって、人生は選択の連続だから。「まだ手に入れていないものを、手に入れないことにする選択」を毎日積み重ねている。なのにそれを口に出すことはしない。給与水準を最優先にしないで進路を決めたら、それはとりもなおさず金はたいして重要じゃないという判断だ。けど、そういうふうに口にすることはあまりない。そうやって人生の価値基準について話すことに後ろめたさを覚えるようでは、社会がどうあるべきかを話すことができなくなってしまうし、個々人の人生に対しても歪んだ気持ちを抱かせる。

何事であれ、持っていないことと持っていることは同様に不自由だ。持っていなければ欲する気持ちに揺さぶられ、持っていればそのための骨折りを無為だったと思いたくない気持ちに囚われる。「手に入れてみたらこんなものはどうでもいいと分かった」一見すると肩の力が抜けたように見えるそんな言葉ですら、手に入れた事実を見せびらかさずにはいられない執着を浮き彫りにする。むしろ、手に入れてないものについて、あっけらかんと話せることこそ、自由な生き方に一歩近い。

だから、臆せずに言っていこう。「葡萄はすっぱい」と。

ごはんにふりかけ

人生はね、ごはんにふりかけなんだよ。

人生は、カラフルで味の濃いふりかけ部分が本体なんじゃない。単調な白米の部分が本体。

白米が食べられるというだけで、雑穀や玄米しか食べられなかった時代に比べたら贅沢だよね。ありがたく思うべき。でもそんなの知らないし、無理な話。恵まれない人たちが地球上に、この町にだってたくさんいるとわかっていても、人生への不満も尽きない。

米の一粒一粒を眺めていると、人生の一日一日みたいに見えてくる。それぞれ少し形は違ったりするけど、でもだいたい同じで、区別するほどではない。

生きるっていうのは、肉や魚や野菜や果物、山の幸に海の幸、変化に富んだものを変わりばんこに味わっていくことじゃない。そうじゃなくて、毎日毎日、変わらずに米を食べ続けること。人生のどこを探しても、いつまで待っていても、どきどきわくわくの大冒険は始まらない。非日常に逃げても、すぐにそれが新しい日常になる。飽き飽きする毎日が人生であって、それだけが人生だってこと、受け入れなくてはいけない。

ただ、日々骨を折って、工夫をして、心を開いて、前向きに生きていけば、ふりかけをご飯にかけることができる。日常に変化が生まれる。まずは当てもなくごちそうを探すのをやめて、腰を据えて手元のご飯を大事にしなくちゃいけない。そしてしなやかに風に乗って、新鮮な面白さも大事にする。風林火山とはよく言ったもので、自然の本性に調和するのは、同時に風林火山の四つすべてになることなんだ。

ふりかけを得るために手を尽くしながらも、ご飯をないがしろにしない。だって、ふりかけがおいしいからって、ふりかけだけ食べようとしても食べられたものじゃないから。ふりかけは、つまらないご飯があってこそおいしいんだってみんな知ってる。なのに人生となると、どういうわけかみんなふりかけだけ求めてしまう。