生活がこわい

このごろ、夜遅くまでずっと大学に残る荒んだ生活をしていた。静かな夜の街を歩いて、帰宅したら寝るだけの生活。あるいは無為に夜更かしをしていることもある。食事は自室ではとらず、コンビニで買ったり食堂に行ったりしてすませる。

ところが最近引っ越して、何人かでの共同生活をはじめた。たまたま誘われたものに、渡りに船とばかり乗っかった。このままひとりでいたら心身の健康をひどく害しそうな気がしたから。

だからひさしぶりに、大きなスーパーに行って、買い物をする。食べ物だけじゃなくて、日用品も補充する。台所用品、掃除用品。自分で使う分と、みんなで共有する分。引っ越しのついでに収納も新しくした。そうやっていろいろなものを消費しなきゃ生きていけない。

買い物かごの中から、生活臭がのぞいている。レジに並ぶあのおばあさん、あの青年、あの子ども、そういう人たちとまったく同様に、自分も生活を営んでいる。新しい生活。見知らぬ街を開拓するのは好きだし、改めて生活をちゃんとしていけそうなことにわくわくする気持ちはもちろんある。

でも、心の中に水たまりができていることに気づく。まともに生活するっていうことが、そこはかとなくこわい。

自分がこうやって消費をして、いろいろなものを摂取して、排泄して、世間の一部を形成して、経済活動の一端を担っている。そういう大きな流れの中に、いやおうなく放り込まれている。それは当たり前のことだけど、ずっと目を背けてきたこと。

わたしが荒廃した生活に陥ったのは、単にめんどくさがりだったからだけじゃなくて、自分が世俗的な文脈の中に存在することや、肉体的に存在することを、認めたくなかったからなのかもしれない。


金を使うことがこわい。金を払っていろいろ買い物をしたり、サービスを受けることに抵抗感がある。自分が経済活動の一部であり、これからもハムスターがカラカラと回し車に乗り続けるように、わたしもどうにかして金を稼ぎ、消費し、生きていかなくてはいけないこと、その文脈から自由な傍観者のような存在には決してなりえないことを、レシートを受け取るたびに思い知らされる。

働かなきゃいけないし、税金を納めなきゃいけないし、家賃を払わなきゃいけないし、光熱費だってかかる。お金のために生きたくはないなんて言うのは勝手だけど、実際のところ金は前提条件であって、それなしには何事もできない。そうやって人生は条件とか制約とかがどんどん積もり積もって、目の前のことに追われるだけであっというまに終わってしまう。

経済活動において個人という存在は本質的に交換可能であること、そして人生の大半が単なる経済活動で占められてしまうという二つの事実は、明白に一つの結論をもたらすように思う。わたしの人生も、あなたの人生も、いくらでも取り替えが効く、凡庸で無意味なものでしかないという。


そしてまた、自分が肉体的な存在であることが、耐えがたい事実であるように思われる。

現代に生きるわたしたちは、肉を食べるために動物を屠る必要はないし、野菜は土を落としたものが売られているし、排泄したものは水に流れて、ゴミは行政が回収してくれる。そうやって漂白された生活をしていることへの問題意識は持っていたけれど、わたし自身はそれにすら臭みを感じてしまっている。

自分の身体は目に入らないけれど、感覚に訴えてくる。身体を忘れたくてお風呂に入らないでいてみても、食事を抜いてみても、寝ないでいてみても、身体はむしろその声を大きくして、不快感で存在を主張してくる。おとなしくさせるためには、世話をしてやらないといけない。

別に死にたいというわけではない。むしろ生きていることはそんなにいやじゃない。自分が知覚を持っていて、他者に知覚されているということは喜ばしく思う。ただ、自己の存在が、この俗世で生活していかなければならないように宿命付けられていること、そしてこの腐る寸前の肉塊によってのみ担保されているという事実は、受け入れがたい。