本当のミニマリスト

少し古い話題だが、ミニマリストなるものが一部で流行していたようだ。それはただアフィリエイト目的のブログが煽っていただけの実態のない現象だという説明も一理あるが、とりあえず実在した価値観だと考えることにしよう。

ミニマリストを人々がどう定義するのかは知らない。ただ、簡単に言えばモノを減らすことなのだろう。そうしたほうが様々な煩わしさから解放される。服は最低限だけ持てばいい。勉強机はなくてもカフェに行けばいい。調理器具はなくてもコンビニ弁当や宅配サービスを利用すればいい。特に都市部では住居費がばかにならないので、そうやって極力家賃が安い、寝られるだけのミニマムな部屋に住んで、その代わりにもろもろ外部のサービスを利用するというのはありだと思う。身軽に引っ越せるというのもメリットだろう。

実際、全てを自分で所有するモデルは無理があると思う。都会に住むなら、と再び留保した上でなら、自家用車を持つのは経済的合理性に欠けるし、家にエクササイズ道具を揃えるよりもスポーツジムの会員になったほうがいいだろうし、家庭菜園が夢だとしても庭付きの家を買うよりもレンタルの農地スペースを借りたほうが筋がいいこともしばしばあるだろう。資産を持つのも悪いことではないだろうし、豊かになる人はうまいこと資産を運用していることは事実だが(だって労働で稼げる金はたかが知れているから!)、それを適切に運用するために必要な認知負荷はかなり大きいこともまた事実だ。資産管理を趣味として楽しんでできる人ならともかく、そうではない人間は割り切って生きたほうがいいのではないだろうか。

そしてミニマリズムというのは単に「所有かレンタルか」という二項対立を超えて、「執着を減らす」思想なのだろう。「別にそれがなくてもいいではないか。困りはしないではないか。だったらいらない。物欲はなるべく抑えるべきもの。」その考え方もまた、消費主義に毒されたこの世の中で重要なものだと思う。もっとも、それほど新しい考え方ではないにせよ。

ただ、ある種のミニマリストは、というかネットで見かけるその手の人はほぼ例外なく、そういう合理性追及の範囲で妥当な線を越えて、ただの競争に陥っているように思う。それは承認欲求をかけた競争だ。激烈なまでの執着を感じさせる。端的に言って、矛盾しているように思われる。

むしろ切り捨てるべきは、こういう邪念なのだ。人に見て欲しい、認めて欲しい、尊敬して欲しい、そういう考えは、生きることを苦しくする。そういった欲求の基盤となる人間関係だって、けっきょくのところ悩みと苦痛の源でしかない。物への欲望と同じだけ悪いものだ。あるいはもっと悪いかもしれない。

何も求めるなとは言わない。けれどこの短い人生を生きるなら、求めるものは絞ったほうがよい。世間に流されて、あれもこれもと目移りしてはいけない。だれから好かれたいとか、評価されたいとか、そういう空虚なことを願わない。ただ自分の成し遂げたい仕事を成し遂げる。それだけを目標に生きたいものだ。生きている限り、自分は自分とともにあり、それだけは唯一失うことがない。物は壊れ、名声はかげり、家族や友人は先立ち、自らの記憶すら薄れゆく。どうしたら、後悔のない人生が送れるだろうか。あるいは「後悔しないこと」を求めることも、また空しい執着なのかもしれない。