過去から自由になること:自分の外にある自分

「自分」は自分の外にある。自分が何者であるかは、自分が持っている物、自分がいる場所、自分の人間関係、そういうものによって規定される。単に外からそういうふうに見られるというわけではない。自意識の上でも、全面的に影響されるのだ。自分とは、一つの身体の中に閉じたカタマリではなくて、自分とその周囲が総体として作り出す「場」に存在するものなのだ。

自分というのは一面的存在ではない。ある時点の自分は複数のコミュニティに属して複数の顔を持つし、また時間の経過とともに自分は変わっていく。親といたときの自分と、学校での自分、大学に進学してからの自分、就職してからの自分、あるいは自分の家庭を持ってからの親としての自分。さらには孫に対しての自分。75歳のあなたがいたとして、去年孫からもらったプレゼントと、20歳の時に恋人からもらったプレゼントがあったとする。どちらを身につけるかで、あなたの人物像、振る舞いそのものが変わってくるのではないだろうか。だから人はゲンを担ぐということをするのだ。何か重要な勝負に勝ったときに身につけていたものを、その後も事あるごとに身につけるのだ。その時の自分が現在に宿ると信じて。

そう、物には自分自身の一部が宿っている。それも、その物を使っていた時系列上の自分が。中学生のころから使っているポーチ、大学生のときにプレゼントしてもらってずっとつけている腕時計。新社会人のときにもらってそれ以来使っているペン。そういう物品には、当時の自分の残滓が付着している。それを使うたびに、当時の記憶が少し戻ってくる。ポジティブな意味づけができることもあれば、その逆もあるだろう。別れた恋人にもらったものは捨てるかどうかという論争はよく見かける。親の形見も同じようなものだろう。そこに表象されるのは恋人といた自分、親といた思い出、そしてそのころの記憶。

場所も記憶と密接に結びつく。駅の階段、交差点の風景、スーパーのにおい。街並みはしだいに変わっても、その場所の痕跡はそうそう消えるものではない。だから故郷に帰ってることが人にとって大きな意味を持つ。過去の場所は自分を当時に引き戻す。

人間関係もまた、自分の外の自分であり、現在と過去をつなぐものだ。人生の各ステージにおいて、人のつながりがある。そしてやがて離れる。80代の祖父母も、学校の同級生と会うときはまるで当時に戻ったかのように話をしていた。そう、他人との関係もまた、時間軸を持っている。あなたの過去と現在のあなたを結びつける。それだけではなく、他者の記憶にあるあなたと、現在他者の眼に映るあなたの間も結びつける。多層的な連関だ。

果ては形のない習慣によっても、やはり人は過去を映し出す。帰宅してからの風呂や食事や娯楽の順番、洗濯物のたたみ方、ノートの取り方。そして口癖の一つ一つ。そういうものはどこで身につけたものだろうか? 誰と、いつ? そのすべてが、あなたという人間を構成し、あなたをあなたの歴史と分かちがたくつないでいる。


そうやって、人が過去と結びついていることはかけがえのない価値を持つことがしばしばある。そうやってしか、自分を保てないことがある。特に、それは高齢になったときの命綱になってくる。

しかし問題は、人はときに変わらなくてはいけないことだ。特に若いときには過去の自分から離れて成長していかないといけないし、過去に何か乗り越えなくてはならないものを抱えているときはなおさらだ。そういうとき、持ち物、住む場所、人間関係、そして習慣や言葉を変えることが自分の変化を助けると思う。まだ使えても古いものは捨てるべきだ。あえて引っ越すべきだ。意識して新しいコミュニティに参加してみるべきだ。過去の自分から自由になるために。

ところが現代社会の問題は、いつまでもいつまでも他人と密につながっていられることだ。交通手段と通信手段の発展がそれを可能にしてしまった。過去の人間関係に浸っている限り、自分は過去に縛りつけられる。「大学デビュー」が可能だったのは、家族や旧友と離れて、過去からの他者の視線が遮断されるタイミングだったからだ。今はそれは難しい。たとえ会ったり写真を送ることがなかったとしても、テキストでやりとりしているだけで、内面化された過去の人間の視線が常に意識されて、自分のキャラクターを変えることは困難になる。

だから、ときにはきっぱりと次に進んだ方がいい。もちろん縁は保っておいた方がいいこともたくさんあるが、少なくともそれにどっぷりになってはいけない。新しい場所で新しい自分として新しい関係を築くべきだ。ときどき、新しい場所に移ったはずなのにうまく馴染めずに、過去の関係に逃避してそちらとばかり付き合う人がいる。慣れるまでしばらくはしょうがないこともあるかもしれないが、そういうのを続けるのは良くないことだ。


そして過去を離れ、自分を変えたいとき、実家暮らしは最悪だ。過去を映し出す大量の物があり、変わらない街にあり、そしてかつて一番大きな存在であった親がいて、自分はその子という立場に固定される。何も思わずに実家に暮らしていける人がいたとしたら、その人はそれまでの過去を全面的に肯定できている人であり、子どものころから精神性があまり入れ替わっていない人なのだと思う。きっと、過去を振り返ってもつらいことがあまりないのだろう。

そういう人は、時間性の強い人だ。現在に存在するだけではなくて、過去にも同時に存在している。さらに未来にも存在している。自分の幼少期、現在の自分、そして老年の自分が、全部一体つながって、その人をなしている。

私はそうはなれないから、実家を離れたし、昔から使っているものを捨て始めている。人間関係を派手に切ろうとは思わないが、こうやって新しいブログを作り、新しい自分を作っている。そうやって、過去から自分を自由にしたいと思っている。