What do they do here?

それほど長い期間ではないが、海外で辺境の村に滞在したことがある。かつて鉱物資源の採掘で栄えていた歴史は夢の跡。農業ができるような土地でもないし、かといって狩猟採集で自給自足生活をしているわけでもない。わずかな観光収入があるくらい。都市に出るまでは車で7時間。携帯電話の電波が入る村までも3時間くらいだろうか。ただ一本の道路も年の半分は雪に閉ざされ、小型飛行機が唯一の交通手段になる。そんな、辺境の中でもかなり隔絶された場所だった。

その村のはずれに、がらくたに囲まれた家があった。ヤードには廃車になったバスとか、古タイヤとか、ドラム缶とかが乱雑に積んであった。というか、家とガラクタの境界線がよくわからない、そんな散らかった住処に見えた。そこに一家族が住んでいた。ここで何をしているのだろう、と思って地元の同行者に"what do they do here?"と聞いた。返ってきた返事は"they live here"だった。何かがすとんと落ちた。

そう、人間にとって、生きること、暮らすことが先なのだ。どうやって稼ぐかはその後であって、何を稼業にしているかは何者であるかを規定するうえであまり重要でないし、そんなにすっぱり決まるわけでもない。

もちろん、これはそんなにいい話ではない。きびしい自然の中を自力で生き抜くのではない限り、けっきょく、生きていくのに金はかかる。ここでは人は少なからず福祉に依存して生きている。地下に眠る化石燃料と、遠くの都市の経済活動の恩恵に預かっているだけだ。そういう言い方をすると、私たちの「常識的」感覚からするとひどく情けない暮らしであるように思えてしまう。でも、そこに人の営みがあって、そこにひとつの生き方があるのだ。それを自分の持っている価値基準で評価することはひどくいけないことであるような気がした。

そこには、競争という考え方がないように見えた。「もっと」を求めていないようだった。どちらにせよ一つの商売は一軒しかない。どんなにがんばっても客が増えるわけでもない。村の住人は100人だか200人だかに限られるし、こんな辺鄙な場所までわざわざやってくる観光客の数だって増やせるものではない。だからほどほどでいいのだ。がんばっても、骨折り損になるだけだ。そういう価値観のようだった。そう、人々はともかく「生きて」いるのだ。それだけで、十分なのだ。

わたしは、わたしたちは、きっとそういう世界に生きることはないだろう。こちらの世の中では時間に追われ、競争に晒され、結果を残していかなければならない。べつに、あっちの世界にこそ本当の幸せがあるとか、そんな安易なことを言うつもりはない。そもそも、本当の幸せが何なのかなんてわかるわけがないではないか。ただ、広い世界で、人の生き方にはいろいろあるのだということを心に留めておきたいと思う。生きること。それはほかのすべてよりも先にある。どんなに失敗しても、敗北しても、職を失っても、なお生きていていいのだ。そう思うことで救われるときがきっとある。