書くことは病んでいるしるし

ブログを始めて数ヶ月が過ぎた。これまでもSNSなどにまとまった文章を投稿することはあったが、こんなにいろいろな話題について思うままに書くことができる気楽さはリアルの人間関係から切り離したブログの媒体ゆえのものだ。こんなに楽しいとは思わなかった。

ところが、最近奇妙に思うことがある。知人にブログに使うネタを部分的に話してみたり、あるいは原稿を見せたり1しても、たいして反応がないのだ。そして、こんなにたくさん文章を書いていると言うとだいたい驚かれる。なのに同時に、ブログ界隈ではもっとたくさん書く人達がいくらでもいる。考えも豊かだし、文章が魅力にあふれていてすばらしいなと思う。それはなにも有名ブロガーに限った話ではない。読者数が一桁二桁くらいのブログでも、宝石のように輝く文章をたくさん見ている。はたしてこのギャップは何なのだろうか。どうしてリアルで遭遇する世の中の人は案外文章を書かないのだろうか。

そう思いながら今日もいろいろな人のブログを見ていると、ふと気がついた。私が気に入っているブログはほとんどすべて、何らかの意味で「病んで」いるか、そうでなくても社会の「ふつう」なレールから逸脱した人達によって綴られていることに。そういうブログにだけ、不思議な魅力を感じるのだ。そういうブログだけが、自己の内面に目を向け、世の中を自らの経験に基づいて考え、その人なりの言葉によって生み出された文章でできているのだ。そういうブログだけが、本当に書きたい衝動に駆られて書かれているのだ2

そうなのだ。わかってしまった。ふつうの人は、書かないのだ。己の生い立ちや内心を何千何万もの文字に刻んで吐露するなんてことはしないのだ。ふつうの人は、書くとしても内容の薄っぺらいものだけだ。ふつうの人は、どこかで誰かが書いていたことをストックフォトとアフィリエイトと大量の改行とともに焼き直して、アクセスを稼いで広告収入を得ることくらいにしか興味がないのだ。対してどうだろう、内省的なブログは文字がびっしりと詰まっていて、引用もリンクもほとんどない。そう、こっちが私のいる世界。

そもそも、世界との不協和があってこそ書くことができるのだ。世界に溶け込めているなら、書く必要がない。書くことがない。

文章を書く人は、自己の内面世界と外部の世界の間に差異を抱えているのだ。例えてみるなら細胞膜によって隔てられていて、その内外で濃度が均一でないのだ。だから、内部から発信する必要がある。もちろん発信したって世の中は別に変わってくれるわけじゃないから、問題が解決するわけではない。ずっと膜にかかる圧力に耐え続けなければならない人生。

そしてまさにその差異によって、人々は社会から異常者とみなされる。差異ある者は狂気を持つ者であると定義され、精神医学によって作り出された病名3がつけられる。圧力は、このようにして作用するのだ。

世の中でうまくいっている人は、内と外でのずれが小さい。だから、溶媒である社会に溶け込むのに苦労がない。そのとき個人は切れ目のない存在として社会と一体をなし、社会は個人に内在する。文章を書くまでもなく、テレパシーを使うでもなく、何もしなくてもおおむね均質であるから、はなから通じ合っているのと同じことだ。均質であるから、自己の存在を規定する膜を意識する必要がない。膜に圧力がかからないから。そこに言葉はいらない。いや、言葉を使いはするが、しかし言葉が綴る意味を伝達することを目的としてはいない。差異を説明することが目的の言葉ではなく、同質性を確認することが目的の言葉。それがノリとか言われるものだろう。

それはどんなに生きやすいことだろう。そもそも、自己と他者の意味合いが変わってくるのかもしれない。自己の内外を厳格に峻別する必要がないから。人と人が部分的にせよ溶け合ったような自我を形成できる。だから彼らはあんなにも共感性を求めるのだろう。だから彼らは、卒業などで仲間のもとを離れるときにあんなに涙を流し、手厚く送り出し、その後もつながっていようとするのだろう。私は共同体に属している間はけっこうその場所を大事に思えるが、離れるとすぐに冷めるタイプだ。そのこともこれで説明がつく気がする。膜でしっかり分けて、自分を形成するコンポーネントは確保しているから、離れてもやっていけてしまうのだ。ある意味ではいいことかもしれない。どこにいってもやっていけるから。

文章を書く人間の性質は、他の創作物にも共通するのだろうか。音楽や絵画、あるいは彫刻。私の経験上、写真はわりと方向性が違うように思う。(一般的な写実的な)写真は被写体を表現することが第一であって、そこに撮影者の技量が入り込みはするが、それでも撮影者はどちらかというと黒子として振る舞う。文章は(少なくとも随筆については)写真とは反対に、文字によって描き出す客体より、描く著者そのものに焦点が当たる傾向が強い。絵はもう少し文章に近いかもしれない。


  1. このブログそのものがバレることはないように注意しているつもりだが、もし発見していたらぜひ直接連絡してほしい。怒らないから。

  2. ショーペンハウエル『著作と文体』の二つあるいは三つの著者のタイプに関するくだりを思い起こさせる。

  3. ここでは精神医学の学術的知見を否定的に扱うつもりはないが、しかしその社会的意義として一面では異常者をわかりやすくラベリングする方向に用いられたことが現在、あるいは少なくともかつてあったことは間違いないだろう。