ゆるすこと

私の長年の友人であり、一番の理解者であるあなたへ。

それなりの年数を生きているうちにたくさんの人と出会ってきても、掛け値なしに、あなたほど気が合う人はいないと思っています。そんなあなたに仲良く接してもらえていることを非常にうれしく思います。

だけどいまだに、あなたを恨み、できることなら仕返しをしたい気持ちが心に泡立ちます。思い出話に花を咲かせながら、この汚泥のような感情をあなたに投げつけたい衝動をどうにか抑え込んでいました。あるいは抑え込めてなくて、表情に漏れていたかもしれません。

かつて、あなたは私の敵でした。7年前の今日、あなたから届いた一通のメールがいまでも残っています。真っ正面から心を切り裂く内容でした。ありがちな人間関係のこじれと言ってしまえばそれまでとはいえ、いま読もうとしても、拒絶の刃の冷たさが心臓から広がっていくのを感じて、最後まで目を通すことができません。血の気が引くという慣用句が比喩的な意味だけにとどまらないことを知ったのは、このときでした。一連の記憶は曖昧模糊としていて、どこまでが実際に起こったことで、どこからが私の頭の中でつなぎ合わせたストーリーなのか判然としません。記憶があらかた消え去ったあとに、形のない痛みと恨みだけが残りました。経緯については当時の日記に記述があるものの、これも直視できません。掘り起こそうとするといまだに涙が溢れそうになるのです。あのころの私は、どうやって堪えることができたのでしょうか。あのころ、明日を迎えないで済む方法を考えなかったのが不思議なくらいです。

わかっています、きっと私も悪かったのだろうし、あるいはむしろ私のほうが悪かったのかもしれないってこと。お互い未熟で、必死で、悪意はなくて、ただ弱かっただけだということ。そんな昔のことをいまだに引きずっているなんて馬鹿げているってことも。だから、どっちが悪かったとか関係なく、実際何があったかも関係なく、もはやすべては過去でしかなくてどうでもいいはずなのです。なのに、あなたにひどく傷つけられたというこの感情は心の底で焦げ付いて、どんなに合理的な理屈でも振り払えなくなってしまいました。これまで感情に振り回される人々に冷ややかな目を向けていた私の無知を恥ずかしく思います。

でも、あなたのことが好きです。あのころから、心のでこぼこしたところによく気づいてくれる人だと知っていました。表面的にはあんまり似ていないけど、心の奥のほうがよく似ている同士だと思っています。一応の仲直りをして友人づきあいを再開してから、細く長く、ずっと頼れる人でした。実質知り合ってから一年未満しか同じ場所で過ごしてないのに、その後に関係性が深まっていくのは、なんて幸運なことでしょう。あなたに相談したことはそんなに多くはないけれど、人に悩みを打ち明けることがほとんどない私にとっては、どんなに貴重な支えだったことでしょう。願わくば、あなたにとっても、私の存在が意味のあるものであってほしいです。よかったら、これからもずっと友達でいたいです。

でも、あなたのことが嫌いです。プラスマイナスで差し引きできる問題ではないのです。あなたとの記憶は、いまだに私の心に空洞を残しています。あなたと出会い直せたらと、何度願ったことでしょう。いっそなかったことにしたいあのころの記憶が、あなたと私を結ぶただ一本の線だなんて、認めたくありません。なにもお互いにしんどかったあの一年に出会わなくてよかったのに。前にもこんなことを言ったかもしれません。そしてやさしいあなたは謝ってくれたのかもしれません。あるいは私からも、もうあのころのことはあのころのことだね、とか言ったかもしれません。それでもなお水に流せていない私がいます。たとえあなたがもう十回謝ってくれたとしたって、きっとなにも変わらないことでしょう。

だれかに親しみ好きである気持ちは、その人への敵意と共存できてしまうなんて、知りませんでした。いっそ、相反するものであればどんなに楽だったでしょう。「好意の反対は無関心」という使い古された台詞の本当の意味がはじめてわかった気がします。好きかつ嫌いであることはできても、好きかつ無関心であることはできませんから。「ゆるす」というのは、そもそも好きと嫌いが共存しないと成立しない概念なのかもしれません。それは、単に憎しみを取り去るという意味ではなくて、愛を憎しみとの終わりなき戦争から解放してやるという意味なのだと思います。

ゆるすことがこんなに難しいなんて、知りませんでした。もしかしたら、何十年経っても私はこの憎しみから抜け出せないのでしょうか。醜い感情は、時間が洗い流してくれるどころか、心の暗がりで朽ちていくうちに、よけいに拭い去りがたいものになっていくようです。表面的にゆるしたことにして握手するのも簡単ではないですが、だれかを本当にゆるし和解することは、なおさら難しいのですね。

そして、人をゆるせないことは、己をいつまでも苦しめ罰を受け続けることであると知りました。ただ私が過去から自由になればおしまいなのに、それができない。だから、私のことを一番理解してくれる人に、本心を隠して、苦しさを抱えながら接さなければなりません。さよならしてしまうにはあまりに大切すぎるあなたに、無邪気に接することができません。

あなたの心に、この一連のできごとは、こんな私の姿は、どう映っているのでしょうか。あなたが勧めてくれた『氷点』を最近読みました。罪と赦しが主題であるこの小説を私に勧めたのには、どんな意図があったのでしょうか。あなたにも、どうしてもゆるせないことがあるのですか。あなたはどうやって、過去にいつまでも執着する私をゆるしてくれたのですか。私があなたをゆるせる日は、来るのでしょうか。

選択肢がこわい

物件情報サイトを開く。あれこれの条件で絞ってもまだまだたくさんの物件が表示されて、写真、間取り、立地などの情報をスクロールしていく。どこに住もうかなあと想像を巡らす。選択肢にあふれている。そしてそれぞれの選択肢は、きっと人生で見る景色をずいぶん大きく変えてしまう。いつも乗り降りする駅、いつもの階段、いつもの路地裏の野良猫、いつものスーパーの半額時間帯、ぜんぶ、変わってしまう。

そういう選択肢がこわい。あまりにたくさんあって、どこかにする必然性は見いだせなくて、だけどその結果は重大な選択肢。一番いい物件を選んだつもりでも、本当にそれが一番かは蓋を開けてみないとわからない。それに、ひょっとしたらあと一ページ次まで見たら、もっといい部屋が眠っているかもしれない。あるいは来月見たらまた違うかもしれない、もしかしたら先月にすでに最高の物件は消えてしまったかもしれない。冬場の空調の効き方のむら、水道の蛇口の流量、近所にある定食屋さんの味噌汁の味付けと米の炊き加減。とても挙げきれないくらい膨大な日々の感覚、思考、経験を左右する選択肢なのに、調べ尽くすことなどできるわけもなくて、えいやと選ぶしかない。

もちろん、住めば都とはよく行ったもので、いったん住んでしまえばその街を開拓したり部屋を快適にしたりして、あったかもしれない選択肢のことはあまり頭に浮かばなくなる。でもときどき、何かを逃しているんじゃないか、ここよりいい選択肢があったんじゃないかという疑念が帰ってくる。

必然性が足らない。いや、人生に必然なことなどあっただろうか。陳腐な問いだ。そして同様に陳腐な答えは、必然など死以外にはなくて、それ以外は一定の水準の面倒くささを閾値として必然だと思いこんでいるだけということだ。

あるいは、使ったことはないけれど、就活サイトや結婚相談所も似たようなものだと思う。なんならより一層、人間の生活そのものを記号に縮約して交換可能な価値に還元している。取り替えられるはずのないものが、市場の論理に変換されて、取り替えられるようになっている。そして同時に、そうしたサービスを使うわたしも、取り替えられる存在になっている。それでいて、そういうサービスは、新しい故郷を、運命の相手を、やりがいのある天職を紹介してくれるかのような夢を見せ、もっともっと深入りさせようとしてくる。ほんとうは、使えば使うほど、必然性の幻想は破壊されていき、すべてが「これでなくてもいい」ことが明らかにされるだけなのに。

人生の裏街道

過去、あのとき、人生に大きな分かれ道があったと思うんです。だいたい20年くらい前かな。あのとき、違う道をたどっていたら、いまごろどうしていたんだろう、そんな考えにずっと付きまとわれて生きてきたんです。人生の裏街道、"wrong side of my life"を生きている。きっと表街道はもっと明るくて、広くて、にぎやかで、輝かしい人生が待っていたんじゃないか。そんな空想が頭をよぎります。あなたもそういうことを思ったことはありませんか。どこかに別の道があったはずだって。この人生はそこから先すべて間違っているのではないかって。

だからうれしいことも悲しいことも、ぜんぶ過去の注釈としての人生を生きてきてしまったんです。「ああだったから、こう」あるいは「ああだったけど、こう」の人生。それでもけっこうがんばってきたんです。あるいは周りにとても恵まれていたのかもしれません。いずれにせよ、かつては想像できなかったほどいろんなことをできているし、いろんな出会いもあったし、糧になる経験も得られたし、人生をちょっとずつでも前に進んでいるようには思います。だけどがんばった分だけ、空想上の「表街道の人生」も一層輝かしいものになっていって、けっして追いつくことはないことに気づいてしまいました。だってそれは蜃気楼でしかないのですから。つねに、今ここで生きている人生よりもう一段階二段階充実したものを考えてしまいます。

あくまでこれは裏街道だから、自分の人生はすでに失敗しているから、たとえどんなにうまくいくことがあっても、それははかない栄光でしかないのだとずっと思ってきました。やがてはまた暗がりに沈んでいくんじゃないかって、これは偽りの成功なのではないかって。だから同じ場所に属する人々に対しても、どこか距離を感じて、あの人たちは本当にここにいていい人たちだけど、自分は身分を偽って潜り込んでいるだけだとみなしていました。

わかっています。そうやってすべてを過去で定義しようとする、過去を出発点とする因果関係で説明しようとする引力に抗わなくてはいけません。未来には新しい日々が待っていて、それはいまの自分しだいで切り開いていけるものなのでしょう。過去の影響があることと、過去によって決まっていることはまったくちがうともわかっています。だけど、どんなに過去を振り切ろうともがいても、それによって未来がいかに変わろうとも、けっきょく自分も周囲もすべては過去の産物ではないかという意識に囚われています。

変化

変化という言葉がこれほど肯定的な意味で使われる時代がかつてあっただろうか。猫も杓子も変化変化。政治スローガンが変化に関するものばかりなのは言うに及ばず、仕事も生活もすべてが変化を謳う文句に溢れ、人々がみな変化を志向して生きている。社会を、生活を、そして自らを変化させようとしている。こんなに時の流れが速い時代だからしょうがないことだ、と受け入れるのは簡単かもしれない。

でも、変わることはそんなに良いことだっただろうか。変化を求めることはそれまでの否定だ。しかり、社会にはたくさんの問題がある。だからそれは変えたほうがいい。だけど私たちは変化中毒になってしまっている。新鮮なものはとりあえず肯定的に感じて、ひとときは満足して、でもじきにやっぱり粗が見えてくる。そこでどういうわけか「変化ってそんなにいいものじゃないな。不満があっても必ずしも変えたらよくなるわけじゃない」と考えるのではなくて、「変化が足りない。もっと変化をよこせ! 変化さえあれば幸せは約束されているんだ!」と叫んでいるように思えてならない。それを中毒と言わずしてなんと呼ぶだろうか。

とりわけ、外の世界の何かを変化させようとするのではなくて、自らを変えなければならないという半ば強迫的な欲求に囚われてしまうことがしばしばないだろうか。私はよくそうなる。そうやって自らを変化させようとすることは、現在までの自らそのものの否定であるから、ひときわ弊害が大きい。変化を肯定するからには「その変化を生み出す主体たる自分」を肯定できなければならないのに、その変化に肯定的な意味を持たせるためには「変化が作用する対象である自分」を否定しなければならない。

たとえば、あまり好きでもないことを勉強しなきゃと自分を駆り立てることができるためには、「自分はダメだ、勉強しない限り未来は開けていない」と信じると同時に、「そんな自分が勉強するという行為一つをすればどういうわけか明るい未来が約束されている」と思えなければならない。身体的にもまだまだ発達の途上にある子どもなら、変化することがすなわち生きることそのものだから、過去や現状の否定をしながら未来を肯定して生きる「矛盾」はそれほど問題にならないのかもしれない。けれど、どうやら一応形ばかり大人になって、どうやらもうあまり成長しないらしい私やあなたにとって、生きることはもはや本質的に変化をすることではなく、維持することでしかなくなってしまった。10年後の自分が劇的に変化していて、いまの自分には想像もできないようなことをしていると期待することは、もうあまりないだろう。そんな夢を見ても悲しくなるだけだと知ってしまったから。

そういう矛盾を抱えて、変化しなきゃという焦燥感が募るばかりの人生を生きている人が、けっこうな数いるように思う。けれど否定と肯定の自己矛盾をうまいこと消化してやることができなければ、健全に変化していくことはできない。ひとつには、過度な自己否定によって無力感、他者への責任転嫁や破壊的な衝動性に陥ることがある。これはいわゆる「真面目系クズ」みたいな言葉で示される対象といくらかオーバーラップしているかもしれない。もう一つには、変化の原動力となる否定の力が足りず、薄っぺらい変革ごっこを内輪でやって褒め合う末路もあるだろう。社会運動に傾倒しているようでいて、他人の言葉を借りてなんとなく満足しているだけの人々、あるいは起業というキーワードがよく出てくるけど結局何をしているのかよくわからないようないわゆる「意識だけ高い系」界隈がその例になるだろうか。

いずれにしても、こういうものにはまり込んでしまいやすいのはちょうどもう子どもではなくなってしまったくらいの「若者」世代であることが多い。あるいはそのままずるずると歳を重ねて行った層も含まれる。いままで自分が自然と成長していくこと、人生がその先に自動的に進んで、可能性が開けていくこと、それが当たり前だった。そういう人たちは、たぶん私も含めて、人生の離陸上昇から、次にやってくる水平飛行への移行に失敗してしまった。水平飛行しながらなおも高度を上げていくには、離陸上昇の続きをしようとするのではうまくいかない。そう気づく必要があったのだなと思い至る。

ほんとうは、変化を求めずに生きていけたら幸せなんだと思う。明日が昨日と同じでありますように。何も変わってしまいませんように。だけどもうきっと手遅れで、私たちは、私たちの社会は、いつの間にか自動スクロールのステージのように動き出してしまった。だから変化し続けなくてはならない。そのためには、自己否定と自己肯定をバランスする曲芸が必要だ。それはサーカスでボールの上に乗って、バランスを取りながら足元でボールを転がして進んでいく曲芸と同じだ。立っていることを崩さないことが必要であるのと同時に、前に進むためにはあえてバランスをずらさなくてはならない。私たちは、いつまで転ばずに曲芸を続けていけるだろうか。

願いごと

このごろ、残滓のような交友関係にはまり込んでいることに気づく。かつて身をおいた場所で付き合いのあった人たちとの関係を維持することを怠っていた。だからいまさら連絡してくるのは、人望のない人間、他に友達のいない人間、give&takeというよりはtake&takeの人間、そういった他者に見放された人たち。人間関係に受動的・消極的になると、付き合いのある人たちが絞られていき、職場などで好むとも好まざるとも日々顔を合わせる人たちを除けば、こうやってある種の下心から他人を利用しようとする人たちばかりになる。だから嫌な思いをしてなおさら人付き合いを倦むようになり、新しい仲間を見つけることに億劫になり、人嫌いの螺旋階段を駆け下りる。暗くて窮屈な世界は閉塞していき、自ら作り出した呪いのなかに墜ちていく。

そんなおりに出会ったある人は、まったく違った生き方をしていた。熱中しているものについて目を輝かせて語り、暇さえあればそのことを考えている。誰彼かまわず人に話をして、それぞれの人なりの協力を取り付けてくる。人生は、そういった主体性を持って生きればはるかに豊かなものになるに違いない。人々と主体的に、積極的に関われば、世界はひとりでに開けていく。あなたに協力してくれる人、親切をしてくれる人が次々に現れて、どんどん向こうに歩いてゆける。人々はびっくりするほど他人に親切にしたがっている。ただ、あなたが歩んで願い求めないと何も生じないというだけのこと。

だから、その人のように、この世界を好きで、何かに熱中して前向きな日々を送っている人にはますます機会が与えられるし、世を疎んで無気力な怨嗟とともに生きていたら、ますます厭なことが続く。世界は岩のように重たくて動かせないもので、あなたの道を塞ぎあなたを押しつぶすだけのものだと思いこんでしまえば、本当はその岩が動かせることに気がつかない。世界はこちらから働きかけていけるもので、無窮の広がりを持っているものであることを知っているのは、主体的に生きている人たちだけだ。そうやって、うらみつらみではなく、願いと努力で世界に向き合うのが、一度限りの人生に責任を持ってよく生きることなのだと思う。

けれど、そうして願いを持ち主体的に働きかけていくことと、執着をすることの違いは紙一重だ。労苦して帝国を築きあげれば、それを失う恐怖にとらわれる。私たちが何かを所有するとき、何かを作り出したとき、何かを達成したとき、あるいはさんざん骨を折った末に達成できなかったときですら、その「何か」の存在は私たちの心の中でひそかに膨らんでいって、そこから離れることがむずかしくなっていく。自由に追い求めていた何かが、いつのまにかその自由を奪うくびきに成り果てていることに気づくことだろう。自由であるためには、執着を手放さなくてはならない。

けっきょく、この世はままならない。もしそれが真実なのだとすれば、世界をただあるがままに受け入れる諦観だけが無為な苦しみから逃れた生きかたということになる。物は壊れ、名声は忘れられ、地位は嫉妬され、命には限りがあり、肉体は朽ち果て、精神は消え去る。何かを望むことは迷妄の入り口にある。

しかしひるがえって、すべてを諦めることは無力感に生きることであり、人生を呪い閉塞させることでもある。諦観は苦しみの自己成就予言なのではないか。諦観が取り除いてくれるという苦しみは、もとより諦観によってもたらされたのではないか。日々活発に行動している人たちを見て、そんな希望の色に染まった疑念が心に浮かんだ。それとも、活発で主体的な生き方というのは、燃え尽きようとしている若さの最後の輝きなのだろうか。その先には、動かそうとしても動かない岩が待ち受けているのだろうか。

思えばたくさん願いごとをしてきた気がする。そのうちのどれほどが叶えられ、どれほどが打ち捨てられたことだろう。何かを願うときはいつだって、自分の心のひとかけらがちぎり取られるような感じがした。叶わなかった願いごとの痛みが積み重なって、やがて呪いに変わるくらいなら、最初から願わないほうがいいのだろうか。それは、単に最初から呪うこととどう違うのだろうか。

内省することと摘み取ること

「庭の木を剪定する時季は、冬の早いうちでないといけない。そうじゃないと、春に出てくる新芽まで切り落としてしまうことになるから」そんな言葉が記憶に残っている。


自己について内省を巡らすことも、これと似ていると思う。それは混沌として、散らばって、はっきりした形を取らない自己を再構成する作業。輪郭を作り、形を積み上げていく過程。あなたがそうやって自身に形を与えるとき、整合性のあるナラティブをあなたの人生に与え、それを延長することで未来を志向しようとするとき、あなたがいままさに芽生えさせている新芽は失われてしまう。新芽は形がととのっていない部分だから。


人生を生きていくうちに、さまざまな転換や変容の機会が偶発的に訪れる。それはあなたの内側で生じたノイズ、気の迷いが具現化したものであることもあるし、あるいは外部からやってくるチャンスであることもある。いずれにせよ、そういう雑多なもの、取るに足らない小さな突起を日々少しずつ付け足していくことで、あなたという人間の形は思いもよらないような変貌を遂げることができる。

たとえば別にわざわざお金を払って試してみようと思わないタピオカを、ある日の夕方に友達に誘われて付き合いで飲んでみるような小さなこと。そういうことが、やがて「映える」ものが好きな人間にあなたを変えていくかもしれない。その変化はもしかしたら好ましくないと感じるものであるかもしれない。けれど、いま持っている価値観を形成しているのは過去のあなたであって、未来をどう生きるかはいま現在の価値判断に拘束される必要などない。

価値観を形成する、選択の基盤を形成する「メタな選択」も含めて自分の選択なのだから、あなたがAを選好するかBを選好するかをあたかも外部的に決定されたものであるかのようにみなすのは端的に誤っている。あなたは自らの好み・価値観に対して責任があるし、何人たりとも代わりにあなたが何が好きかを決めることはできない。だから、あなたは変化していくことができる、いま現在持っている価値観を超越していくことができる。畢竟、そうやって世界は広くなっていくのだ。


つねに内省的な考えを巡らすのは、つねに庭木を剪定し続けるのと同じことだ。すでにある形が変化することは決してできないし、成長していくこともできない。成長というのは、いびつな瞬間瞬間、その微小な変化を足し合わせた結果として生じていくものだから。どの瞬間も整合性を取り、どの瞬間も左右対称であり続けようとしたら、前に向かって一歩を踏み出すことは永遠にできないのと同じだ。

人生を幾何学的に構成することはできない。直線であれ円弧であれ、そういった図形で美しく構成され、塵一つ落ちていない極限の完成形は、極限まで冷涼で、無機質で、生命にそぐわない。均整の取れた自己像を描き出そうとするのは、自殺欲求の一歩手前にある。どちらも人生に完成形を求めている。ペットの毛並みをきれいに維持することが至上命題になれば、その生命は根本的に否定されてしまい、いっそ剥製にしてしまったほうがいいという結論に至る。

内省は過去についてしかすることができないから、内省でストーリーを積み上げすぎることは、過去のあなたに縛られ、過去の価値観に閉じこもり、未来をすべて過去の注釈として生きることにつながる。戦争や、災害や、事件などに巻き込まれた経験の語り部となっている人たちは、そういう生き方を選んでいる。それは自己を犠牲にする生き方であり、社会の未来のために自分の未来を捧げる献身的行為だ。しかしそのように自らの経験を役立てるわけでもないのに、進んで過去の奴隷と化すことは、単に人生を投げ捨てているだけだ。

とりわけよくないのは、そうして導き出した自己像をあとから容易に目にすることができる形で記録に残してしまうことだ。記憶とともに失われるべき過去が、朽ちて土に還るべき排泄物が、鮮度を保っていつまでもそこに残ってしまう。それは呪いとなって、あなたをつなぎとめる錨となってしまう。あるいは特定の時点で気に入った小説や詩といった他人の書き記したものをいつまでも大事に抱え続けることも、同様に、鏡の中に写った自己像を凍結保存することだ。

だけど何よりも一番いけないのは、特定の時点の思想や自己像だけでもって他人とつながることだ。特に、さまざまな現実的な制約を抜きにして、純粋に精神的な面だけでつながれる媒体で他人とつながってしまうこと。それは、単にある時点でのあなたの姿を保存しておくのみならず、その鏡像に命を与えてしまう行為にほかならない。他者が紡ぐ文字の向こうにあなたが見ているのはあなた自身でしかないのに、いまはそれと対話ができてしまう。仲良くなることができてしまう。連帯を形成することができてしまう。そうしてあなたはあなたが作った蟻地獄にいつまでも囚われ続ける。


わたしたちは日々肉体的に老いていく。その事実を好意的に受け止める人間はおそらく少ないことだろう。わたしもそうだ。でもときどき、老いはなんてすばらしいことなんだろうかとも思う。だって、もし老いるかどうかの選択が可能だったら、わたしを含めどんなに多くの人々が時間を止めようとすることだろうか。考えてみてほしい、あなただったらどうするかを。どんなに多くの人々が、成長を、変容を、人生を、すべて投擲して、時間軸のある一点に醜くしがみつこうとするだろうか。それはどんな地獄だろうか。老いることがしばしば醜いのは、老いの内包する変化そのものが醜いからではない。老いとともに人は変化を拒絶し始め、自分に生えてくる若芽を切り落とし、古い枝に固執するようになるから醜くなるのだ。

ここで気づかなくてはならないのは、肉体的成長や老化と違って、精神的成熟は、必ずしもひとりでには起こらないということだ。過去にしがみつこうとすれば、そこで立ち止まることができてしまう。変化を拒絶することができてしまう。それは、生けるものの宿命を拒絶することだ。その宿命とは、わたしたちはやがては死ななくてはならないということ、生きる毎日は死に向かってまっすぐ歩んでいく道程にほかならないということ。

人生の最後に最大の変化が待っている以上、わたしたちは変化を拒絶するのではなく、変化を生きなければならない。いやむしろ、変化することこそ生きることそのものなのだ。精神的変化を拒んで、生をもはや生ではない何かに変えてしまって、そのことに気がつくこともない人間のいかに多いことだろうか。変化を拒むその態度こそがむしろ老いそのものであって、どんなに年齢が若くてもそれは同じことだ。


木々は、ときどき剪定してやらなくては美しく調和の取れた庭を作ることはできない。ただひとりでに伸びるままにしていたら、その景観には何ら意味を込めることはできない。それでいて、剪定しすぎてもそこに命のこもった意味、変容のさなかにある意味が生じることは不可能になってしまう。この世は、中庸を要求するものだ。まずは生きよう。変化を、偶発性を祝福しよう。その上で、しばらく歩んでから、たまにだけ振り返ってみることにしよう。若い枝を自由に伸ばしてやろうではないか。夏は、もう近くまでやってきている。日光が降り注ぎ、蝉が命を輝かせる。あなたの知らないあなたが生まれる夏になりますように。

空隙を埋めるもの

森で大きな木が倒れたとき、樹冠に空隙ができ、そこから日光が地上に届くようになる。普段は地上から苗木が育つことは難しいが、そのときだけは別だ。そういうとき、どんな木が空隙を埋めるかは大事なことだ。だって、それは貴重なチャンスだから。とりあえずなんでもいいから埋めればいいわけではない。将来長くにわたって森の生態系に影響がある。

人生も、これと同じだと思う。人生で大きな空隙ができる機会はときどきある。卒業、退職、離別や死去。そういう機会で、あなたの心の中や生活の中にぽっかりと隙間ができる。友達や、家族や、仕事や、あるいはペット、そういうだれか、なにかが占めていた場所に。あるいは人によっては毎週楽しみにしていたテレビ番組や連載の漫画が終わってしまっても同じ感覚を受けるかもしれない。

そういうとき、わたしたちは安易に空隙を埋めようとする。真空の空間が近くのものを何でもかんでも吸い込むのに似ている。だけれど、たぶん、そのときほどわたしたちは一番気をつけなくてはいけないのだと思う。安易に他人の存在で寂しさを紛らわそうとしたり、コンテンツの消費で充足しようとしたり。刹那的な気持ちで気軽に手を出す気持ちはよくわかる。だけど、そうやって一度空隙を埋めてしまったら、そう簡単には入れ替えることはできないことを忘れないでほしい。隙間ができるのは貴重な、大事なチャンスだ。都市の再開発をする千載一遇の機会みたいなものだ。駅前の一等地に広大な空き地ができる機会はめったにないではないか。

どうか安易に埋めようとしないでほしいと思う。空虚感がつらいのは、単に空洞に空気が詰まっているからではなくて、その空洞が真空で、内側に向かって崩れ落ちようとする力がかかるからだ。だから、その場しのぎの詰め物は、この先のあなたの人生のためにならない。心をしっかり保って、空隙を見つめて、そこにこれから詰めるべきものをよく考えてほしいと思う。「自分を大切にしなさい」と表現することもできるし、「安易に走るのではない、甘えるな」と表現しても同じことだ。それはあなたの人生に長く長く影響することとなるから。一度埋めてしまうと、取り返しがつかないから。