関係性は作るもの

あるときこんな問いに出くわしました。「あなたが本当に素直に頼ったり相談できる人は何人いますか」見当もつかない。周りに人はいるけれど、本当に頼れるのでしょうか。

あるいは、ある人を形容するときに「友達」と呼ぶか「知り合い」と呼ぶかで迷います。向こうはどう思っているのかな。

だれかが自分のことを第三者に紹介するとき「この人は親友」みたいに言う。そうなのかな、と胸の中で思う。悪い気はしないけれども。

……これらはいずれも、ある弱さの表出なのだと思います。拒絶されて傷つきたくない心の弱さ。他者との関係を自分の意思で決めようとする勇気の欠如。


人と人の関係性は、先にどこかに規定されている正解を発見するものではありません。そうではなくて、相互に築くものなのです。例えるなら池に浮かぶ二艘の舟。その動きは常に相対的で、相手も動くし、自分も動くことができる。そしてどの程度の距離にするかにはお互いに責任がある。なのに、弱さゆえに、自分という舟が動けない小島だと誤解してしまう。相手が考える正解、あるいは天が与えた運命が先に決まっているものかのように。

違うのです。正解などどこにもない。与えられた真実を探すのではなく、あなたの望む真実を作りにいかなくてはいけない。作用を受けるだけではなく、作用を及ぼすこと。それが「親友」戦法を使ってくる人間のやり方なのです。親友だなんてきっと向こうも思っちゃいない。ただ、その発言があなたに対するシグナルとして働くことを知っているだけ。だいたい、「親友」が自然にできると思っているのは、恋人が空から降ってきたり白馬に乗ってやってきたりすると信じているくらいメルヘンな考え方でしょう。別に人に近づかなくてはいけないわけではないから好きにすればいい。だけど、もし近づきたいなら、ただ待っていて寄ってくるのは何か企みのある人間だけだと理解しなくてはなりません。

もちろん、関係性を規定しようとすることで拒絶されるかもしれない。離れていってしまう相手もいる。ありがちな言葉で「万人に好かれることはできない」というだけの話です。誰にも嫌われないように生きていたら、だれとも有意義な関係は築けない。最大公約数的な関係は、とりもなおさず、いくらでも交換できる関係なのですから。だからこそ、自分からシグナルを送って関係を深めないことは、すなわち拒絶の意味になってしまうのです。相手側から動いてくれるのを待ちながら、関係性が深まることを理解するのはナンセンスでしかありません。


だから、人との付き合いは年数の問題でもないのです。一緒に過ごした期間と、離れ離れになってからの期間の比率の問題でもない。あなたが関係性を続け、深めていくための行動を起こすか、起こさないか、単にそれだけの問題です。何もしてないなら当然疎遠になる。「ほどよく水平飛行させたい」そんな虫のいい話があるはずがないでしょう。関係性は上昇するか、さもなくば下降するかのどちらかしかないのです。糠床と一緒で、まめに手入れすれば味わいが増していくし、しないなら腐ってしまう。

「あなたが本当に素直に頼ったり相談できる人は何人いますか」そうやって受動的に考えることが間違いのはじまり。あなたは、だれかに本当に素直に頼ろうとしましたか、相談しようとしましたか。