石の永遠・命の永遠

以前、恩師の恩師に一回だけ出会ったことがある。話してみると、まったく同じではないけれど、恩師の教えの原型があった。感動してしまった。だって、そこに命の連続性を見たから。そうやって人と人は間接的にもつながっていけるという希望を得たから。わたしは、わざわざ恩師の恩師に出会わなくても、恩師を通して、とっくに出会っていたのだ。たとえ顔も名前も知らなくても、だれかの命を受け取って、わたしたちは生きているのだ。


私たちは、「永遠」であることに価値を見出す。だから、石を積み上げ、粘土板に文字を刻み、金を買い集める。墓碑銘に刻まれる肩書と言葉のために骨を折る。けれどそれは、石の永遠だ。命は、そうやって永遠を得ることはできない。Shelleyのソネットが唄っている。

Ozymandias - Wikipedia

And on the pedestal these words appear: 'My name is Ozymandias, king of kings: Look on my works, ye Mighty, and despair!' Nothing beside remains. Round the decay Of that colossal wreck, boundless and bare The lone and level sands stretch far away.

今日何をしようと、今日は昨日になり、おとといになり、どんどん過去に流れていく。100年前、いや10年前のものですら、この変化の速い時代にはあっけなく消え去ってしまう。時間軸にある固定の点を定めて、それを残そうとすることが、どんなに空しいことか。石ですら、けっきょく永遠にはとどかないのに。

人の関係性も、感情も、また永遠ではない。「出会いは別れのはじまり」と言うとおり、人と出会えば、いつか別れるときが来る。そもそも、万物は流転する。だから、無形有形を問わず、「それそのものがそこにある期間」だけに価値を求め、永続性をよしとするのは、やはり石の永遠に陥る。そうじゃなくて、もう会うことがなくなっても、どこかでずっと影響を受けているような、そういう出会いをしたことはないだろうか。そこにこそ連続性がある。そして連続性こそが、命の永遠。そもそも、私たちの身体ですら、構成する細胞はどんどん入れ替わっていって、かつてのあなたといまのあなたが物質的に共有するものは存在しないのだから。

生きることは漸化式だ。昨日が今日を作り、今日が明日を作り、明日は明後日を作る。それだけで十分。三日もすれば今日何をしたかは忘れてしまうけど、それでも時間はつながっている。間接的に、三日後だって今日のおかげで存在する。二ヶ月後だって、十年後だってそう。あなたが死んだあとだって、あなたのことをだれも覚えていなくても、間接的には、あなたは影響を及ぼしている。その影響がよいものであるように努力できるのは、いま生きている間だけだけれど。