民間試験&記述式が導入されちゃえばよかったのに

べつにそうすることがベターな入試を実現するなんて思っちゃいません。五十歩百歩とは思っていますけど。

論争に関わっている人たちがみな、すべてを学校のカリキュラムと入試制度でどうにかしようとしすぎているのです。学校教育(塾・予備校を含めた全体)が人生の四分の一くらいを支配することに疑問を持たず、むしろ半ば崇拝していることにめまいがします。

もはや古典と言うべき『脱学校の社会』(イヴァン・イリッチ)を紐解いてみましょう。イリッチは、学校教育が制度として押し付けられることで、学びの二分化をもたらすと批判しています。学校で教師から教わるのがだけ正当な学びであり、それ以外の学びに意味を認めない社会になる。人々がそれぞれの方法で自ら、あるいは協力して学ぶことを阻む。そうして人々の自由に学び、それを活かして働く機会を奪う。病院が制度として普及されることによって病気を医者によらずに自分で治そうとすることが無責任とみなされることと似ている。そのような官僚的制度で社会全体が「学校化」されていると述べます。さらにそのことが必然的に格差の再生産を繰り返し、持てるものを富ませ、持たざるものをさらに追い詰めるシステムとして機能すると。

この指摘を入試の文脈にあてはめて考えてみましょう。たしかに代わりとなるベターな入試制度やカリキュラムを編み出すことはむずかしいでしょう。きっとそんなものはありません。そうではなくて、人々が教育制度・入試制度を信奉していることが問題なのです。結果、入試が国民的お祭り騒ぎになり、高校生、あるいは中学生や小学生までもが多大な時間を受験勉強に捧げ、大学名ばかりが異常なブランド力を持っている。これらはどれほど有害なことでしょうか。そして、今回の入試改革が白紙撤回されたことを喜んでいる人たちのどれほどが、これらに問題意識を持っているのでしょう。端的に、受験という現象が巨大なmadnessであり、そもそも学校教育というミームが猛威をふるっていることが異常なのです。イリッチが「学校は近代化された無産階級の宗教」と述べているのはきわめて当を得ています。

実際、高校生にとって受験は服役みたいなものにちがいありません。話してみると、どんなに独創的でおもしろく有意義な活動をしている高校生も、「来年は受験だから……」とか言いながらやりたいことができないことを当たり前のように受け入れています。それは児童労働と同じくらい不正義ではないのでしょうか。韓国籍の友人が「来年から兵役だ……」と嘆くとき、ああ陸続きで紛争を抱えている国は大変だな、かわいそう、早く平和になって兵役が廃止されたらいいのにね1、と思うのですが、それと同じように理不尽に思わないでしょうか? あるいは電車の中で見かける「アフリカのかわいそうな子どもたちは毎日川から水を汲んでくる重労働に時間を取られています」というのと同じくらい「かわいそう」じゃないでしょうか?

また、大学生になってからも、受験という儀式がすっかり意識に内在化されて、自由を奪われているのも見て取れます。ちょっとしたことをいろいろな大学の学生に教える機会が以前ありました。そのとき、「滑り止め」的な立場の大学の学生が抱えている「どうせ自分なんかががんばっても◯◯大の頭のいい人たちにかなうわけない」という学習性無力感の根深さに驚かされずにはいられませんでした。「名門大学」の学生が屈託なくのびのびと挑戦できることとはっきりしたコントラストをなしていました。できるかどうかなんてやってみなきゃわからないのに、はなからがんばる気力を失ってしまっているのです。そうやって数多の若者たちに敗者のレッテルを貼る制度が社会のためになるとは思えません。

この点はイリッチが問題視していることの一つと大きく重なります。それは、学校教育(ここでは受験の枠組みに乗っかることも含めて考えます)が広まり、押し付けられるにつれて、そこにアクセスできる層だけでなく、アクセスできない層にすら「本当は学校に行かなければならない、そうしていない自分たちは劣っている。」という意識を植え付けてしまうというものです。この文脈は現代日本にはそのまま当てはまりません。とはいえ、一応就学はしていて、高校に行き、なんなら大学にも行く層であっても、「ちゃんと」教育・受験の枠組みに乗れていない人々が多数いることもまた事実であり、実質的に同じような構図をなしているのではないでしょうか。教育・受験の枠組みはそれらの人々にたいした便益を提供できないわりに、落伍者の意識だけはしっかりと植え付けます。むしろ受験という勝敗をはっきりわけ、敗者は得るもののない仕組みが強大に君臨することは、イリッチが観察対象にしていた社会よりなお悪いと言えるのではないでしょうか2

だから、入試や学校教育の権威は失墜するべきなのです。少なくともちょっとくらいは。教師の権威はすっかり色あせたのに、顔のないシステムが猛威を振るうことは止む気配がありません。だから、今回批判されまくっている制度に変わってしまえば、「入試なんて信用できないし、それを当てにしたカリキュラムをする学校教育なんてさして意味がない」というふうに、ちょっとでも権威が揺らいでくれることを期待したのです。残念ながらそうはなりませんでしたが。これは、いかに国民が教育への信仰を持っているか、それによる序列が崩されることを忌避しているかの反映でしかないのではないでしょうか。けっきょく、どんな入試制度も恣意的なのに3

昨年4月の上野千鶴子のスピーチは格差、特に「恵まれていること」とそれへの無自覚がポイントでした。現状の制度の中でアクセシビリティを担保することはもちろん重要ですが、けっきょく、強力な学校教育制度から脱線してはならず、そのまま単一指標で測られる「いい大学」に行くことがゴールであるという枠を維持する限り、どうやっても格差が教育によって再生産されることは変わりません。もしあのスピーチの趣旨に賛成するなら、どうしてだれも(民間試験が費用がかかるうんぬんの細かいことより)もっと根本的な問題に目を向けないのでしょう。

教育に関する議論は、だれも距離を取ることができないから、すれ違ってしまいがちです。日本に現在生きていて、この問題を遠くから眺められる人などいないでしょう。だから、群盲象を評すごとく、的はずれな議論ばかりになってしまいます。この記事だって間違いなくその一部。古代人、未来人、宇宙人の三人がこの様子を見て話し合えば、きっとお互いに議論が噛み合うことでしょう。だけどいまここに生きている私たちだけには、それが見えない。それほどに人々の人生を飲み込んでしまう装置であるという意味で、この入試・学校教育のすべてがmadnessだと言っているのです。それをちょっとでも壊してくれるかなと期待したのですが、だめでした。

極論でしかないことはわかっています。単にふたつの制度で比べるなら現状維持のほうがいいでしょう。それでも、このまま社会の狂気が続いていくことを、よしとすることはできません。ゆとり教育といい、今回の改革といい、趣旨としては科挙の試験のような序列と、そのための教育を改める試みであって、まっとうな理念を持っていたはずなのに、どうしてこうもゆがんでしまったのでしょう。でもそもそもゆがんでしまったかどうかに関係なく、推進派と同じくらい、反対派も結論先行で反対していた(叩くとホコリが思ったより出てきたので、まともな反対理由が結果的には付いた)ように感じられてなりません。


  1. もちろん、そうなった経緯には日本が関係するわけで、こう他人事のように思うわけにはいかないですが、ここでは関係ないこととさせてください。

  2. とはいえなんだかんだ言ってもイリッチの議論が当てはまるのはやはり部分的で、まるまる受け入れるのは無理筋です。また当てはまるかどうか以前にもさまざまな議論があるところでしょう。本記事ではあくまで部分的に援用するだけにとどめます。

  3. たとえば英語を試すことがそもそも公平でしょうか? どこで生まれ、どこで育ったかという出自によって大きく差が出てしまうのはいいのですか? なんならエスペラントとかにしたほうがいいのではないですか? もっと言えば、入試一年前くらいに毎年新しいパズルを発表して、それをヨーイドンで練習したら余計な差がつかないのではないですか? でもそれだって、今度はそんなことに時間を割ける環境とそうでない環境があるでしょうね。逆に実際に将来役に立てることを重視するなら、中高生のうちに留学経験でも積んでいることを評価できるようにしたらいいんじゃないでしょうか(ふたたび同じ例になりますが、韓国にはこの風潮が以前からあるように感じられます。日本経済が縮小する中で、経済規模が小さいため海外に活路を求めなければならない立場を以前から経験していた韓国を日本も後追いすることになるのだと思います。)。あるいはそもそも日本の大学が沈んでいって、今後は大学からは中国に行くのがふつう、とかなるとしたらどうするべきなんでしょうか。ここで細かい議論をしたいわけではありません。いずれにせよ、さまざまなトレードオフがあり、どうやっても欠点があることは明らかなのに、あたかも公明正大な最適解であり若者にベストな未来をもたらすものかのように現状の入試を持ち上げるのはナンセンスです。