選択肢がこわい

物件情報サイトを開く。あれこれの条件で絞ってもまだまだたくさんの物件が表示されて、写真、間取り、立地などの情報をスクロールしていく。どこに住もうかなあと想像を巡らす。選択肢にあふれている。そしてそれぞれの選択肢は、きっと人生で見る景色をずいぶん大きく変えてしまう。いつも乗り降りする駅、いつもの階段、いつもの路地裏の野良猫、いつものスーパーの半額時間帯、ぜんぶ、変わってしまう。

そういう選択肢がこわい。あまりにたくさんあって、どこかにする必然性は見いだせなくて、だけどその結果は重大な選択肢。一番いい物件を選んだつもりでも、本当にそれが一番かは蓋を開けてみないとわからない。それに、ひょっとしたらあと一ページ次まで見たら、もっといい部屋が眠っているかもしれない。あるいは来月見たらまた違うかもしれない、もしかしたら先月にすでに最高の物件は消えてしまったかもしれない。冬場の空調の効き方のむら、水道の蛇口の流量、近所にある定食屋さんの味噌汁の味付けと米の炊き加減。とても挙げきれないくらい膨大な日々の感覚、思考、経験を左右する選択肢なのに、調べ尽くすことなどできるわけもなくて、えいやと選ぶしかない。

もちろん、住めば都とはよく行ったもので、いったん住んでしまえばその街を開拓したり部屋を快適にしたりして、あったかもしれない選択肢のことはあまり頭に浮かばなくなる。でもときどき、何かを逃しているんじゃないか、ここよりいい選択肢があったんじゃないかという疑念が帰ってくる。

必然性が足らない。いや、人生に必然なことなどあっただろうか。陳腐な問いだ。そして同様に陳腐な答えは、必然など死以外にはなくて、それ以外は一定の水準の面倒くささを閾値として必然だと思いこんでいるだけということだ。

あるいは、使ったことはないけれど、就活サイトや結婚相談所も似たようなものだと思う。なんならより一層、人間の生活そのものを記号に縮約して交換可能な価値に還元している。取り替えられるはずのないものが、市場の論理に変換されて、取り替えられるようになっている。そして同時に、そうしたサービスを使うわたしも、取り替えられる存在になっている。それでいて、そういうサービスは、新しい故郷を、運命の相手を、やりがいのある天職を紹介してくれるかのような夢を見せ、もっともっと深入りさせようとしてくる。ほんとうは、使えば使うほど、必然性の幻想は破壊されていき、すべてが「これでなくてもいい」ことが明らかにされるだけなのに。