人生の裏街道

過去、あのとき、人生に大きな分かれ道があったと思うんです。だいたい20年くらい前かな。あのとき、違う道をたどっていたら、いまごろどうしていたんだろう、そんな考えにずっと付きまとわれて生きてきたんです。人生の裏街道、"wrong side of my life"を生きている。きっと表街道はもっと明るくて、広くて、にぎやかで、輝かしい人生が待っていたんじゃないか。そんな空想が頭をよぎります。あなたもそういうことを思ったことはありませんか。どこかに別の道があったはずだって。この人生はそこから先すべて間違っているのではないかって。

だからうれしいことも悲しいことも、ぜんぶ過去の注釈としての人生を生きてきてしまったんです。「ああだったから、こう」あるいは「ああだったけど、こう」の人生。それでもけっこうがんばってきたんです。あるいは周りにとても恵まれていたのかもしれません。いずれにせよ、かつては想像できなかったほどいろんなことをできているし、いろんな出会いもあったし、糧になる経験も得られたし、人生をちょっとずつでも前に進んでいるようには思います。だけどがんばった分だけ、空想上の「表街道の人生」も一層輝かしいものになっていって、けっして追いつくことはないことに気づいてしまいました。だってそれは蜃気楼でしかないのですから。つねに、今ここで生きている人生よりもう一段階二段階充実したものを考えてしまいます。

あくまでこれは裏街道だから、自分の人生はすでに失敗しているから、たとえどんなにうまくいくことがあっても、それははかない栄光でしかないのだとずっと思ってきました。やがてはまた暗がりに沈んでいくんじゃないかって、これは偽りの成功なのではないかって。だから同じ場所に属する人々に対しても、どこか距離を感じて、あの人たちは本当にここにいていい人たちだけど、自分は身分を偽って潜り込んでいるだけだとみなしていました。

わかっています。そうやってすべてを過去で定義しようとする、過去を出発点とする因果関係で説明しようとする引力に抗わなくてはいけません。未来には新しい日々が待っていて、それはいまの自分しだいで切り開いていけるものなのでしょう。過去の影響があることと、過去によって決まっていることはまったくちがうともわかっています。だけど、どんなに過去を振り切ろうともがいても、それによって未来がいかに変わろうとも、けっきょく自分も周囲もすべては過去の産物ではないかという意識に囚われています。