後悔無価値論

人生の選択において、いちばん重大な過ちは、「選択するぞ」と思ってする選択で間違えることではない。そうではなくて、「選択に気づかなかったり、選択を避けたりした結果としての選択」こそが過ちになる。何もしないこと。習慣や他者にならって選択すること。あるいは二者択一に陥って、それらに単に逆張りすること。いずれも、選択から逃げている。そういう場面を、意識的な選択の俎上に乗せることが大切なのだ。

あっちかこっちかと決めかねる二つないしいくつかの選択肢から正しく選ぶことは、たしかに大事ではあるが、あなたはそれはちゃんとできる。そもそも、たいして間違えようがない。だって、迷っている時点で互角なのだから。のちのちどの選択肢がより優れていたのか判明することはあるかもしれないけど、それはそれ。選択した時点で入手できた情報の限りで最善の選択をしたのだから、選択の過ちではない。単に運が悪かっただけだ。

だから、「後悔」することに意味はない。選んだときは互角だったのだから。最終的にどう転ぶかはわからなかったのだから。いかに後悔したところで、次回よりうまくできることはあまりない。教訓を学ぶことはできるかもしれないけど、往々にしてその教訓は一回限りのもので、次回に当てはまめるとかえって間違える。

そうじゃなくて、当たり前に繰り返していた日常、なんとなくやっていたこと、他の選択もありえたことを今も知らないから、後悔することもできない。そういう「失われた後悔の機会」こそが本当の損失だ。明るい場所に引っ張り出して、ちゃんと後悔してやる必要がある。どうしてそこで違う選択肢を取りうることに気がつかなかったのか。どうしてあのとき本当は気づいていたのに気づいていないふりをしたのか。そういう自分の思考の癖について、ちゃんと考えたことが、一回でもあるだろうか? もしないなら、いったい何を後悔しているのか。その後悔は逃げでしかない。過去に過ちを犯したということにして、役に立たない教訓を得て、これで繰り返さないで済むという安心感を偽造して、それでまた進歩のない人生を送る。

なのに人は他人をうらやむ。あの人は恵まれていた。あの人は才能があった。あの人は……。無意識な選択の積み重ね、「これが私の人生」という思い込み、そういうものを取り払えば、本当はあの人になれたかもしれないのに。可能性を摘んだのは自分なのに。救いようがない。