人生に高速道路を探すのはやめよう

「レールから外れると人生は自由になる」という言説がある。これは、まちがっている。レールから外れれば外れるほど、「遅れを取った」分を取り返さなければいけない気がして、人一倍、一直線な道、いわば「人生の高速道路」を走ることに必死になってしまうから。

少なくともわたしにとってはそうだった。

実際のところ、わたしの「レールから外れる」度合いがどの程度だったのかを客観的に評価することはできない。たぶん、する意味もない。主観の上では、首の皮一枚で生還したように感じていた。

だから、ふたたび歩き出してからは、脇目も振らずに走り続けてきた。学歴もつけなきゃいけないし、スキルも必要だし、課外活動だってあくまで将来のために役に立ちそうなことをしていた。高速道路を全速力で進むことだけが、自分に許された道筋だと思っていた。

いや、本当はそこまで真面目な性格でもないから、足が進まないことはあった。でも、わき道にそれて「役に立たない」ことをすることはどうしてもできなかった。罪悪感が募る。サボるのはまずい。遊びのためにお金を使ってはいけない。あるいは、他者から見られる「真面目なキャラ」が傷ついてしまう。そういう心配ばかりしていた。

そのおかげかどうか、ところどころで人より秀でることもできるようにはなった。でも、けっきょく、何をしたかったのだろうか。

本当は、ヨーロッパ周遊とかしてみたかったのに。アメリカ横断とかしてみたかったのに。世界一周だってしてみたかった? 具体的に何かはともかく、そういう長期の旅行とか冒険とかしてみたかったのに!

だけど、Facebookで知り合いがそういうことをしているのを見ても、なぜか自分にはできないことだと思いこんでいた。自分には、やらなきゃいけないことがあるように思っていた。楽しいことをすることは、逃げることだと思っていた。生き方の正しさは、その苦しさによって担保されると思っていた。だから、苦しまないといけないと思っていた。人よりも苦しい思いをすることが、自分の生きる道だと思っていた。

「そんなこと言ったって、きみもうは院生だよ? そういうことは学部生のうちにすませておくことであって、いまさらやれることじゃないんじゃないかな?」そんな声が聞こえる。「同期は業績を積み重ねているのに、業績のないきみが遊んでいる場合なの?」ああ、うっとうしい。

……「うっとうしい」? そう思えるだけでも進歩していることに気づく。こうやって内なる声(あくまで比喩。単なる思考パターンであって実際に声が聞こえるわけではない。)を客観視できたのははじめてな気がする。いままでは、あの声と自分の意思が不可分だった。この声には反抗しなくてはいけない。この声は、遠くない将来にわたしを殺しかねないものだから。