他人と接することは、自分と接すること

友人と会う。恋愛関係の愚痴を聞かされる。なんだか、同じようなことを以前も聞かされたことがある。あのときは違う相手についてだった気がする。「それ、前も言ってなかった?」とは言わなかったけど、聞きながら気づいたことがある。


恋愛にせよ、友人関係にせよ、職場関係にせよ、家族にせよ、他者と接するということは、まず何よりも自分自身と接するということなのだ。パートナーとしての自分、友人としての自分、職場の人間としての自分、あるいは家族としての自分に。

自分の言葉、行動、感情、そういったものがこそ自分に作用する。それらが、他者との関係がどんなものであるか、少なくとも「あなたにとっての」他者と接するという体験がどんなものであるかを第一義的に規定する。

あなた自身に比べれば、他者そのものは背景のようなものだ。他者があなたに直接作用することはできない。あなたに作用するのはただひとつ、あなたそのものだ。他人があなたを幸せにするのではなくて、あなたがあなたの心を幸せにするから幸せになるのだ。悲しさも、怒りも、みな同じだ。他者に腹をたてることは、やまびこに腹をたてるようなものだ。

そう考えると、他者に不満を持っている人がいつでも誰に対しても不満を持っていて、逆にいつも楽しそうにしている人が誰といても楽しそうにしている理由がよくわかる。けっきょく、それはその人自身の問題だからだ。

もしあなたが、例えばバドミントンが人より下手という場合は、それを何のせいだと思うだろうか。バドミントンというスポーツがけしからんもので、自分に嫌な思いをさせようとしていると思うだろうか。だからテニスやらバレーボールやらに乗り換えたら問題が解決して、いきなり上級者としてスタートできると思うだろうか。そんなことはないだろう。単にあなたの問題、あなたの練習不足、そんなことを思うに違いない。

ところがこれが相手が人間になった途端に、問題は自分の外部にあると人は信じ込む。そんなことはないのだ。少なくともよっぽどのことでないかぎりは。相手が人格を持ち、意思を持つからといって、あなたを直接に支配しているわけではないのだから、あなたがその人とどんな関係を結び、関係から何を経験するかは、あなたしだいなのだ。

だから、恋人に不満を持ったとして、何人恋人を取り替えてみても、問題は解決しない。問題はそこにはないからだ。家族にいらだちを覚えたとして、他の家族に生まれてもきっと同じだ。友人グループがおもしろくないと思ったとして、他の人たちとつるんでもきっと変わらない。もちろん、個々の事情は少しづつ違うだろう。でも、根本的なところでは変わるはずもないのだ。だって、常にそこにはあなたがいるから。

どこにも完璧な恋人も家族も友人もいないのだから、折り合いをつけてうまくやっていかなくてはならない。あなたにとっての他者との関係がどんなものになるかは、ひとえにあなたしだいだ。