認知のゆがみ

「うちの代は変わってる人多いよね」と誰かが言う。わたしはあいまいに同意する。「あなたの認知の歪みはどこから?」と問いたくなるのをこらえながら。

だって、そんなの錯覚に決まってるではないか。うちの代が特に変わっているなんてことあるはずないのだから。上の代も同じことを言っていたに違いないし、下の代も来年には同じことをきっと言い合っている。どうしてそのことに気づけないのだろう? きっとその人は、そうやって自分の認知を相対化することができていないのだろう。そして偉そうに言うわたしも、他の場面ではそれができていないに違いないのだ。

人間の認知は歪んでいる。確かに日常生活で犬に見えるものは犬であって、猫であることはまずないだろう。けれど人はその感覚をnaïveに延長して、自分の知覚や感覚を真実そのものだと捉えてすぎるきらいがある。


流れのある川をざぶざぶと歩いて渡ったことはあるだろうか。そのときに足に感じる流れの力強さにひるまなかっただろうか。あるいは単に歩いているときでも、強風にあおられたとき、ただの空気があれほど大きな力を持つことに驚嘆しないだろうか。

海原を航海するときは、海流や風向きを考慮して舵を切らなくては、たとえ羅針盤を持っていても目的地に到着することはおぼつかない。横風を受けているなら、舳先をまっすぐ目的地に向けるのではなくて、いくばくか風上方向に向けなくてはならない。たとえ目的地から逸れる気がしたとしても、どんなに目的地にまっすぐ向かいたい気持ちがあったとしても、ぐっとこらえて、あえてずらさなくてはならない。

同じように、自分の知覚がどのくらい歪んでいるかを観測し、それに応じてずれを相殺するよう自分の感じる「真実」からあえて外れるように進路を補正しなくては、ほんとうの真実には近づけない。このひどく直感に反する操作を行えるかどうか、それが「批判的思考」というものの重要な要素ではないか。

では、どうすれば認知のずれに対処できるか。。きっと何か外部の目印を基準にして補正してやるべきなのだろう。

たとえてみれば、星を見て海原を航海するようなもの。でも、星はそれぞれに動くなかで、どれを基準をすべきだろうか。月や火星を選んだ日には目も当てられない。惑星、という言葉は惑うようなその運動に対して付けられたそうだ。それに惑わされて帰ってこなかった人々もきっといたのではないか。どの星を選ぶかが生死を分ける。

同じように、自分の認知のズレを補正しているつもりが、そのときに使うものさしが歪んでいたら、むしろ間違いを拡大してしまう。どのものさしを選ぶかが、人生を分ける。


多数派に乗っかるのが、多くの人がすることだろう。そうしていれば、細かい心配はしなくていい。みんなが楽しいと思うことを楽しみ、みんながすることをする。メインストリームに合わせていれば、きっと大丈夫だ。

いや、そうだろうか。だって、その平均が正しいとも限らないから。そのうちに「平均」を内在化してしまい、自分なりのcreativityは失われてしまう。エキセントリックなところがなくなってしまう。みんなが賞賛するTEDトークを見てこれがイノベーションかと言っているようでは終わっている。みんなに説得力のあるプレゼンとはつまり、聴衆が聞きたいことを聞かせることなのだ。聴衆の平均に迎合することなのだ。これはソフィストの術であって、プラトンが嫌ったのもわかる。

けれどその対極へ向かうことも恐ろしいことだ。世を疎み、過激な集団に共鳴した結果、触れただけで爆発しそうなほどの認知の歪みを蓄積させてしまった人も見かける。敵味方二元思考の極北。信じるものがあれば強いのは事実だが、力強く導かれた先が地獄では救いがない。その意味で、長い歴史がある信仰を持つのであれば、それは北極星となってくれることだろう。


けっきょくのところ、簡単な正解はないのだろう。揺れ動きながら、葛藤を抱えながら、ずっと自分の認知の正しさを疑いながら、手探りで進み続けるしかないのだろう。その不安を覚えなくなってしまったときこそが、一番危ないのだろう。山を越え、谷を渡る小径を辿っているはずなのに、もしそこに高速道路が見えたなら、それはきっと蜃気楼にちがいないのだ。