神様への反抗

もう会うことのないであろう人にいきなり連絡を取って会ってみる。降りるはずのない駅で降りてみる。いつもの目的地の反対側の出口で駅を出る、自分の趣味じゃなかったはずの服を買ってみる。そうやって、神様が定めた因果の円環ではきっと起きなかったことをするのがちょびっと好きだ。予定された運命に抗うというには大げさすぎるけど、「神様、そう思うようにはさせないよ」と心の中でつぶやく。

そういう性質の面では一部の人がいわゆるナンパという行為に執着するのも同じかなと思い至る。よく、相手への征服感だとか言うが、それでは筋が通らない。だって、もしそれであればあんなにも関係性が早く特定の段階にまで達することにこだわる意味はないのではないか。相手を手に入れたいだけなら、その所要日数はそこまで関係ないだろう。

そうではなくて、彼らは運命を、神様を、征服したいのだと思う。自分の行動が、言葉が、意思が、それ抜きには生じ得なかった事象を劇的に生じせしめる力を持つことを確かめたいのだと思う。彼らは、自分の人生を、自分の手中に取り戻したい、あるいはせめて取り戻したように感じたいのだ。彼らは、愛を証明したいのではない。彼らの自由意志を証明したいのだ。

この世の中では、人は何かとレールに乗ってしか生きられない。受験にせよ、就職にせよそうだ。自分が自由に何かを願い、それを自分の力で達成する、それはひどく難しい。いつだって私たちは誰かに仕組まれた願いを持ち、誰かに仕組まれた努力をし、誰かに仕組まれた人生を生きる。とりわけどんどん情報量の増える現代の社会で、個人の運命は予測可能性の手中に収まろうとしている。あなたが何年生きるか、あなたがどんな商品を次に買うか、あなたが犯罪に手を染めるか。そんなことがわかってしまう。なんなら生まれてくる前からだって、あなたの知性がどこまで及ぶかが推定できてしまう。あなたの努力、あなたの意思があなたの人生に占める領土はどんどん脅かされるようになっている。

それは「何者にもなれない自分」という事実が、ますます重みを増してのしかかるということだ。言い訳は通用しない。何者かになりうる道は開かれている。なんならいますぐユーチューバーになればいい。でも、あなたも知っているように、あなたは何者にもなれない。私も何者にもなれない。可能性は閉ざされ、必然性だけが人生に横たわっている。身の程を知りなさい。そんな声が聞こえる。そうして、死ぬまでただ生き続けるしかない。絶望しながら。「死に至る病」を抱えながら。

だからせめて反乱を企てる。論理的必然性の連環から逃れようとする。過去や現在を踏まえて合理的に筋の通ることをしている限り、私たちは可能性を手にできない。それは、論理の機械であるコンピュータが本物の乱数を生成できないのと同じだ。だから合理性はこんなにも息苦しく感じるのだ。それは解を一意に定める呪いだから。合理性は自由意思の敵だ。だから人は酒を飲むのだ。合理性の呪縛から逃れるために。

いますぐ逃げ出そう。無計画に旅に出ることにしよう。電子機器も、地図も、時刻表もすべて投げ捨てて。およそ情報というものは、ことごとく合理性の手先だから。