勉強法について

それほど偉そうなことを言える実績があるわけでもないし、たいして勉強した人間でもないのだけど、思うところを書いてみる。

勉強法は、大きく二つの別々のターゲットがあると思う。一つ目の勉強法は受験勉強の方法だ。対象となる知識の範囲が決まっていて、合格ラインも決まっていて、いつまでにそこに達さなくてはいけないかもおおむね決まっている。そして教材も選びきれないほど様々なものが出ている。もう一つの勉強法は対極的だ。何を勉強するかは決まっていないし、特定の合格ラインがあるわけでもない。時期的な目標はあるかもしれないが、はっきりいつまでというものでもない。そして教材はあることもあれば、ほとんどないこともあるし、少なくとも親切な作りになっていないことがざらだ。

受験的な勉強は単純だ。とにかく効率性を高めることが正義だ。過去問と合格ラインありきだ。何点必要かを計算して、領域ごとに分割してそれぞれの目標点数を定め、過去問を主体にした問題演習を回していく。過去問を取り組めるレベルにないならもう少し簡単な問題集からはじめる。教科書はざっと読んで把握するだけにして、あとの知識は問題を解くうちに覚える。そしてもう時間との勝負で、あとはひたすら一定のペースで進めていくのみ。レールは敷かれているから、そこを進むのみだ。モチベーション維持は簡単ではないが、そのために予備校などのはっぱをかけてくれる場所もある。模試がペースメーカーになってくれる。大学受験はこれでいいし、諸々の資格試験もおおむね同じだ。

こういう勉強で変に凝ったことをするのはよくない。教材かと見まごう綺麗なノートを作るのは典型的な無駄だ。そんな暇があったら問題演習をするべきだ。教材はできあいのものが十分によくできているし、そういったものを作る時間は無駄だ。問題を解くほうが、教材を作ることの何分の一かの時間でこなせる。それに世間にそれを公開しても、よっぽどのできばえでもないと何の意味もない。とにかく、試験の点数が正義であって、そこに戦略を最適化しなくてはいけない。

しかしそれとは違う勉強もある。レールのない勉強だ。もっと長丁場の勉強になるし、いつまでにどこに到達するべきかが明確ではない。こういう勉強では、効率性よりもモチベーション維持が大きな課題になる。けっきょく、同じ勉強をする仲間はあまり多くないし、用意されたカリキュラムもなく、いつまでにやらないといけないという焦りもないからだ。つまるところ、この手の勉強がやりづらいのは、アウトプットが定義されていないからだ。だったら、自分なりのアプトプットを決めてしまったほうがよい。ブログに記事を書いて、自分の勉強した内容を第三者にもわかるように解説していく。勉強会で発表者として参加する予定を入れてしまって、それで背水の陣で勉強する。周りがそのスキルを持っている人たちの集まりに飛び込んでどうにかついていけるように勉強する。やり方はいろいろあって、どれを採用するかは自由に決められるのが受験勉強と違うところだ。それはよい面とも言えるし、悪い面だとも言えるだろう。私の考えはとにかく記事を作って他人に教えるスタイルで勉強するのがよいというものだ。たしかに、受験のために綺麗なノートを作るのと同じで効率は悪い。しかし、効率は悪くてもモチベーションが続くならそれでよいのだ。楽しんで、あるいは義務感でも、とにかく続くことが第一だ。

さらにこういう勉強を公開することにはモチベーション維持にとどまらない価値がある。自分のブランディング、あるいは能力の証明として使うことができるからだ。受験勉強と違い、こういったスキルには統一された能力の指標はどこにもない。だから、自分の成果物を見せることが一番はっきりと能力を示す方法になる。さらには、先端的な高度なスキルは世間に教材や教えられる人が少ないから、そのスキルを教えるスキルにも価値があるし、それを身につけることも勉強の一環だ。だからそもそも目標設定が違うのだ。みんなができることを習得するとき、それを教えるスキルを得てもしかたがないが、専門的なレアなスキルは教える力の価値が高い。そこそこのできばえでいいから教材を作って教えられることは有意義だ。そして公開すれば求めている人がやってくるし、そこからチャンスも広がる。むしろ、最初からそういうために勉強をする部分も大きいのではないか?

この二つのまったく違う勉強の切り替えができることが大事なのだと最近思うようになった。というか、もう少し早く気づきたかった。周りを見回すと、中途半端な勉強のスタイルでどっちもやっている人がたくさんいることに気づく。それは非効率的だ。勉強をするなら、まずは目標を明確化し、その道のりを明らかにしないといけない。それが息をするようにできる人がなかにはいて、そういう人が優秀な人なのだ。私はそうはなれないが、せめてここに書き残してみる。