反出生主義に感じる違和感について

ネットの言論に食いつくのはよしておこうと思っていたのですが、気になる話題が盛り上がっているようなので思わず反応してみます。

https://anond.hatelabo.jp/20171230111228anond.hatelabo.jp

この考え方は理解できます。おおむねロジックは通っていて、ある程度は賛同したいところもあります。自分に引きつけて考えると、私自身あまり子どもを持ちたいとは思いません。そしてこの論への反論の主たるものである「社会の維持」という観点は、筋が通っていないと言わざるを得ません。もし個人レベルで反出生主義を受け入れつつ、社会的な面が課題となるだけなら、社会が持続可能なぎりぎりのところまで出生数を絞って、最後に生き残った老人の介護をしてくれるロボットを作って、緩やかな滅びへと着地させるべし、という結論になるでしょう。でも社会の持続可能性の観点で反論している人がその立場を取っているようには私には見受けられません。

この論の弱いところはすでに指摘されている通りこの部分でしょう。

まだ生まれていない(欲望がない)なら「幸せになる可能性がある」より「苦痛を感じる可能性がない」方が合理的なのだから常に生まれてこない方が良いのです。

ここの点で、反出生主義は本来もっと強い論理を持っていると思います。単なる損得勘定でどっちが重いという話ではなくて、自己決定権に寄せて立論されるべきでしょう。すなわち、生まれるということは、望むと望まざるとに関わらずいろいろなこと(いろいろありますが、最も回避できないのが死を迎えること)を経験せざるをえないことである。それは幸福と苦痛が50:50かもしれないし、100:1かもしれないし、あるいは1:100かもしれません。でもそれがどんなものであれ、それを経験したいかどうかは個人の自己決定にゆだねられるべきであり、いやだという人に無理やり「これはいいものだから」と言って経験させることは認められません。なのに、生まれるということは選択できず、いったん生まれてしまったらそこから離脱することにも困難を伴うのです。だからこれは決定的に自己決定権の侵害である、という論理です。他方、「生まれない」ということは自己決定権の侵害ではありえない(主体がそもそも定義されませんから)ため、こちらのほうが正しい、そういう主張だと思います。

以下の文章の一点目ではこの点について議論します。反論、というわけではなくて、別の観点の提出程度にとらえていただければ幸いです。そして二点目では私のただの印象に基づいて話します。もとが匿名ダイアリーだから当たり前ですが、特定個人への攻撃は意図していません。あくまで書いた人に対してではなくてこの意見、またこの意見を持っている人たちの傾向(私が知っているのはn=3くらいしかいませんが)に対してのコメントです。


1. 自分のことを神様だと思っている

この意見、そして文章について一番引っかかるのは、あまりに自分の「論理」が正しくて、世界で一番、宇宙で一番正しいと思っている匂いがすることです。でもそれって本当に正しいんでしょうか。その論理ってこの宇宙の果てまで行っても正しいのでしょうか。生きるっていうのはそんなに予測の範疇に収まる現象なのでしょうか。そういうところで自分の考えの無謬性を無邪気に信じすぎていないでしょうか。

今まで生きてきて、あなたは詩で心を動かされたことはあるでしょうか。自然の驚異に打たれたことはあるでしょうか。数学の深遠さに吸い込まれそうになったことはあるでしょうか。人間の尊厳に目を見開いたことはあるでしょうか。ひょっとして神様いるんじゃないかって思ったことあるでしょうか1。自然的、超自然的、人間的、なんでもいいですから、そういう自分には届かない超越的なものへの畏敬の念を覚えたことはないでしょうか。私たちの生きている世界は、セカンドライフのゲーム世界みたいな、人によって作られた限りあるものではありません。あなたも、私も、全世界のだれだって、そのほんのちょこっとしか知らないのです。そして生きるということはその世界を探検することです。確かに苦しいことも多いでしょう。でも、どんなすばらしいものが眠っているか、まだだれも知りません。

もちろんどんな可能性があろうとやっぱりいやだ、生まれてきたくなかったという人はいるでしょうから、自己決定権の侵害には違いないでしょう。でも、その自己決定権という論理が本当に正しいかどうか、生きるということに関してどんなことが真実で、どんなことが嘘八百かだって、まだ全然わかってないのです。

だから、まるで森羅万象を理解したかのような顔をして、自分の振り回す「論理」なるものがこの銀河で絶対に未来永劫正しいかのように「生きることは苦しいから生まれない方がいい」と言ってのける態度はひどく傲慢なものなように私には映るのです。もし、本当は何もわかっていないことをわかっていながらそんな断言しているなら端的に誠実じゃないと言わざるを得ません。あるいは(このスタンスを取る人にありがちなように)自分がいかにちっぽけで、世界ははるかに超越的なものであることに気づかないで、まるでゲームの中の世界を生きるかのような無感動な人生を送っているなら、そして自分は頭がいいから本当のことがわかっていて、そして他の人はバカだからそれを理解しないと思っているようなら、それはご愁傷様です。これは一般論ですが、人をバカだと思ったら自分こそがバカなんじゃないかと疑った方がよいのです。

あなたは神様じゃないし、私もそうではない。だから何が正しくて何が間違っているかはよくわからないし、生きるとはどういうことなのかもわからないのです。でも、たぶん確かなのは、生まれなかったら、そういう未知の世界を探検するチャンスもないっていうことです2。だから、私は出生を手放しに肯定するわけではありませんが、すっかり否定する気にもなれません。

これはある種のダブルスタンダードであることはわかります。出生以外について自己決定権の尊重を基本としたスタンスを取っているなら、出生についてだけは自己決定権の概念が誤っている可能性を考慮すべきだというのは一貫性に欠けることは事実です。でも、それは出生というのはあまりに決定的なできごとであり、それなしには主体が存在し得ないという特殊性を持つからです。ふだん他人を監禁して生活を管理しないのは、主体の自己決定を尊重しているからです。でも、自己決定によって生まれてくることはできない以上、同じ基準を出生に適用することはできません。


2. 素直じゃない

これはまったくの印象論です。反出生主義でこうやって論理武装している人って、もし見事な論理で「いや、それは間違っている。出生はよいものだ」と反論されたら「なんと! 納得した、これからは出生を祝福する」となるのでしょうか。ならなくないですか? なるんですか? なるならこれ以上言うことはありません。でも、どんな主義主張でも、どんなに論理武装していても、それは往々にして後付けであって、説得されて転向することはないんじゃないでしょうか。

そうだとすると、その主張はひどく素直じゃないものだということになります。だって、対外的には論理的だから正しいんだと打ち出しておきながら、実際に自分が信じている理由は論理なんかじゃないからです。別に反出生主義者は自分の人生が辛いからそういう主張をしているのだとか単純化するつもりはありません。人によっていろいろ理由はあるでしょう。でも、その理由を言わずに、論理の笠を着るのはなんででしょうか。それは何か見せたくないものがあるからではないですか? 自分が反出生的であるその本当の理由を、認めたくないのではないですか? 誰だって言いたくないことはあるものです。それは構いません。でも、だったら、その論理の薙刀を振り回すのはやめたらどうでしょうか。


  1. これは語弊があるかもしれませんね。別に宗教的な考え方を前提にして言っているわけじゃありません。

  2. 生まれなくても何かを経験できる可能性は否定できませんが、そうすると反出生主義が前提としている「生まれなければ苦しみもない」という点も疑わなくてはいけなくなってしまいますから。