「いい子」という呪い

以前、ほんの短期間保育園でボランティアをした。子どもをあやしているときに、ふと口をついた、「いい子だね」。

……どうして自分の口からその言葉を発してしまったのかわからなかった。「いい子」という言葉は嫌いだ。それは、呪いだから。

いい子、と言われるのは、おとなしくて、聞き分けがよくて、騒がなくて、そんなふるまいをする子どもだ。それは小さな子どもにとってきわめて抑制的なふるまいだ。放っておけば、叫ぶし、走るし、言うことなど聞かないのが子どもではないか。それをぐっと抑えこんだら、「いい子」とほめてもらえる。だからもっとがんばって抑えて、もっとおとなしくなろうとする。だって、自分はいい子なんだから。だって、自分はいい子じゃなきゃいけないのだから。だって、自分はいい子であるがゆえに愛されているのだから。いい子じゃなかったら、きっともう愛されないのだから。

「いい子」であることをほめることは、条件付でほめることだ。もちろん、ほめるという行為が条件性を抜きにしては成立しないから、それは仕方がないかもしれない。けれど、子どもに「いい子」と言うたびに、「わるい子」の存在を示唆していることを自覚しなくてはいけない。「いい子」とほめられる頻度が高いおとなしい子どもほど、自分が受け取る愛情の中で「条件付」の愛情が占める割合が高くなってくる。だからますますおとなしくする行動は強化され、さらに「いい子」になっていくサイクルに陥る。

いったんそのような「いい子症候群」にはまってしまうと、いかに愛されても、本当に愛されたように感じることができないのかもしれないと考えた。自分の存在と「よい行動」がいつも同時に存在するため、どちらを愛してくれているかがわからないからだ。かといって、そこから逸脱する勇気はない。だって、いままで受け取ってきたすべての愛情は条件付だったのかもしれないから。そしてその愛情を裏切れば、もう二度と省みてくれないかもしれないから。いい子である自分という仮面は、もう外せない。

そうやって、自分を殺すことを強いる呪いの言葉が「いい子」だとわたしは思う。だから、二度と口に出さないことに決めた。