この世の中の息苦しさについて

学校では、息の詰まる空間なのに、まるでみんな楽しいふりをしている。教師、試験、そんな権力に晒されて逃げ込む友人関係は、自分を偽って役者となること。関係性のノリに飲み込まれて、いじるとかいじられるとか、バカとか頭がいいとか、したくもない役回りを演じてその輪から外れないようにする。ぼっちでいたくないだけだ。あるいはあいつらは本当に楽しいのか? 理解しがたい。

大学に行く年齢が近づけば、受験なる大きなシステムに組み込まれて、自分の存在は数字に還元され、それ以外の何者でもなくなる。何をやりたいかなんてわかりもしないのに、名前だけで適当に大学を選んで、希望は感じていない。だいたい、こんなものがんばったところで明るい将来が約束されているわけでもない。茶番。

田舎では、死に絶えた市街の光景がもはや当たり前になっている。子どものいない学校。シャッターの閉じた商店街。人の住まない家。だれも抗おうとしない。衰退と、死を、当たり前のこととして受容している。もはや考えることすらやめてしまったようだ。

都会に出て電車に乗れば、殺伐とした空気の中で、お互いが身を縮めて、なるべく貨物であるかのように振舞っている。人間らしい動きとか、声とか、そういう動作は禁止されているかのように。ただひたすら無個性への競争をしているかのように。

街を歩けば、なるべくお互いが見えないふりをしている。隣人にだってそうだ。自分の存在が透明で、相手の存在も透明であるかのように。お互いがいることはわかっているのに、それを認識していることを示しちゃいけない暗黙の了解があるかのように。

帰り道、きらびやかに光るネオンサインが、どうしてモノクロームに見えてくるのだろうか。

そして今月もすずめの涙の給料から健康保険と年金を払う。どうせもらえないとわかってるのに。もう破綻してるとわかっているのに。なのにだれもまじめに立て直そうとしない。惰性。無力感。

週末になっても、やりたいこともない。金は使いたくないから出かけない。わくわくすることもない。たまに飲み会でもする。でも別に楽しくない。それで飲み放題3000円、ああ、無駄だったなと思う。けっきょく、顔をつないでおかないと縁が切れてしまうことが不安で来ただけだったのだ。これからも、そうやって続いてく関係性。果たしてそれに意味はあるのだろうか。

就活。別に悪くもない企業に入るけど、でもそれでなんだ。将来の約束なんてない。人生の見通しは立たない。いつまで企業があるかもわからない。東芝だってこのありさまだ。日本一の企業であるトヨタだって、いつなんどきテスラのようなライバルにいっぺんに打ち負かされるかもわからない。そもそもsharing economyの時代に社会構造ごとひっくりかえるかもしれない。

そして結婚? 世の中の言説を見れば、どういうやつがもてるだのもてないだの、年収はいくらだの、どういうファッションをしろだの、デートでどの店はよくてどの店はだめだとか、疲れる。ただそういう言説を作って金儲けをしようとしている人に乗せられているだけではないか。無益だ。

子どもが生まれたら、しがらみがさらに増える。住宅ローンの支払い。親の介護。自分の昇進の可能性はあるだろうか。子どもはちゃんと育つだろうか。心配事は増えるばかり。そうこうするうちに白髪が見えてきて、身体にもあちこちがたが来た。職場では役に立たず、家でも邪険にされ、友達も疎遠で、行き場がない。こうして人生が過ぎていくのだろうか。これが自分の生きたかった人生だったのだろうか。可能性は閉塞している。

そして歳を重ねるたびに、以前その歳の人たちはもっと立派に見えたのになあと思わざるを得ない。中身が追いつかないのに時間だけが先走って、そうして人生が過ぎていってしまう。けっきょく、自分の時間はどこに行ったのか。自分のやりたいことはどこに行ったのか。もうどんな夢を持っていたかも忘れてしまった。決して困窮しているわけではない、飢えて死にそうなわけではない。なのに、どうして人生はこんなにも息苦しいのか。