分断された思考

(前回の記事の続き)

……と、こんなことを考えているうちに、この分断とつながりの表裏一体性は人間関係だけに見られる性質ではないのではないかと思うようになった。それは、思考様式とか、知識についても当てはまるものなのかもしれないと。

いろいろな知識や考え方をつけると、それらがつながる瞬間がたびたび訪れる。表面的にまったく異なるように見える物事が、同じ思考様式、同じ探求方法、同じ体系で説明できる。物理でやったブラウン運動で、株価の変動が説明できる。ミクロ経済で扱ったゲーム理論で、生物の進化が説明できる。そして歴史の知識で、哲学の発展と芸術、さらに技術の進歩が理解できたりする。なんということだろう、すべてがつながっている! これが人類の英知。その知識で城を築いて、人は繁栄を謳歌する。でも、こうやって知恵がつながればつながるほど、その枠組みの外にある思考との分断が深まっていくのだ。

ときどき、理性の城にならず者が攻め込んでくる。たとえば疑似科学なんかがそうだ。人類が築いてきた科学という体系を汚そうとする。だから戦う。なのにどうしても信じる人がいる。嘆かわしいことだ。ところで、疑似科学がやってきた源であるこの城の外側には、いったい何があるのだろう? この城は人類のすべての知恵を含んでいるはずなのに、外に何かが存在することがありえようか? 城を築く前の人類はシャーマンが神に祈り、供物を捧げる野蛮な生を営んでいた。そんなものは、もう消え去ったはずだ。

……そんなことはない、壁の外にも、また人の営みがあるのだ。そこでは、違う思考、違う知識が支配する。そこでの言説は、天皇家は万世一代の血筋だというものだったり、ワクチンは毒だから打ってはいけないというものだったりする。そして、「○○の陰謀」とかが複数の現象に一貫した説明を与えてくれる説明してくれる。きっとここの人たちも「なるほど!」と納得しているのだろう。それが英知の体系なのだろう。神秘主義も包括的に宇宙に秩序を与えているのだろう。物理学が与えるのとはまた違う方法で。はたまた、ノリと共感でできているように見える心理も、たぶんちゃんと見れば思考が「つながって」いるのだろう。でも、そこにどういう心理があるのか分析的に名前をつけることは、きっとできない。だって、名前をつけようとした時点で、物事を分けて、名前をつけて、要素に還元していく「近代的」思考様式に無理やりはめ込んでしまうことになるのだから。

けっきょく、ただ見えていないだけなのだ。城の外にも、まだ世界が広がっていることが。占星術のころから、人類は何も変わっていないのだ。科学と理性に基づいた思考は、普遍的ではないのだ。文明とか思考様式が単線的に発達してきたという考えが誤りなのだ。人とサルではサルの方が古いのではないのと同じだ。人もサルも、どちらも進化の最前線にいるのとどうように、科学的思考も、非科学的思考も、どちらも現代の思考様式なのだ。その中で疑似科学がおかしな考え方として目に入るのは、それが一番理性の城に似ていて、私たちがいる城の城壁まで攻め込んでくるからだ。でも、ほんとうはそれだけじゃない。あっち先には陰謀論の城があり、こっちの遠くには宗教的コンサバの城があり、それらは私たちの城と同じくらい、世界に体系的な説明を与えている。あるいは城の外にはそもそも体系性そのものを拒否する雑然とした思考が渦巻いている。そういう思考が見えないのも無理はない。私たちのこの城の中でも、文系理系とかよくわからないわけ方をしていがみ合っているくらいだから、外を見ている歩哨はいないのだろう。だから、気がついたら、地球温暖化なんて起きていないと言い出す人たちがいきなり力を持ったりしてしまうのだ。分断の溝はどこまでも深い。