分断された世界

アクティブに学生の活動をいろいろしていて、SNSを活用していると、世間は狭いなと思う瞬間がたびたび訪れる。友達の友達は友達、つながってる現象。大学を超えて、国を超えて、予測を超えて、びっくりするほどいろいろなところでつながっている。でもこれは、「そういう人たち」のネットワークが所詮とても限られているから起きる現象だ。別に本当に資本家のすごいところの話をしているわけではない。大学生程度だとそういう社会階層は案外重要ではないように見受けられる。そうじゃなくて、日本であっても、他の国であっても、わりと有名な大学に行っていて、勉強をけっこうまじめにしていて、短期でも長期でも留学とかしていて、そしてある種意識の高めの活動をしている。アルバイトはあまりしないで、ただ遊ぶだけのことにかまけていることもなく、もう少し社会的に体裁がいいことをして充実している。そういう人はたくさんいそうで、実は本当に少ない。まずそういう学生が所属する大学というだけでもたぶん全大学生の10%くらいに絞られるだろう。それで、その大学のうちでもさらに5%あるいはもっと少ない割合の学生しかそういうグループには属さないと思う。いまの日本の大学生が280万人くらいだから、これだけで14000人しかいないことになる。そりゃあ狭いわけだ! そしてこういう層は往々にして海外ともつながっていて、海外の学生事情も私の知る限りそう大きくは変わらない(「欧米では大学生は全員まじめに勉強している」とかは幻想だ)から、世界で見てもそう多くはない。

けっきょく、「世の中狭い!」と思うとき、それは自分がいかに閉じたコミュニティにいるかが示されているだけなのだ。一見すると開いているように見える。だって、違う大学どころか違う国の人たちともどんどんつながっているのだから。たしかに、よそと交流のない内輪な遊び系のサークル活動で数十人とだけかかわって、そしてバイト先でまた数十人知っていて、みたいな人よりも、開いている世界にいることは間違いない。でも、どっちにしろけっきょくは閉じているのだ。ただその閉じ方が、単一の組織とか単一の場所に規定されているか、それよりも抽象的な価値観や生き方、そして間接的には生い立ちの環境、あるいは嫌な言い方をすれば社会階層に規定されているかの違いだ。昨日はFacebookでフランスに留学している友人の写真にlikeをつけて、今日は三年前にシアトルで知り合ったシンガポール人が日本に来ているので会って。そんなこと当たり前だと思ってしまう。異国の地でもこうやってつながっていられるのは、もう当たり前のこと。

でも、そうやって世界をつながりが覆ったとき、隣人との関係には分断が横たわっている。同じ大学生でも、こういうことに縁のない人たちはどこまでも遠い存在になってくる。大阪とか京都にいるだけで、東京を中心に発達しているこういう人たちのコミュニティから若干距離ができるのに、他の地方大学だったら、それこそもっと縁がない。そういえば東北大の人とか、この界隈で知り合ったことがあるだろうか? そして、偏差値で大学を分けるのはとてもいやなことだが、でも偏差値が低い大学に行く人からの距離はどういうわけか本当に遠い。まれにはそれでも関わってくる人はいるが、でも本当に少ない。さらに大学に進学しない・できない人からの距離はもう絶望的に遠い。

かつて、地域活動を行うNPOに関わっていたことがある。地域ベースなのでいろいろな大学とか短大の学生、あるいは高校生がいたが、そこではMARCHで圧倒的に「高学歴」(あえて誤用)だった。いま私がいる界隈ではMARCHですら存在感は早慶と比べて極めて薄い。正直、大学の偏差値なんてどうでもいいと思っている。所詮入試の話であって、いまこうやって受験産業が作り出した用語を並べるだけでも寒気がするくらいだ。でも、自分の周りを見渡すと偏差値ですぱっと切れているのが目に付いてしまう。そして高卒で働き始める人がどういう仕事について、どういう将来があるのか、どういうことを考えて日々を生きていくのか、もう想像できなくなってしまった。あのころ、一緒に関わっていたはずなのに。そうやって、日常で道ですれ違う人とですら、どこまでも分断されている。「つながる」ことは、その裏返しでしかない。