空気を読まないこと

日本人は協調性を重視し、周りの様子をうかがいながら目立たないように行動するとよく言われる。と、ここで比較文化の話をしたいわけではない。程度は同じではないかもしれないが「空気を読む」のは人間に共通する性質だろう。

集団から逸脱して空気を読まずに行動するのは危険だ。ほとんどの場合、それは「空気を読む能力に欠ける」サインとして解釈される。社会的に戦力外通告に等しいものだ。頭がおかしい人、その場にいる資格がない人。そういうレッテルは強力で、人間扱いされないということとあまり変わらない。強引に進化心理学的な説明をするのなら、群れの空気を読めず、秩序を乱す存在は群れ全体への脅威ゆえ追放されるということになるのかもしれない。周りがみな息を潜めて天敵をやり過ごそうとしている「空気」を察せず、不用意に音を立ててしまう個体は速やかに排除される必要がある。こういうシナリオが人間の心理的作用を形作る上で実効的に働いたかは定かではないが、ひとつの筋書きとしてはもっともらしい。

しかし、逸脱はまったく逆方向にも作用しうる。「空気を読めない」ではなく「空気を読まない、読む必要がない」というメッセージは強さの証になる。カリスマ性の重要な条件の一つは他人がためらうことを真っ先にできることだ。それによって浮いてしまうことを恐れる必要がないほど自信に満ちたリーダーに人は魅了される。

では、この明暗の分かれ道はどこにあるのだろう?

たぶん一番大きいのは、「強さ」のサインを出しているかという身も蓋もない基準だろう。単純に体格が優れ、筋肉質であること、長身であること、容姿がよいこと。必ずしも純粋な格闘能力でなくても、生存競争と性選択の勝者であることを示すサイン。そういうものを持っていれば、逸脱した行動は強さだと解釈される。もちろん、逆もしかり。だから空気を読まないのはまさに「※ただしイケメンに限る」という専売特許なのだ。そこまでいかなくても、せめて「まともそう」な雰囲気を出すことが必要だ。行動や服装のある一点では空気を読んでいなかったとしても、ほかの点では風貌や振る舞いがまともっぽいことが必要だ。変にきょどっていたり、動きに落ち着きがなかったりと強者らしからぬ面を見せてしまったら、あとは空気を読まなければ読まないほどおかしなやつに転落していくしかない。

ただ、この「強さのサイン」はもう少し込み入っている。文脈によっては変わってくるからだ。たとえばスポーツでも音楽でもなんでもよいが、そういうことをする集団の中では、技巧がきわめて大きな強さの指標になるだろう。世間一般の文脈ではただのおかしな人になるところ、その集団では技術ゆえに尊敬され、逸脱した振る舞いも許容されるどころか、そういう振る舞いをすることによって技術的に卓越している事実を見せつけることになる。これは微妙なバランスだ。見せつけることによってしか確認されない卓越性はたいしたことないとも言えるかもしれないが、しかしそんなに飛び抜けて秀でることは通常ないわけで、少々の差でもアピールすることで集団の力学を操らなければならないのだろう1

閑話休題、もうひとつの明暗の分かれ道は、その行動が「理解できる」ものであることだろう。まったく意味不明なことをしているのではなくて、みんなやりたかったけどできないこと、あるいはその人の一貫した趣味嗜好を貫き通すといった、やりたい動機が理解できることであれば空気を読まなくても大丈夫だ。あえて恥をかきにいける。でもそれは、そうしたらかえってかっこいいとわかっているから。わかっててピエロをしにいく、あるいは単に楽しいことをしにいく。そういうのはけっきょく、リターンのためにリスクを取るということ。だから、リターンが理解できる場合はしっくりくる。たとえば、いつだか建物の廊下でローラーボードに乗っているやつがいた。普通の感覚だったら迷惑だし、そんなことやらないだろう。でも、楽しそうなことは間違いない。行動を縛っているもろもろのしがらみを取り去ってみれば、真っ直ぐで平らな廊下があって、ローラーボードを持っていたら、そこで遊ぶのが一番自然な行動かもしれないな、ということにはじめて気付かされた。それでもやっぱり感心はしない行動だが、そうやって自由に振る舞って、ほんとうはだれだってやりたいはずのことをしているのは端的にうらやましい。ローラーボードはしないにしても、見習うべきところは多いと思う。

たぶん日本の社会は、こうやって逸脱した行動を取ることへの寛容度合いが低い社会だ。それは日本だけではないかもしれない。それでも、もう少し規範性がゆるい社会も少なからずあるだろう。だから空気を読まないと疎まれていろいろな不利益を被ることもあるかもしれない。ただ、逆にそれはこういう行動を取るライバルが少ないというチャンスでもあるように思う。それこそ「日本的な」まめに機嫌を取るような行動とうまいこと組み合わせてリスクを軽減すれば、リターンは大きいはずだ。というのは、ほかにそうやって逸脱する競争相手がいないから、逸脱することによる利益をぜんぶ持っていけるからだ。ふつう人がしない交渉ごと、頼みごとをしてみる、ちょっと無茶かもしれない要求をしてみる、わからないときに積極的に質問してみる。だめなら引き下がればいい。無理に押し通す必要はない。ただ、不満があるときにだまってがまんしないで一歩踏み込んでみることは大事だと思う。ときにうまくいかないことがあったとしても、きっと得るもののほうが多い。


  1. けっきょくのところ、組織におけるモラハラはこういう集団の力学、リーダーが地位を脅かされないためには力を誇示し続ける必要があるという構造によって生じる部分が大きいのではないかと思う。個人が最初からモラハラ気質を持っている場合ももちろんあるだろうが、組織から離れれば家庭では優しい親なのに、といった事例はまさに組織の構造がリーダーをしてモラハラをさせていることの証拠なのではないだろうか。もちろん、モラハラを正当化したいわけではない。