年齢を重ねること(1):おっさんになるのがこわい

わたしは恐れている、いずれおっさんになってしまうことを。きっときもくて使えないおっさんになって、時代遅れの考え方で若い人から白い目で見られることを。まだ若いと信じているうちに、外から見たらもうおっさんになることを。

わたしはしばしば、おっさんをうっとうしく思っている。明確なセクハラはしないにしても、考え方が保守的でしばしば反感を覚える。持っている知識やスキルは時代遅れで、使い物にならない。昔話はつまらないし、そんな過去にしがみつくようにはなりたくない。

好感の持てるおっさんは稀だ。みんなそんなばかでもないはずだし、若いうちはきっといい感じの青年だったのだろう。なのに、ただ年齢を重ねるだけで、ほとんどがつまらないおっさんになってしまう。ということは、わたしも高い確率でそんなおっさんになってしまう。その結論がたまらなく憂鬱にさせる。

だからわたしは危機感を持っている。わたしたちの世代、いまの世代も、やっぱり数十年前の世代と同様にきもいおっさんたちになっていくんだってことに。団塊の世代がどうだとか言うけど、でもだいたいは普遍的でしょう。きもくて、うっとうしくて、短気で、空っぽで、それでいて若さをあきらめられない、そんなおっさんになってしまう。


現代社会は、おっさんにきびしい社会になってきていると思う。技術革新の速度は指数関数的に加速し、あっという間に過去の知識が使い物にならなくなってきている。年の功は、もう役に立たない。新卒の若者、場合によっては中学生くらいでも、先端技術に優れていればおっさんよりも使い物になる時代だ。過去の経験は新しい状況への判断を誤らせる。むしろ、何も知らないでいちから情報収集した方が良い判断ができるのではないか。年寄りは使い物にならないという考え方をagismと名付けて糾弾するのはけっこうだけれど、本当のことだから何を言っても変わるはずがない。

技術だけじゃなく、社会のあり方もどんどん変わるようになってきている。情報の流通速度が飛躍的に速まり、それとともに国境を超えて、海を渡って新しい考え方が入ってきている。近いうちに言語の壁だってなくなるだろう。そうすると、人間関係、家族、仕事と余暇、雇用関係の結び方、いろいろなものがどんどん進歩していくようになる。今だってそうなってきていて、古くさいジェンダーロールみたいなものはだいぶ弱まってきた。それについていけてないのはおっさんたちだ。それで時代錯誤な発言をしてしまう。失言をしようと狙っているわけではないのだ。単に、20年前と同じことを言っただけなのだ。だけど、それは今は言ってはいけないことだ。わたしは年齢を重ねながら、ますます加速するその変化についていけるだろうか。

そういうセクハラとかしてしまうおっさんの影を、今の若者にも見ることができる。全員20代30代みたいなITベンチャーとか、みんな友達みたいな関係で、私生活を混ぜるのが当たり前のカルチャーではないか。あれは若いから許される。大学のサークルだったら酒を人に押し付けてもパワハラ案件にならないのと同じ。それを企業でも続けている。みんな若いからそれでも構わない。だけど、同じことを20年続けていたらハラスメントで訴えられかねない。ああいう人たちは危ういと思う。


Twitterを見ていると、気持ち悪いおっさんがたくさんいる。ミスコンのツイートへのリプライを見るのが、地獄への最短経路。歳をとっても性欲から解放されない人間の成れの果てが転がっている。『国家』でプラトンは老年になると人を支配する欲望という暴君が鳴りを潜め、やっと自由になれるから老年はよいものだと言っていた。じゃあこの光景はなんだ。プラトンはとんでもない嘘つきだ。

この観察からわかるように、おっさんは性欲から解放されないが、しかしその性欲はタブーだ。あまりに救いがない。

歳の差というのは、最後のタブー、最後のひとつになるほど、他のすべてに取って代わるほど、強力な最後の一線だ。 − ミシェル・ウェルベックある島の可能性

特に日本、あるいは東アジアの儒教圏には、年齢差があると友達ではないという意識があると思う。たった一年ずれるだけで、もう先輩後輩の関係になってしまう。だから、少し年齢が違う相手と仲良く接するという経験を積むチャンスがない。その歳の差の壁がSNSなどで破れたとき、あまりに不慣れで気持ちが悪いコミュニケーションをはかってしまう。

そしておっさんは、自分がおっさんだという自覚がないのだ。それもそうだ。時間の流れは体感的にはどんどん速くなるらしいから。きっと35歳くらいのつもりでもう50歳とかになっているのだろう。だからかなり意図的にライフステージを先取りして、もっと上の年齢のように振る舞わないと、年齢相当の振る舞いはできないのだ。だけどそれって悲しいことだ。意図的にどんどん若さを捨てていかないといけないということだから。若さを保ちながら、尊敬できるおっさんになるにはどうしたらいいのか?


老害という言葉は好きではない。でも、言いたい気持ちはとてもわかってしまう。けっきょく、おっさんのさまざまな弊害に対して、何もおっさんの強みが見出せないのだ。いったい、若い人にできない何ができるというのだ? どうしたら、魅力的なおっさんになれるのか?

仕事をがんばれば中身のある円熟したおっさんになれるというのは間違いだ。反例は挙げるまでもなくたくさん見つかるだろう。仕事をたくさんしてきて、けっきょく何も中身が詰まっていない薄っぺらいおっさんがいかに多いことか。

じゃあ単調な仕事じゃなくていろいろユニークな経験を重ねればいいのかというと、それも間違いだ。おっさんの武勇伝聴いたことあるでしょう。うんざりしたことあるでしょう。けっきょく、珍しい経験やすごい経験をしていても、それじゃあ豊かなおっさんにはなれないのだよ。

けっきょくのところ、何をやろうが歳をとるとどんどん後ろ向きになってしまう。未来が先細りしていくから、そのぶん過去にすがらないと、自我を維持できないのだろう。だんだん自分が時代遅れになってきて、使えない存在になってきたとき、過去の思い出に浸って自尊心を保つのは、必要な防衛反応だろう。歳をとると、みんな後ろ向きになる。それは好き好んでやっているわけではなくて、そうせざるを得ないから。

むしろ、キャリアなんてつまない方がいいのかもしれない。5年とか10年にいっぺん、キャリアをまるっきり切り替えて、新しいことをはじめて、若い人に教えを請うべきなのかもしれない。そうしたら、いつまでも未熟者という気持ちでいられて、老害にならないですむのかもしれない。

人は木のよう、と言えるかもしれない。木々が集まって森ができるけど、ときにはあえて去らないと、そこに次の苗木は育たない。だから、いつまでも同じ場所に留まったら老害になってしまう。

でもけっきょくは、老害になるのはもう避けられないんじゃないかと思ったりもする。もう、むりだよ。しょうがない。受け入れるしかない。逆にそれを防ごうとするあまり必死になるほうが、かえって見苦しいかもしれないし、そもそも老害になるかどうかとかをやたらと気にするのはもうやめたほうがいいんじゃないだろうか。

やっぱり、おっさんになるのがこわい。