セカイはシステムでできている

この世界は、誰か個人とか、あるいはあるグループの意思で動いているわけではない、というのが最近の持論だ。この世界は、システムでできている。それは、実効的にコントロールする支配者を持たない。それは社会全員の意思の総体ではない。もっと超越的で、誰もコントロールなんてできていない。

戦争が起きるのも、金融危機が起きるのも。独裁者の専制だって、すべてシステムの歯車が噛み合った結果だ。個人をすげ替えても、何も変わらない。その一人を始末しても無駄だ。そもそも、独裁者は決して「独裁」なんてしていない。例えば軍部を手厚く遇して機嫌を取らないと、すぐにクーデターで吊られてしまう。その軍部にしたって、内部での力のせめぎ合いがある。構成員一人ひとりの思惑、欲望、生存上の要請、それらが織りなす制約の網。誰一人、状況を実効的にコントロールできてはいない。

だからもちろん、トランプが、安倍が、とかナンセンスでしかない。あるいは差別だって、誰一人そうしようとしているわけではない。構造が、人をして差別をさせているのだ。あなたが差別をしていないのは、たまたまあなたに差別をさせる力が働いていないから。人は単に、斜面の低い方に転がるボールのような存在。その動きを見てあれこれ言うのではなくて、地面の凸凹を作っている力に目を向ける必要がある。それは、要素の総和を超えた複雑系としてのシステム。システムは個人の感情の総体によって動いているわけではない。感情がシステムに作られている。

生命現象なんてその極みでしょう。アリの巣はどうやって成り立っているか? 何らかの意思があるか? 全体をまとめる司令部はないのに、ごくごく単純なシグナルによるコミュニケーションを通じて、総体としてきわめて複雑な機能を実現し、生存している。人間社会もそれと同じ。どうせ、人が何を思っても、たいして他人には通じていない。三色の信号機でも頭につけておけば、それで十分なんじゃないだろうか。

なのになんで人は、人間社会は自由意志によって駆動されていると思い込んでしまうのだろうか。それはもしかしたら、人に名前をつけたことによる過ちなのかもしれない。だから、個人を単位として扱ってしまう。本当は恣意的なものにすぎないかもしれないのに。数人の繋がりをひとかたまりにしてもいいはずだ。あるいは誰々の口が、誰々の心臓が、誰々の満腹の胃が、とか器官単位で見てもいい。はたまた誰々の腸内細菌のこの部分が、とか言ったっていいのだ。なのに、なぜか「個人」が絶対的になり、個人の自由意志という神話がなぜか本当のことだとされている。

もしかしたら、私たちは『ハイペリオン』(サイモン・シン)に出てくるビクラ族のように生きるべきだったのかもしれない。彼らには、個々人の名前がない。名前がなければ、個人という単位に原因を帰すことができない。アリの集団には個体の名前をつけないから、もう少しフェアに見ることができている気がする。

システムの力には抗えないから、自分の意思で社会のあり方を変えようとしても無駄だ。政治、経済、宗教、教育、全体主義、戦争、差別、流行……。その他なんでもいい。つねに変容していくものではあるが、そこに影響を及ぼすことはできない。だいたい、他の人だってばかではないのだから問題くらい分かっている。それで変えようとして、人生を捧げて、でも何も変わってないのだ。システムの力学は、人の意思を超越している。

変えられない理由は、表出する力は、よそで大きな力が働いた結果だからだ。関係ないところでよりたくさんの人が押しているところと、あなたの問題が出っ張ってくるところは、水面下でつながっている。関係ないと思っていた人の欲望とか、あるいは善意とかが、結果としてそこに集中している。だから、正面から押さえ込もうとしても上手く行くはずがない。せめてうまく行くとしたら、そういう隠れた力の構造を暴き、その働く方向をそらしてやることしかない。

特に長く存続しているシステムの中には、自己保存に長けたものがある。それは進化の産物だ。ミームと呼んでもいい。そういうものは、厳しい生存競争を経た選りすぐりの生き残りだ。そんなものと勝負したら、人間の一生くらい簡単に吹き飛ばされてしまう。

今日はこれくらいにしておくことにしよう。思ったよりも衒学的になってしまった。