教養とは何か

今朝シャワーを浴びながら、教養とは何だろうと考えていた。その結果、教養とは次の3つで考えればいいのではないかという考えに達した。例によって先行研究は特に当たってなくて、今までどこかで見聞きしたことと自分で考えたことをごたまぜにして書くが、まあ日記なのでいいとしよう。

1. 役に立たないことに意義がある教養

いきなり何を言っているのかと思うかもしれないが、伝統的な意味での「知識人の教養」というものは、役に立たないその一点において逆説的に価値が生じているものではないだろうか。それこそが貴族階級と労働階級を分け隔てる最大の違いだからだ。役に立つこと、例えば数学がけっしてこの意味での「教養」において重要な位置を占めないのは、それが役に立つからであり、ゆえに労働階級がそれを現に学び活用しているからだ。他方、哲学や文学はそれが役に立たないゆえに日々の糧となる実学を志向する労働階級には手が届かない贅沢品であり、だからこそ富を持ち、労働に追われずに余暇を楽しめる貴族としての地位を示すシグナルとして機能するのだ。

この教養は細分すると2種類に分けられる。教養として定められる知識の内容そのものは同じだが、それを披露する対象が異なる。

1-1. 「内輪」シグナルとしての教養

おそらくもっとも素直に理解しやすいのが、相手と知的に同レベルにあることを示すための道具としての教養だ。ある種の「上流社会」においては、特に西洋の古典や近現代の思想・文学・芸術に通じていることがメンバーシップの条件であることがある。それを持つものは「内輪」としてその階級にあることが認められるのに対し、持たなければ庶民であって、よそ者であるとされる。例えばシェイクスピアのセリフをもじったジョークを誰かが飛ばしたときに、周りが笑っているのに自分だけ何もわからないで固まっていたら、その場に属せていないことは明白だ。

こういった、人間集団を形成するためのコードとして特定の知識を要求し、その有無によって内外を峻別することは別にこういった「教養」のある上流階級に限定されるものではない。例えばオタクコミュニティにおいては、最近の、あるいはしばらく昔のアニメのセリフを知っていることが相当するコードであり、それを持つものはメンバーシップを認められる。あるいはヤンキー的コミュニティにおいては、ギャンブルの話とか、風俗の話とかが通じることが条件であろう。けっきょくのところ、どんな集団でもこういったコードは存在するのだろう。ただ、上述のように伝統的な貴族的階級が差異化のためにコードとするのは彼らしか習得できない類の知識であり、それが「教養」と呼ばれるようになっただけの話だ。

1-2. ハッタリ、マウンティングとしての教養

上で挙げた教養は相手が知的に同程度にあることを前提としていたが、ここからスピンオフすると思われるのが、相手よりも自分が格上であることを示すための教養。いわゆる「教養のある人」的なしゃべりを大衆に向けてする人が持っているところの教養だ。偉い人、学識のある人、国のリーダー、そういう人々がスピーチをするときに、古今東西の賢人の言葉を引用して語る。これは簡単に言えばハッタリのための教養、あるいはマウンティングのための教養だ。虎の威を借る狐という言い方をしてもいいかもしれない。それほど「高尚な」知識を持たない大衆を相手にして、自分が余裕のある貴族階級に属していることを示すと当時に、自分が知識人であり引用するような過去の偉大な人物に近い存在であることを示すことにより、自己の権威を増大させる。このような教養は、力を持つ立場にある人間には必要なものだろう。そうでないと舐められてしまう。

ここまで見てきた「教養」は日本の近代化の歴史の中で、西洋貴族階級への憧憬とともに見出されてきた教養の定義ないしは性質であるように思う。これらは、良いとか悪いとかいう問題ではなく、たしかに必要な教養だと思う。ただ、そのことに本当に価値があるのだろうか。単に偶発的な現象として価値があるように見られるようになって社会が固定されただけで、少しばかり初期値を動かしただけで1まったく別の種類の知識が教養とされる帰結になっていたのではないだろうか。

けっきょく、歴史上の偉人だって、その歴史を作り上げてきた人々が代々がそう考えてきたから偉人とみなされている。ソクラテスなんてただの変質者として忘れ去られてもいいのだ。ただ、力を持った階級が偉人だとみなし続けてきたから、そう信じ込まれているだけだ。"1984"でGeorge Owellはいいところを突いている。

Those who control the present, control the past and those who control the past control the future. だからきっと、オタクが世界の覇権を握ったら、古今東西(?)のオタクコンテンツの中の名作が世界の偉大な精神による偉大な創作物であり、世界の歴史を形作ってきたという解釈が語られるだろう。荒唐無稽なのはわかっているが、ここで言いたいのは現実もこれと同程度のものだということだ。

次に、少し違う観点から現代によく言われる教養の定義を見てみることにする。

2. 役に立つことに意義のある教養

最近になってときどき教養教育を持ち上げるような記事を見ることがある。だいたいうさんくさい経済誌にうさんくさい人が書いているものだ。教養、というよりはリベラルアーツ教育の価値として挙げられることが多いかもしれないが、ここでは区別しないこととする。

さて、その教養というのはプラクティカルに役立つ汎用的ソフトスキルとしての教養だ。批判的に思考することができる。いろいろな考えを持つ人とチームで協働することができる。プレゼンテーション・コミュニケーション能力に長ける。学ぶスキルが高く、将来にわたって新しいことを学んでいくことができる。特定の専門に閉じた知識にならず、融合的な知を獲得している。問題解決能力に優れる。それらの結果として、イノベーションを起こすことができる。だから日本に必要なものはこれだ、そしてアメリカが強いのはこういう教育をしているからだ。そんな話をよく耳にする。

しかしこれは教養の定義としては安易に過ぎるのではないだろうか。要するに役に立つスキルを身につけろと言っているだけなのだ。でもそれだったら、いくらでも代替の方法があるだろう。例えばエンジニアリングをしっかり習得すれば同じことができるのではないか。何かを作るためには新しい知識を基礎的なところからしっかり学ぶことが必要で、それによって自分の持っていない知識にアクセスして習得するというスキルが身につけられる。そして学んだ知識を統合し、活用し、さらにチームとして成果物を生み出すには、知の融合、コミュニケーション能力、問題解決が必要だろう。そして社会の需要を探り、社会に成果物を売り込む必要もあるから、プレゼンテーションやイノベーションにつながる能力も涵養されるだろう。さて、ここで教養とはなんだったのだろうか? 別にエンジニアリングに限らない。実学的な学びをして、プロジェクトを回していけば同じだろう。教養とは、そうやってビジネス上のサイクルをリーダーシップを取って回していけるスキルなのか? だとしたら、うまくいった実業家は定義より教養人であるということになるのか? それはいささか不自然な解釈に思われる。

3. 人間性向上のための教養

最後に挙げる教養は、自己は何者であるか、他者は何者であるか。そして世界はどうやってできているのか、正義とは何か、善くあるとはどういうことか。そういう問いを立て、いろいろな観点から考えられるようになるための教養だ。こういう言い方をすると哲学っぽくなるし、実際哲学や文学が占める領域は大きいだろう。しかし、決してそれが全てではない。現代においては自然科学、数学、情報科学といった分野なしに世界を理解することはできないし、生物である我々自身を理解することもできない。同時に、経済学は資本主義社会を捉える上で必須であるし、行動経済学や心理学から人間行動を知ることも欠かせない。

もう少し具体的に描写するために、聞きかじって感心した話を書いてみることにする。中世ヨーロッパでの高等教育カリキュラムではヘブライ語が占める時間数が大きかったのだという。それは、世界は旧約聖書に書かれたようにあるとの考えが支配的で、だからこそ旧約聖書の原典を読むためのヘブライ語教育が必要だったのだ。しかし、数世紀が過ぎてその時間はほとんど数学に置き換えられた。それは、啓蒙思想の普及とともに世界を理解する方法として数学の方が中心的な立場を占めるようになったからだ。これがまさにここで言いたい教養の意味合いだ。

こういった教養は、別に身につけることが金になるからやっているわけではない。ただ、人間としてよく生きるために知るべきものだからだ。それは、人間として生きるということは理性的に生きるということであるという心情に基づいている。

どの教養に本当に価値があるのか

ここまで三種類の教養を見てくると、それぞれずいぶんと違いがあることがわかる。

第一に挙げた役に立つための教養は、もともとは最後に挙げた人間性を育むための教養に起源を持つのだろうが、そこからだんだんそれていってしまったもののように思われる。

そういう「かっこつけ」のための教養は、けっきょくのところ、何も面白い必要もないし、何も人生の糧になる必要もないのだ。とっつきにくくて、難解で、楽しめなくて、それでいいのだ。むしろその方がいいのだ。だって、サブカルチャーのようにわかりやすく面白かったら庶民もアクセスしてしまうから。だからハリーポッターはどこまで行っても教養にはなれないが、たいして時代を経ているわけでもないフランスの20世紀ポストモダン思想は早くも教養の仲間入りをしているのだ。

その意味で、「西洋エリートと互角に話せる教養」とかいうものがくだらないことがわかる。それは鹿の角と同じだ2。何の役に立つわけではないが、それが強さのシグナルであるといったん決まってしまったら、どんなに邪魔で役立たずでも伸ばしていくしかないというだけ。その不毛な競争に参加しなければならない場面はあることには同意するものの、そこに本質的な価値があるように考えるのは、鹿の角を見てそれがさぞかし便利な機能を持っているに違いないと思うのと同じくらい、端的に間違っている。

だから気をつけなければならない。”the great books”みたいな形で言われる教養は、往々にしてハリボテであることに。実はみんな理解できてなくて、でもわかったふりをしないと恥をかくから賞賛しているだけだったりする。それに、けっきょくのところアジア人である日本人がそれを身につけても、本当に西欧のハイ・ソサイエティに入っていけるかどうかはきわめて疑わしい。

第二に挙げた教養は第一の教養とは根本的に対立するものだ。あくまで道具であって、本当に価値のあるものではないという点では共通しているが、その働きが全く逆方向であり、これは労働者や経営者、つまりは働かなくてはいけない人たちのための教養であり、働かなくてもいい階級のための教養とは違う。伝統的なヨーロッパの貴族のための自由七科と混同すると議論がずれるし、日本近代化期に輸入された教養の概念もまた限られたエリートのための教育を志向しているため、根本的に起点が異なり、ゆえに互換性のない考え方であることに留意する必要がある。

その点でアメリカ的なリベラルアーツ、特に大学の大衆化に伴い変遷しつつあるその思想を参考にすることは的確であると言えるかもしれない。しかしそれにしても、単に役立つことを求める意味はどこにあるのだろうか。上述したようにいくらでも代替が効いてしまうものであると同時に、大学という機関で行う必然性も見出せない。もちろんきわめて有用なものであろうとは思うが、それを日本に導入するという文脈においてはとりわけ、「根がない」感が醸し出される。思想・価値感の面での土台がないまま便利なところだけ輸入しようとするのは、戦前に犯した過ちではないのか。別に全部西洋に染まることがいいと思っているわけではないが、あまりに軽薄に思われる。

ただ、だからと言って第一の教養のタイプ、古臭くて偉ぶったような考え方に与するわけではない。私は断然最後に挙げた教養こそが教養であり、価値のある教育だと考える。聖書から引用され、国会図書館にも刻まれている”The Truth Shall Set You Free”もこのような考え方に基づくものだろう。すなわち、無知蒙昧であることの制約から解放され、卑しい欲望を捨て、人類の知に手を伸ばし、そして自他を理解していく存在。それこそが自由な人間であり、本当に人間らしい生き方をしている人間だろう3

その過程で、スキルとしての教養が必要になる部分はあるかもしれない。ただそれはあくまで道具であって、価値そのものではない。そして前半に挙げた教養もまた場面によっては便利に活用できることはあるだろうが、この観点ではあくまで恣意的・偶然的にそういうものが教養とみなされるだけであって、それらの知に内在にする性質に基づいて教養となっているわけではない。

けっきょくのところ、「善く生きる」という考えを持つかどうか、持つとしたら何が「善い」のかという答えの出ない問いの上に立っているから、この問題は難しいのかもしれない。

そしてこの意味では、教養は古典的な名著とか、お堅い本に限らず、もう少し幅広く捉えてもいいのではないかと思う。最近、『あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント』(鴻上尚史)という本を読んで「感情の教養」という考え方にいたく感銘を受けた。自分の感情がどういうときにどう変化するかを知っていて、それを適切にコントロールすることができる。それは教養と呼ぶにふさわしいし、よく生きるために、理性に導かれて生きるために身につけるべき力だと思う。


  1. ここで初期値と私が言うとき、微分方程式を勉強したことがあれば当然初期値問題による解の不安定性のことを指していることがわかると思う。こうやってさまざまな分野で見出された主要な概念を一通り共有していることは、コミュニケーションをより高度なものとし、複雑な概念を限られたコミュニケーションコストで伝えることを可能にする。毎回いちから概念を説明してはいられないのだ。こういう使い方は単なるコードとしての教養ではなくて、むしろ最後に挙げた世界理解を触媒する教養であると考える。

  2. これも注釈1と同様で、進化生態学を少し勉強して自然選択と性選択を知っていれば通じる概念を比喩的に導入している。

  3. もちろんこの考え方は理性偏重であるとのそしりを免れないし、ある種の選民思想でもあるかもしれない。だれもがこういった教養を身につけることができることは考えにくいし、そもそも身につけるべきであるとの主張に賛同を得ることもできそうにない。それなのにそれが普遍的な「人間の条件」であるような主張をすることは、裏を返せば多くの人が条件を満たしておらず、人間である程度が低いという言明になってしまうのだ。しかしこれは教育に常につきまとう二面性であろう。教育を徳であると称えれば讃えるほど、教育を受けていない者は野蛮であると蔑むことになる。このことが、教育がどうしてものぞかせる偽善性の原因かもしれない。